翡翠の騎士たち

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  21  

 町は驚くほどに静まりかえっていた。
 城とは違い、初日に一度通っただけで、正確な道順など覚えていない。
 星と月の方向だけを頼りに、三人はひたすら駆けていく。気取られないよう、追手を撒けるよう、できるだけ暗い裏道を選択した。
 ユーリーが小さくクロノアに声をかける。
「ルーウィス卿、お怪我を……」
「このくらいならば平気だ。無駄口を叩くな」
 クロノアはそう言うが、アーサーの素人目に見ても傷は深い。
 並みの人間なら走ることはおろか立つことも苦しいはずである。
 アーサーは唇を噛んで目を伏せた。
 何か言葉を発しようと思うのに、音が喉に絡む。
 そんな無為な時間だけが過ぎて、やがて痛みを感じさせない声でクロノアが呟いた。
「……門を抜けるのは無理か」
 はるか遠くの暗がりからでも見えるほどに、町の門に続々と人が集まっている。
 おそらく城からの指示だろう。
 城門は突破したが、町の門は通れない。
 それでは意味がない。
 ごみの溜まった裏通りに身を潜めながら、ユーリーとクロノアは小声で言葉を交わす。
「これから……どうなさいます?」
「――朝になれば、もっと騒ぎは大きくなる。夜の内に抜けておきたい」
「突入しますか」
「駄目だ」
「しかし、このままでは人数は増えるばかりです。今行く方が得策ではありませんか」
「俺はこの様で、実質戦力外だぞ。お前一人が行って、何とかなる人数か?」
 その言葉に、アーサーは顔を上げる。
「……魔法を使えば、何とかなる」
 それが最も有効な手段だと思えた。
 魔法を使って撹乱すれば、ここから逃げおおせることも不可能ではない。
 クロノアの腕の負傷も、元はといえばアーサーのせいだ。そのくらいはしようと思ったのだが、クロノアは厳しい顔で首を横に振った。
「駄目だ、ここでは人目につきすぎる」
「何故だ? そうでもしなければ、俺たちは」
「駄目だ」
 それは、言外に魔法を使うくらいならば死んだ方がまし、と言っているようなものだ。
 アーサーは困惑と苛立ちを乗せて、抑えつけた声を出す。
「王国の一大事じゃないのか。ここで俺たちが生き延びて誰かに伝えなければ、意味がないんじゃないのか」
 しかし、傷口を手で押さえながら、クロノアは冷たい声音で返した。
「必要ない。もしこのまま俺とユーリーが戻らず処刑されるなら、国の側には堂々と抗議と戦争の理由ができる」
「では、ここで死ぬのか?」
「それが一番手っ取り早いと言えば手っ取り早いな」
 何故そこでそんな感情が湧いてきたのか、アーサーには分からなかった。
 こうなることは、前から分かっていたはずだった。
 ユレタ神院に引き取られたときから、アーサーの人生はただ命令を受け、唯々諾々と他人に従っているだけのものになっているはずだった。
 個人の情は不要、アーサーは道具として生きているはずだった。
 今もそれは変わらず、貴重ではあるが道具でしかないこの身が、こういうことに巻き込まれて死ぬのは予感していた。
 知っていたのに、分かっていたのに、いざそれを前にすると、思う。
 特別この世に未練があるわけでも、いっそいなくなった方がせいせいするとさえ思ったこともあるのに――強烈な感情が、根幹を揺さぶる。
「……ふざけるな」
 低い、地鳴りのような声が出た。
 ユーリーが驚いたようにアーサーを注視する。
 ――ここで殺すなら、何故さっきは庇った。
 ――どうして、お前は、そうやって俺を惑わせるんだ。
「……お前のわがままに付き合ってやるために、俺はここに来たんじゃない」
「――覚悟もないまま戦場に巻き込まれたのは、不運だったなアーサー。悪いが、お前の命とこの事態じゃ、こっち側を優先させざるを得ない。――もっとも」
 その先、クロノアが何を言おうとしていたのか、アーサーには分からない。急にクロノアは言葉を切ると、はっと顔を真横に向ける。
 同時、路地の行く手を阻むように、巨大な影が現れた。
 ユーリーが、奪った長剣の柄に手をかけ立ち上がる。
 声を発する前に斬りかかろうとしたのだろうが、その影が声をあげる方が早かった。
「ユーリー殿?」
 太い声に、はっ、と剣を止める。月を背にして立っていたせいで顔が見え辛かったが、ようやくそこでユーリーは馴染みの顔を認めた。思わず安堵で大きな息を吐き、クロノアとアーサーを振り返った。
 クロノアが、目を見開いてその男の名を呼ぶ。
「……ガノン」
「クロノア様……」
 その姿を認めて、男は駆け寄ってきた。
 近くで見れば、筋骨隆々の大男である。年は三十の半ばほど、腰には大刀を差し、簡素ではあるが丈夫な鎧を上衣の下に着用している。逞しい体や腕には何本もの傷痕が走り、厳しい戦いをくぐり抜けてきた猛者であることは容易に想像がついた。
 髭を生やした強面の顔が、クロノアの傷を見て歪む。
「お怪我を……!」
「今はそれどころじゃない。――どうしてここに」
 ガノンは何かを言いたそうに口を開き、一度それを飲み込んだ。改めて顔を上げながら、頭を垂れる。
「申し訳ありません。処罰ならば後ほどいくらでも。ダニエラもおります」
「オリムの中にか?」
「はっ、宿におります。――こちらです」
 ガノンの先導で、三人は連れ立って移動する。
 目を合わせようとしないアーサーの耳元に、クロノアは声を落とした。
「……どうやら、まだ死ななくても済みそうだな?」
 それに返答せず、アーサーはぎしりと拳を握り締めた。




 案内された宿はそう遠くない場所にあった。
 万が一を考慮して一階に続き部屋をとったと言う。
 幸いにも、ガノンが確保していた道を辿り、馬屋からこっそりと忍び込むことができたので誰にも見つからずに済んだ。しかし、それも朝までの話である。
 こういう場合、真っ先に怪しまれるのが宿屋だ。検閲に来られて部屋を検められれば、言い訳の仕様もない。
 それまでにどうにか手を打つ必要があった。
 物音を立てないように、一同は静かに移動する。角部屋の扉をガノンが小さく叩き、合言葉を呟くとダニエラが、そっと扉を開けて彼らを招き入れた。
 クロノアの傷を見たダニエラは蒼くなったが、すぐさま手持ちの布を裂き、手当てを始める。鋭い刃に肉が抉られ、筋が切れる寸前の深さだった。傷口を押さえていた手は真っ赤になり、腕の内側といわず外側といわず血に塗れている。
 正視できず、アーサーは壁によりかかったまま石のように動かない。
 薬草もないこの場所では、応急処置とも呼べない処置だけしかできない。しかし、クロノアは不平や苦悶の声一つ漏らさず、時間を惜しむように口を開いた。
「……男爵の謀反は、確定だ。俺か、ユーリーか、どちらかの証言があればすぐさま兵を動かせる。幸い、オリムの近くにはスペンサー公爵領がある。ディートリヒ辺境伯の所領も近い。恐らく、ディートリヒ伯の方には既に連絡が回っているだろう」
 辺境伯は有事の際、近隣の領主たちを率いる役目を担っている。
 ディートリヒ辺境伯、そしてスペンサー公爵家という二つの強敵が揃えば、戦火が広がる前に鎮火できる可能性は限りなく高い。
 今回の謀反の火付け役はベルナール男爵だ。その男爵が早々に討たれたとあっては、他の叛乱者たちは二の足を踏むだろう。
「本当に、ディートリヒ辺境伯は、今回の件をご存知でしょうか」
 ユーリーがためらいがちに言えば、クロノアは不敵に笑った。
「知っているさ。――あのフェイアント卿の父親だぞ? 情報収集とそのあこぎさは息子顔負けだ。もし知らないにしても、何かあればフェイアント卿が馬を飛ばす。まず間違いなく、ディートリヒ伯は今回の謀反制圧に動いてくる。しかし、証拠もなしに動けはしない。一番手っ取り早いのはさっきも言ったように俺たちが奴らの前で死ぬことだ。そうすれば公爵家にも復讐の大義名分ができるし、国もその関係で絡んで、『偶然』謀反の件を知ることができる」
 吐き気がする、とアーサーは内心呟いた。
 そんなアーサーの思いに気づいているのかいないのか、クロノアは淡々と続ける。
「だが、ダニエラがいるなら状況は別だ」
 呼ばれて、ダニエラは静かに面を上げた。
「何か、私にできることがございますか」
「男装はお手のものだろう――今すぐ、ユーリーと服を替えろ」
 その命令に、アーサーは思わず顔を上げた。
 それはつまり、囮になれということだ。
 確かにユーリーとダニエラの背格好は似ている。夜目に後ろ姿では、ほとんど見分けはつかないだろう。
 それはつまり、その分だけダニエラの危険が増すということでもある。
 しかし、驚いたような顔をしているのはアーサーただ一人で、他の者たちは疑問を抱く素振りすら見せない。ユーリーだけが、曇った表情でいた。
 ダニエラは、以前会ったときと同じような優雅な仕草でクロノアに一礼する。
「承りました。ユーリー様、申し訳ありませんが、服を拝借できますか」
「――すまない」
 沈痛な面持ちで呟いたユーリーに、ダニエラは微笑む。
「とんでもございません」
 自分の命が危険にさらされるというのに、悲壮な色など一つもない。むしろ、満ち足りた顔だった。
 絶対の信頼を誰かに寄せている、そんな表情がアーサーの心臓を突いた。
「……どうして」
 思わず、呻くような声が漏れる。
 ダニエラがその声に振り返って、アーサーを見た。
 その表情には微塵の迷いもなく、直視してしまったアーサーは続きが言葉にならない。
 だが、言いたいことは伝わったようだ。
 ダニエラはほんの少し笑みを深くして、言う。
「クロノア様のご命令ならば、この命はいくらでも差し上げます」
 堂々と、誇り高く。まるで神前で誓いを述べる、騎士のように。
「それが私の誇りです」
 ずきり、と胸が痛んだ。
 ――どうしてそこまで他人を信頼できる。
 ――どうせ、裏切られるだけなのに。
 ――神殿騎士団は、俺たちの村にあんなことをしたのに。
 そこに思い至ってようやく、アーサーは知る。
 クロノアとあの魔法使いを秤にかけて、クロノアの方を信じたいと言いながら、信じきれない自分を。
 気にかかると思いながらも真っ先にクロノアの本心を問い質さなかった理由を。
 連綿と続く終わりなき日々の消失を望みながらも、死を前に恐怖する矛盾を。
 神殿騎士団を恨みながら、鬱々とした思いに蓋をしてきた日々を。
 復讐という道もとれず、安楽な道に逃げ切ることもできず、自分自身にしてきた言い訳を。
 澱んでいるこの胸の奥を作り出したのは、他の誰でもない――アーサーだということを。
 ダニエラのように、クロノアのように、ユーリーのように、何かに必死になったことがあの神院に入ってから一度もなかった。
 権力と金の前に、涙を流したことはあっても、立ち向かったことは一度もなかった。
 他人から笑われても、自分が胸を張っていられる、誇りと呼べる何かを持ったことが一度もなかった。
 だから、アーサーは唇を噛んでこう思う。
 ――羨ましい。
 どうしようもない感情ばかりが先走って、しかしどの選択肢もとれない。
 安全圏に身を置いていたいのに、クロノアたちのことを信じてみたいとも思う。
 自分のことを思って叱咤したあの声が耳から離れず、アーサーは、ただやるせない思いを握りしめた。
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