翡翠の騎士たち

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  18  

 朦朧とした意識で、アーサーの目は冷たい石の床を映していた。
 上の格子から、叫ぶようなユーリーの声が降ってくる。
 こちらの身を案じているのだろうが、それはきっと王国の秘事が暴かれてしまうからで、アーサー個人を心配しているのではないのだろう。
 こつん、こつん、と背後から足音が少しずつ、しかし着実に近づいてくる。
 くそ、と心中で毒づいた。
 全身が痺れて動かない。
 ぐらぐらと傾ぐ色のない世界の中で聞こえてきたのは、懐かしくも忌まわしい声だった。
 ――いいか。この私に拾われた事を幸運に思い、神に感謝しろ。
 誰だったか、と記憶の糸を探る間にも、足音は一歩、また一歩と近づいてくる。
 ――貴様らは悪魔の化身だ。日の目を見る事を許されざる、化け物だ。
 ああ、とアーサーは吐息する。
 これはアーサーが、世界を憎み始め、感情を押し殺した最初の日だ。
 神殿騎士団が、どうして村を襲ったのか、それを他人事のように聞かされて、何も出来なかった自分を嫌い始めた日。
 ――私のために働け。さすれば、腹が膨れるだけの食物と、寒さと暑さに怯える事のない生活を約束してやろう。
 どこまでも尊大な、見下した態度。
 それを普通と、約束された当然のものと思ってはばからない口調。
 レイトクレルという大都市において、ユレタ神院長の地位を授けられた男の声だった。
 神院長は、その地位にあってなお、満足などしなかった。
 だから、アーサーたちを拾って、王国の禁忌に手を出してまで、なおも金貨の山の夢を見た。
 ――貴様らは道具だ。
 知っている。そのために、俺は貴様に拾われた。
 ――病にかかれば治してやる。医者を呼んで診てやる。それは貴様らが、それ以上の金を生むと知っているからだ。
 そうだろう。後ろ暗い連中は、魔法を頼らざるを得ない連中は、請われればどんな大金でも払うだろう。
 アーサーたちにはささやかな嗜好品すら許さず、自分はその報酬で豪奢な金糸で縫い取られた服を纏う。
 ――死にたくなければ、言う事を聞いていろ。それが貴様らのためだ。
 ああ、そうだろう、知っている、分かっている。
(……理解なんて、しているに決まっているだろう)
 死にたくはない、決して望んで死にに行きたくはない。
 それでも、いつかは終わりが来る。魔法使いでも、悪魔と呼ばれても、化け物と言われても、アーサーは人間だ。
 簡単に死んでしまう、人間だ。
 心の中だけで、嘲笑を浮かべる。神院長と言えど、今このアーサーを助ける事はできはしない。
 ここで、諦めて、死ぬのか。
 それも一つの終わりの形か、と、アーサーが、肩の力を抜いた時。
 頭の奥で、違う声が甦る。
 ――強いて言うなら、お前の保身だ。
 境遇は違えど、同じように生きてきたはずの、あの男の声だった。
 同じように生きてきたはずなのに――あの男は、笑う。楽しそうに。愉快そうに。
 命が軽んじられている事を、身を持って知りながらも、死んでいれば良かったという言葉に本気で怒った。
 ――ああ、あの男は。
 こんな俺にも、まだ生きろとでも言うつもりか。
 呆れのような、泣きたいような、感情が入り混じった何かが喉元を熱く焦がす。
 ――似た者同士かもな。
 ――お前が、ガキの頃の俺にそっくりだと思ってよ。
 ――自分を大事にした方がいいんじゃねえのか?
 次々と、連鎖するように音が弾けた。
 ごほっ、と喉が音を立てた。
 ざりっ、と指先で音がした。
 アーサーが、床に爪を立てた音だった。
 それが剥がれる程に力をたてて、アーサーは歯を食いしばる。
 初めて、神院に買われて、飼われてから初めて、強く思った。
 こんな所で、死ぬものか。
 死んで、たまるか。
(ここで死んだら)
 ――ここで死んだら、あの男を殴りに行く事すらできなくなる。
 傾いでいた世界が、急速に色を取り戻した。




 鋭い剣戟の音が何回も交錯する。
 二人とも、盾は所持していない。己の剣を代わりにして剣を交えた。
 一撃の重さが増す代わり、危険も増す。
 達人と呼んで差し支えない技量同士がぶつかり、ぎりぎりの綱渡りを繰り広げる。
 実力は伯仲、しかし焦りに押されている分クロノアの方がやや劣勢である。
 何度も互いの位置が入れ替わり、その度に両者の神経は削れていく。
「……いい加減、疲れてきたんじゃないのか?」
 ラトレルの言葉に、クロノアは剣の柄を握り締める。肩が上下し、腕が引きつった。
 一撃がこれ程まで重く鋭い相手は、そういない。
「お互い様だ、竜騎士」
 言い様、足に力を込めて前方へ思い切り飛び出す。
 勢いをつけて振り抜いた切っ先を、ラトレルは紙一重でかわした。
 そのまま後ろに跳んで距離をとり、口を吊り上げ、言う。
「いつものように見捨てればいいだろう? 賢しい貴様には似合わない、随分と偽善的な選択だな」
 クロノアはその言葉に大きく息を吐き、いつものように、皮肉そうな笑いを浮かべた。
「自分でも――そう思う!」
 同時に、両手で握っていた柄から左手を外し、右手のみで突きを繰り出した。
 鋭い突きは、この期に及んで、片手だというのになお威力を失わない。
 ラトレルも避ける事に意識を集中した。
 その時。
 かちんっ、と留め金を外すような音がした。
 その発生源は、クロノアの左手の中。
 小刀か仕込み武器でも使う気か、とそちらに目を向けたその瞬間。
「うっ……!?」
 視界の半分を、強烈な黒が覆った。
 一体何が起こったのか確認する暇もない。
 左目が焼けるように熱く、痛い。
 その痛みの間隙を縫うように、重い一撃がラトレルを貫いた。


 クロノアは鳩尾にめり込んだ拳を下ろす。どさり、という音がした。
 気を失って倒れたラトレルを見下ろし、クロノアは乱れた息を整えた。
 その切っ先を銀の髪がかかる首に向ける。
 ここでこの男の命を絶っておくべきか一瞬迷い、そして静かにその剣先を引いた。
 殺すのは容易いが、それでは後々の禍根を残してしまう。密入国しているとは言え、敵国の最高位騎士である男を殺害するのはやりすぎだった。
 左の掌中に握っていたものを投げ捨て、鞘に刀身をしまう。
 ころころころ、と音をたててペンが地面に転がった。
 小さく加工された金属部分と木を接合させた、小型のペンである。中にはインクがたっぷり詰まっていた。
 オリム城地図作成の際に、かなり使ってしまってはいないかと案じていたが、意外に消費していなかったらしい。
 それを何の防御もしていない左目にまともに浴びたのだ、下手をすれば失明だろう。
 だが、それでも隣国が言いがかりにするには十分だ。
 心の中でしないように祈るばかりだ。
 そう思って踵を返す。
 目指すのは、同じ銀の髪の青年の元だった。




 アーサーはぐらつく世界を無理やり抑えこんで、壁を支えに立ち上がった。
 年がいった男の声がそう遠くない所から聞こえる。
「……まだ立つか」
 余裕綽々の静かな声に、アーサーは内心舌打ちする。背中に受けた衝撃のせいか、まだ眩暈が治らない。
 指先がかろうじて壁にかかっているというところだ。
「早く逃げて!」
 ユーリーの悲鳴が背中を押す。
 そう簡単にいけば苦労はしないがな、と痛む胸を押さえて荒い呼吸を繰り返した。
 先程のあれは間違いなく魔法だろう。
 だが、アーサーが見た事も聞いた事もない魔法だ。
 あれが何かすら分からなければ、手の打ち用がない。
 相手の技が何か分からない以上、迂闊に踏み込むのは危険だ。しかし、手を拱いている事も同じくらい危険を伴う。
 それならこちらから先手をかける。
 吐き気を飲み込んで、アーサーは腰の袋に手を突っ込んだ。
 思い通りにならない指先で、数枚の紙を掴み、呪文を唱えようとした時だった。
「――見覚えのない顔だな、青年」
 男が、フードを取りさってアーサーに話しかけた。
「大方、あの方に雇われた、どこかの神院の魔法使いだろう。君の身の安全は保証する、大人しくしたまえ」
「……そんな見え透いた罠にかかるほど、俺は子供ではない」
 精一杯の強がりを言って、アーサーは真っ直ぐ相手の目を見た。
 相手もそれは十分にわかっている。自分の優位を疑わない声で言ってきた。
「君に選択肢は二つ、このまま自分の足でついてくるか、それとも昏倒させられて私に運ばれるか、だ」
「残念ながらどちらもお断りだ。お前を倒してクロノアの所に行く」
 その言葉に、男は眉をひそめた。
「……どうしてそこまでする? あの方に惹かれ、忠誠を誓うものは多い。利害関係で結びつくものはさらに多い。だが、君は恐らくあの方に出会ったばかりだろう。君があの方のためにそこまでする必要と理由があるのか?」
 あの方、と呼ばれるような男の姿は、アーサーの脳裏には浮かんでこない。
 知っているのは、謎めいた傭兵のような男だけだ。
 分かっていた。
 自分に何か隠し立てしている事も、王国の闇に関わっている事も、ただの傭兵でない事も。
「――腹立たしいがな」
 認めるのに、少し間が空く。
 そう、こんな事を認めてやるのは、腹立たしいの一言に尽きるが。
「あの男の事を、嫌いじゃないんでな」
 だから、自分はこんなにも、あの男の事を信じてみたい。
 風変わりなあの依頼主を、殴り倒してやりたいと思うくらいには怒っている。
 だが、決してあの男自身は嫌いではない。
 依頼主のくせに偉ぶらず、謎が多く、人をからかって遊ぶくせに、真剣な表情は恐ろしいほどに冷たい。
 それでも、言葉は温かい。
 理屈ばかりをこねて利潤を追求する神官たちとも、見世物として自分を腫れ物のように扱っていた旅芸人たちとも違う。
 旅芸人にいい思い出はほとんどない。神院は嫌いだ。神殿騎士団は憎んでいると言ってもいい。
 クロノアは、よりによってその仇の騎士団の一員だという。それでも、アーサーは彼を憎めない。
 思えば久しい。
 ――誰かから真剣に、自分の事を思って怒られたのは。
 男の表情が曇った。
「……君は知っているのか? あの方の正体を」
「正体……?」
 何を聞いても驚かない、と思っていた。
 しかし、男の口から出たのは、完全に想像を裏切る言葉だった。
「あの方は、クロノアなどという名前でも、君が思っているような人間でもない。号をルーウィス卿、本名をヴァレッテ・スペンサー。スペンサー公爵家の末弟であり、レイヴィアス第二王子のご学友でもある――神殿騎士団の正騎士だ」
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