翡翠の騎士たち

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  16  

 クロノアの予感は的中していた。
 その頃、オリム城の裏門を密かにくぐり、入ってきた人物が二人いる。
 二人ともフードを目深にかぶったいかにも怪しい風体なのだが、城主直筆の通行許可証があり、例えどんな時間だろうとこの者たちを通せという文章まで添えられていてはしょうがない。
 その二人は案内も断り、勝手知ったる庭を歩くように足早に去っていった。
 一人、やや小柄な体格の人間の方が前に出て、背の高い方の人間を先導するように歩いていく。
 巡回の兵に見咎められれば、黙って男爵家の紋章が捺されたその許可証を見せた。
 しばらく歩き続け、やがて辿り着いたのは見張りすらいない木造の小屋だった。
 薪の貯蔵をしておく物置として使われていたが、老朽化したために取り壊し予定になっている小屋だ。
 中身も新しい小屋に移し変え、誰もいるはずがないが、この日は中に人間がいた。
 この寝静まった時間帯、厳重に守られている主塔の最も守りが堅い場所で眠っているはずの男爵が、小さな燭台に明かりを灯して待っていた。
「男爵、お久しぶりでございます。ただいま戻りました」
 小柄な男がフードを取り去り、男爵に叩頭した。四十は過ぎているだろう、白いものがこめかみに混じり始めている。
 鼻が大きく、目が中心に寄りすぎていて、お世辞でも美男とは言い難い。
「うむ、ご苦労」
 しかし、男爵は中年の男の顔など頓着せず、未だにフードをつけたまま佇んでいる背後の人物に視線を注いでいた。
 その人間は、何かに気づいたような声を発するとようやくフードを片手で乱暴に払いのけた。貴人の前であるという遠慮などない、傲岸な態度だった。
「申し遅れた、マークド皇国ジークフリート騎士団所属、ベイフォード卿――竜騎士ジャック・ラトレルだ」
 自己紹介した声にも敬意の響きは微塵もない。敵国にあって、いつ自分の命を奪われるかも分からない恐怖の欠片も窺えない。
 何かを削ぎ落としたような、それでいて静かで張りのある、凛とした声音だった。
「ベルナール男爵に、皇帝陛下より密命を預かって参った。口頭で伝えよとの仰せだ、よろしいか?」
 蝋燭の僅かな光に照らされたその顔は、美男と呼ぶにふさわしい青年だった。二十歳になるかならないかの若々しさと顔の端整さは、中年の男の隣に立てばなおさらに引き立つ。
 体躯は堂々としていて、引き締まっている。肩で結ばれた髪は鋼の光沢を持つ銀色、男爵が思わず息を呑んだのは、瞳の色が違ったからだ。
 右の目こそ深い藍色だが、左は血のように紅い。
 思わず凝視してしまう位には奇異だった。顔立ちが整っているだけになおの事である。
 ジャック・ラトレルはにこりともせずに言った。
「私の瞳がおかしいのは生まれつきだ。見世物のように見られる事には慣れているが、今はそれよりも大事で早急に済ませるべきものがあるのではないか、エトナ殿」
 ベルナール男爵、ユアン・エトナは気まずさを誤魔化すために咳払いした。
「いや、失礼した、ベイフォード卿。確かに、卿のその瞳の色は、この世に二なき証である。皇帝陛下も一目見て分かるよう、信頼の証として貴殿を交渉に遣わしてくださったのだろう」
 ベイフォード卿の片頬に、皮肉そうな笑みが浮かぶ。
 だが、それもすぐに打ち消された。
「では、交渉に入ろうか」
 月と蝋燭の僅かな光の中で、密かな会話が始まった。




 錠前のついている部屋を探す、それがアーサーの当面の目標だった。
 どこの部屋がユーリーの監禁されている場所かなど、全く見当もつかない。魔法を使った離れ業をしてみせるのは得意だが、こんな事は不得手もいいところだ。
 物置か何かに偽装しているはずだ、とクロノアは言っていたが。
(それにしてもこれは……きついぞ)
 鳥たちを先導させるまでもないくらいに見回り兵の数は少ないが、その代わりのように部屋数がやたらと多い。
 恐らくは外敵を惑わせるためだろうが、ややこしい事この上ない。
 廊下のつなぎも複雑な作りになっていて、鳥たちの助けがなければ迷ってしまいそうなくらいだ。
 錠前がつけられ、内部から出られないようになっている部屋がこの付近にあれば、それがユーリーの部屋だろう。
 何度目になるか、巡回の兵を物陰でやり過ごした。
 夜明けが近いと、体の感覚が教えている。
(まずいな……)
 アーサーが焦りだした時だった。ふと、見上げた先のタペストリーが目に付いた。
 思わず目を擦る。
 何という事もない、石の壁を彩るタペストリーである。孔雀が美しく織り込まれたそれは職人技の成せるものだろうが、アーサーはそんな事に興味はない。
(馬鹿な……っ!?)
 思わず駆け寄って、その布地の表面に触れる。
 紫色の羽根に指が触れた瞬間、その孔雀が顔を歪めた。絵の中にあるまじき事ながら、目玉が動いてこちらを見たのだ。
「!」
 半信半疑の天秤が一気に傾き、確信へと変わる。それでも混乱は収まらない。
 馬鹿な、という思いが、その言葉を口に上らせる。
「これは魔法……!?」
 アーサーを含め七人、このクラナリアにたった六人の同志たち。
 記憶している彼らの魔法とは、これは違う。使う魔法には、その魔法使い独特の気配が滲み出る。友人の顔を忘れないように、アーサーは彼らの魔法の気配も忘れない。
 だが、この魔法は、覚えている誰のものとも違う。
 しかも、これも感覚的なものだが、この魔法はかけられて新しい。瑞々しい、と表現するのがふさわしい気配が伝わってくる。
 それが意味する事は、一つ。
(まさか……俺たちの他に生き残りがいるのか!?)
 愕然とする暇は与えられなかった。絵の中の孔雀が、こちら側に飛び出てきたのだ。
 声を出さなかったのは奇跡的だった。アーサーは目の前の孔雀が蠢くのを感じた瞬間、咄嗟に後ろに飛び退いた。
 一拍遅れて絵の中から、ずるっ、と生々しい孔雀の首が突き出る。その嘴は、必要以上に尖って見えた。
 一瞬遅ければ、間違いなく喉笛を食いちぎられていた。
 噛み付きそこねた事を無念に思うように、かちかちかちかち、と孔雀は嘴を鳴らす。
(……ちょっと、待て……!)
 ぞわっ、と一瞬で嫌な汗が全身から噴き出す。
 これは、もう探し人を見つける程度の問題ではない。
 アーサーが思うよりもはるかに深い闇の淵に、今まさに足を踏み入れかけている。
 それこそ、知っただけで命を狙われる羽目になる闇だ。
(あの男……っ! 知っていたな!?)
 アーサーは唇を噛む。おかしいとは思っていた。こんな隠密行動に、アーサーは徹底的に不向きだ。神殿騎士団の一員ならば、お抱えの密偵集団をいくらでも同行させる事ができるだろうに。
 何故、アーサーなのか。
 どうして、魔法使いなのか。
 答えは簡単だ。
(魔法使いが敵陣にいると、最初から分かって……!)
 だからわざわざ、神殿騎士団からの命令ではなく、得体の知れない外部を装って魔法使いを雇ったのだ。
 神殿騎士団が、魔法使いを雇う訳にはいかないからだ。
 魔法使いを忌み、恐れ、そのあまりに排除という形を取った、あの神殿騎士団には。
(あいつ……っ、後で殴り倒す!)
 それが実現可能かどうかはともかく、アーサーは拳を握り締めた。
 孔雀は壁に飾られた剥製のように、タペストリーから首を突き出して嘴を鳴らしている。
 近づけば喉を食い破ると言わんばかりの威嚇だ。
「……追加料金は、もらうからな」
 ――言いたくても言えない事もあるんだ。
 クロノアの、申し訳なさそうな、少しばかり憂えた声が甦る。はっ、とアーサーは笑った。どこか吹っ切れたような、苦笑混じりの笑いだった。
「これは先に言っておけ、大馬鹿野郎」
 普段の彼に似つかわしくない暴言まがいの愚痴を吐き捨てて、アーサーは握った指を解き、先を孔雀に向ける。
 今すぐ踵を返し、クロノアに伺いを立てる選択肢もあった。
 あるいは今まで何故騙していた、と責め立てる選択肢もあった。
 これを作った魔法使いの事が気にならないはずがない。
 だが、アーサーは目の前に現れた魔法の孔雀を排除する事を選択した。
 出会ってたかだか一週間の、相手は憎むべき仇の組織に属する傭兵。それも下手をすれば死ぬような事を意図的に伏せ、アーサーの欲しい答えは与えない、曲者。
 信頼はしていない。同情もしていない。それでもアーサーは、仕事の義務感以上の何かに突き動かされていた。
 その感情を何と呼ぶのか、それはアーサー自身にも分からない。
 腰につけた袋の中から、水晶でできた細長い六角柱を取り出す。掌で握りこめる大きさの水晶の先を、真っ直ぐ孔雀に向けた。
「月の光、大地の精霊、風の踊り子、笑え、歌え、紡げ、語れ。踊り狂って花を咲かせろ。我が名はアーサー・アーヴィング。魔法を行使し司る者なり」
 アーサーの髪が揺れた。静かに、見えない何かがアーサーの姿を揺らがせる。
 手に握った水晶の六角柱の内部が、光を帯びる。
「お前の相手をしている暇はない。十中八九、そこにユーリーとやらがいるんだろう? そいつを連れてとっとと逃げて、あの男を殴りに行くからな。邪魔をするな」
 がちっ、がちっ、と孔雀は優美な体の曲線に似つかわしくない音を立てて威嚇する。
 それを聞いて、アーサーは諦めのようなため息をついた。
「歌うは第七の歌、遥かなる旅路の向こう側、しんしんと積もる新雪の中、埋もれた灰色に祝福を――」
 旋律のような言葉が口から紡がれる。
 この大陸からはとっくに滅びたはずの、魔法使いの言葉が流れ出る。
 悪しきものを祓う、退魔の文句。
 詠唱の言葉に、孔雀は危機を感じたか、僅かに首を反らせる。
 だが、遅い。
 水晶の中からあふれ出した光が、まるで短剣のように刃の形を成して鋭く尖った。
 一歩踏み込み、アーサーは孔雀の首へとその水晶の光を振り下ろす。ひゅっ、という風切り音が鳴った。
 魔法で作られた、心無き孔雀の首が飛んだ。
 血すら出ない。一瞬で、孔雀は灰になった。窓から吹き込んだ風が、あっという間にその残滓をさらっていく。
 同時に、タペストリーが支えを失ったかのように下に落ちた。
 とさり、と軽い音を立てたそれを、アーサーは見もしない。
 視線の先には、タペストリーで見えなかった隠し戸がある。
 錠前はかかっていない。
 アーサーは一つ大きく深呼吸して、戸に手をかけた。
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