翡翠の騎士たち

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  15  

 失礼致します、と男の声が扉の向こうからした。
 サイラスは書斎の椅子にもたれかけながら、そちらに目も遣らずに言う。
「入れ」
 年代物の扉が軋んで、男が入ってきた。
 二十代半ばであろう、凛々しい眉と見るからに真面目そうな表情の男だった。髪はやや青みがかった黒で、身長は高い。身にまとっているものはいずれも素晴らしい素材と作りの一級品で、頭の天辺から爪先まで完璧な貴公子だった。
 彼の灰色の目は、どこか緊張感を帯びている。男は恭しく一礼した。
「かような夜分に、失礼致します」
「構わないよ、フェイアント卿。どんな用件? 私の手が必要かな?」
 相変わらず、サイラスの目線は机の上に置かれた本に吸い寄せられている。
 ずばりと切り出したサイラスに、フェイアント卿と呼ばれた男は頷く。
「一大事でございます。オリムの事をご存知でしょうか」
 サイラスはその単語に、ゆっくりと視線を動かした。フェイアント卿はその反応に、重々しくため息をつく。
「もう少し早く、力をお借りするべきでした」
「何があった?」
「例の裏切り者――始末を致し損ねました事はご報告したと思いますが」
「知っている。奴が何か?」
「オリムの密輸の件と、奴が関わっているようなのです」
「何?」
 サイラスが、初めて顔を上げてフェイアント卿を見た。
 クロノアと相対していた時の、柔らかな面差しは影も形もない。鋭い視線がフェイアント卿を射抜く。
「奴が、オリムの城主を、ベルナール男爵を唆しているというのか?」
「は。ベルナール男爵から声をかけた可能性もございますが……」
「それはどちらでもいい。今は問題を解決する方が先だ。奴が手を組んだというのなら、それはもはや立派な反逆罪だ。ただちに兵を動かすべきだろうな。今、自由に動かせるのは?」
「しかし――レイヴィアス様」
 フェイアント卿が呼んだ名前に、サイラスは眉をひそめた。
「フェイアント卿、私がこの屋敷にいる時はその名で呼ぶなと言ったはずだけれど?」
「申し訳ございません、殿下」
「殿下もなしだ」
 うるさそうにサイラス――レイヴィアス第二王子が言う。フェイアント卿は叩頭してもう一度謝罪した。
「――とにかく、今すぐ君ができる範囲内で兵を動かせ。ああ、オリムの近隣には、スペンサー公爵領があったはずだな。スペンサー公爵に連絡、ただちに私兵を動かしてオリム城主ベルナール男爵を反逆罪の名目で……」
「しかし、サイラス様。オリム城主は民に慕われています。それを反逆罪と言うだけで無断で処断してしまっては。そもそも、あの裏切り者の罪状を明るみに出す事はできません」
「では大神院長の許可を待つか? 王族会議にかけて決議を待つか? 証拠など、いくらでも捏造できるだろう。それよりも、これから起こる事を未然に防ぐ方が先だ」
 世間知らずの第二王子に、フェイアント卿は密かにため息をついた。
 そこまで簡単にいけば、苦労などしない。
 理想も信念も分かるが、それだけではこの世は渡っていけないのだ。
 いつもならここであの男がサイラスの考えをたしなめてくれるはずなのだが。
 そう考えて、フェイアント卿はふと違和感を覚えた。
 そうだ、おかしい。何故、あの男に言わないのだ。これこそ、彼に適任のはずなのだが。
「サイラス様。失礼ながら、彼はどちらに?」
「……彼?」
「――申し上げずともご存知のはずです。……近頃所用とかで姿を見かけませんが――まさか、サイラス様。あの者を私事でお使いになっているのではありませんな?」
 サイラスは答えない。
「さらに畏れながら申し上げれば、ユーリー殿の姿もついぞ拝見しておりません。よもや、それに関係が?」
 サイラスは完全に平静を装っていたが、社交に長けたフェイアント卿の目は誤魔化せなかった。
 今度こそ隠しもしないため息をついて、フェイアント卿は恨みがましさを込めて第二王子に言う。
「殿下とあの者が友という関係である事は存じておりますし、私個人としても殿下にそのような気の置けない者がいる事は喜ばしく思います。ですが、殿下。このような事があっては困ります。あの者はあくまで神殿騎士団の一員であり、臣下の一人であって、その身分には違いがあるという事をお忘れなきよう」
 フェイアント卿が釘を刺すと、サイラスも憂鬱そうなため息をついて頷く。
「分かっている。――ただ、今回の事で、私が動かせる人員はあまりに少なかった。だから、クロノアに頼んだ」
「彼も、それを分かって行ったのでしょう。それで、どちらに向かったのです?」
「オリムだ」
 フェイアント卿は僅かに眉を動かし、そして深い笑みを形作った。
「なるほど、それは好都合ですな」
「だが、ユーリーがあの城に捕らわれている」
「彼はそれを助けに行ったのですか、なおさら好都合です。証拠はいくらでも捏造できると仰いましたが、これでその必要もなくなりました」
「……フェイアント卿。それはユーリーやクロノアを見殺しにしろと言っているのか?」
「そうすれば、事は簡単です。フェルディナンデス伯爵はさぞお嘆きになるでしょうが、ベルナール男爵は間違いなく窮地に立ち、万事うまくいくでしょう」
 フェイアント卿が揶揄するような口調で言う。サイラスはそれを冷え冷えとした視線で見下ろした。
「断じてそれは許さない。彼らは私のために命を懸けてくれている。それをそう易々と裏切るのは、できない」
「確かに、まだそこまで切羽詰まった状況ではありませんな」
 フェイアント卿はサイラスの語調に、あっさりと自分の提案を翻した。
「しかし、今直ちに、というのはできかねます。裏切り者の罪状を確かにするための布石を打ち、その上で、彼らの帰着を待ちましょう。彼らが証言すれば、それだけで確かな証拠になります」
 にこりともせず進言するフェイアント卿に、サイラスは表情のない笑いを浮かべる。
「……貴殿の頭の回転は、さすがにクロノアが嫌いながらも認めるだけの事はあるね」
 第二王子の皮肉に、フェイアント卿は初めて愉快そうに笑い、頭を下げた。
「それは、何よりの賛辞でございます」




 同刻、オリム城内に潜入しているクロノアは、小さな息を吐き出した。
「……っくしっ」
 神経過敏になっているアーサーがびく、と肩を揺らして振り返り、睨む。
「――悪ぃ」
 両手をあげて小声で謝ると、アーサーはため息混じりに唸った。
「気をつけろ」
 肩をすくめて、クロノアは顎で前方を指す。
 アーサーは頷いて、す、と右手を上げた。
 その指先に鳥が止まり、アーサーの見る世界を引っ掻き回す。いい加減この感覚にも慣れてきた。
「――いける」
 小さく呟いた言葉に、クロノアは頷いて風のように動いた。
 音も立てず、暗がりの中を駆けて階段を上っていく。ぴたりと壁に張り付き、数瞬で周囲を確認し、指を立てた。
 それを見てアーサーも動いた。
 見張りがいない事を確認し、アーサーが合図する。クロノアが先に動き、本当に危険がないかを確かめてからアーサーを呼ぶ。
 その手順を繰り返し、二人は密かに主塔の中に忍び込んだ。二人という少人数だからこそできた芸当だった。
 警備兵の交代の隙を突き、闇から闇へと走る。何よりも大変なのは、その隙ができるまでずっと身を潜めている事だった。
 この数日でさすがに鍛えられたとは言え、忍耐力を必要とされる。
 自分の鼓動さえ見張りの兵たちに聞こえるのではないか、と緊張が全身を支配する。今日は難事に挑むのだからなおさらだ。
 じわじわと時間と暗闇が体力を削っていく中で、二人は慎重に少しずつ主塔の中を進んでいく。
 階を進む毎に警備は厳しくなり、この道はいけないと判断して引き返すのも一度や二度ではなかった。
 だが、確実に二人は目的地へと近づいていく。
 三度階段を上った所で、二人は顔を見合わせた。ここが主塔で最難関の、城主の部屋があるはずの辺りなのだが、
「……やけに静かだな」
 独り言のように囁いたクロノアに、アーサーも頷く。
「どうする?」
 何かの罠と見てこのまま引き返すべきか、それとも進むか。
 クロノアは逡巡し、思案するように眉間に皺を寄せた。
「……行こう」
 ためらったのは僅かな間。
 次の瞬間には、強い意志をこめた瞳で前を見据えていた。
 クロノアは、静けさの中を滑るように歩きだす。アーサーもそれに続いた。
 しばらく同じ階を歩き回るが、ほとんど人間がいない。見張りの兵にしてもお粗末なもので、欠伸を噛み殺している始末だった。
「……罠にしても、変じゃないか?」
「確かに……気配が少なすぎる」
 突破し易いと見せかけるために兵の数を少なくするにも限度がある。
 回廊の端に申し訳程度に置かれた兵を見ながら、クロノアはふとその可能性に気づいた。
「――これは、ひょっとしていないんじゃねえか?」
「何が?」
 互いに、息をつくくらいの小さな声を取り交わす。それでも聞き逃さないのは、極度の緊張で研ぎ澄まされた神経故か。
「男爵だ。あいつ自身がいなければ、ここまで警備が緩い理由も納得できる」
「……だったらこのまま続ける意味はないんじゃないか? 男爵の居室がこの付近にないなら、ユーリーが監禁されている場所も」
「いや、俺が言ったのはそういう意味じゃない。居室は間違いなくこの階だ」
「何故そう言いきれる?」
「城ってのは、どれだけ工夫を重ねようが結局のところ変えられない場所があるのさ。見張り台を下に置く奴はいないだろ?」
「当たり前だ」
 それでは用を成さない。不審者を見張れない見張り台に意味はない。
「それと同じだ」
 有無を言わさぬ口調でクロノアは会話の終了を告げる。
 一体どういう事なのかアーサーにはいまいち理解できていないが、クロノアが絶対の自信を持っていることは間違いない。
 ならばそれに従うだけだった。
「男爵はいない。恐らく、誰かに会いに行って今夜は戻らないんだろう。だから、警備の兵が少ない」
「あからさまに少なすぎはしないか?」
「罠にしてもお粗末だ、って言ったのはお前の方だぜアーサー。どっちにしろ、ユーリーがこの付近にいるならありがたい。アーサー、お前は予定通りユーリーを探してくれ」
「お前が囮になる必要はなくなったんだ、一緒に探した方が効率が良いだろう?」
「……嫌な予感がする」
 クロノアは佩いた剣の柄を握り締め、呟くように言った。
「今夜は静かすぎて何か騒がしい。男爵が誰と会ってるのかは知らねーが、引っかかる。後は頼む、アーサー」
 そう言って回廊を戻ろうとしたクロノアの裾を、あわててアーサーは掴んだ。
「待て、お前はユーリーを助けに来たんだろう? 予感程度で救えるかもしれないものを自ら放棄するのか?」
 非難めいたものが混ざってしまったと気づいたのは、言い終えてからだった。
 だが、クロノアはそれに対して何の反応も示さなかった。予想に反して、返ってきたのは冷め切った硬い声。
「俺はな、アーサー。神殿騎士団の一員だ。旧知の奴より、優先させなきゃならねえ事もあるんだよ」
 その硬質さに驚いて、思わず裾を掴んだ指が力を失った。
 一瞬のその隙に、クロノアは素早く身を翻していた。
 呼びかけようとしたアーサーの口を封じたのは、奥の通路から聞こえてくる足音だった。
 やむなく、通路に飾り物として陳列された鎧の影に身を隠す。
 足音の主は巡回の兵らしく、暇そうに欠伸をしながらふらふらと歩いている。アーサーに気づきもしない。
 それをやり過ごしながら、アーサーは内心で文句を言った。
(俺は隠密でも密偵でも間者でもないんだぞ!)
 魔法が使えるだけが取り得の神官に、あの男はどれだけの難題を押し付ければ気が済むのか。
 個人的に追加料金を徴収してやる、と八つ当たりのような決意をして、アーサーもこの数日で慣れ親しんだ隠密行動へと移るために立ち上がった。
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