翡翠の騎士たち

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  24  

「ご武運を」
「シドゼスの風が、お前に吹くように」
 目の前でダニエラとクロノアが、短い言葉を交わす。
 これからの強行軍を思えば、いくらでも激励をしたいところだろうが、そうも言っていられない。
 その短いやり取りの間ですら、追っ手は迫ってきているのだ。
 アーサーも何か言葉をかけようとして、唇を噛んだ。こういうときにかける言葉が、何も思い浮かばない。
「……気をつけて」
 結局そんな陳腐な言葉で、別れに代える。しかし、ダニエラは笑わなかった。
「アーサー、あなたも、どうかお気をつけて」
 そう言って、ダニエラは静かに一礼し、踵を返した。
 あっと言う間にその背中は遠くへ去っていく。
「……行くぞ、アーサー」
 クロノアに声をかけられて、アーサーは小さな首肯を返す。
 踏みつけた壁の残骸が、まるで自分の未来予想図のようで、アーサーは重い息を一つだけ吐いた。




 それからの数時間は最悪の一言に尽きた。
 追っ手、追っ手、また追っ手。
 足場はそれなりに安定しているものの、隔壁に沿って遡上し終えると、頂を目指す道は段々と傾斜を伴い、固さを増していく。
 そもそもオリム自体が山の斜面の麓に当たる部分をくり貫いて作った町なので、そこを越えれば必然と森が出現し、身を隠しもするがその分道を遮りもする。
 後方からやって来る敵を振り切ったかと思えば、すぐに追いつかれる。
 殺すなと言われているのか、追いついては来るものの殺気が足りない。クロノアほどには戦い慣れてはいないアーサーでも、それが分かってしまう。
 情報を引き出すつもりかどうかは知らないが、それはクロノアを目の前にして致命的と言えた。
 利き腕が使えないとは思えないほどの太刀捌きで、追っ手を斬っていく。
 実質戦力外などと言っていたが、謙遜ではなかったのかと思ってしまう。
 さすがに先程のようにほとんど死人を出さずに、とはいかない。それでも、追っ手を怯ませるには十分だった。
 しかし、それが続いたのもほんの少しの間だった。
 今度はもっと厄介な追っ手がやって来た。
 馬乗りの騎士数人である。恐らくはベルナール男爵の配下だと思われた。さすが、オリム城に常駐している騎士だけあって、山での馬の扱いにも手馴れたものだ。並みの人間ならば落馬してもおかしくない場所を、馬の脚力を利用してクロノアとアーサーの先回りをする。
 その時点で、既にクロノアは肩で息をしていた。前方に回りこまれ、後方には下級の兵士たちが作った人垣と槍床がある。
「貴様がオリムに侵入せし賊か! 大人しくすれば命は取らぬ、武器を捨てよ!」
 大音声で呼ばわった男の声に押されるように、クロノアは後ずさった。弱気になったように見えたのだろうか、男が降伏を疑わない面持ちで一つ、二つ、と馬の歩を進める。
 一歩でも下がれば槍の先に突っ込み、進めば騎士たちの馬上からの剣にかかる、そんな距離まで詰められた瞬間、アーサーにしか聞こえない小さな声が、低く響いた。
「俺が隙を作る。だから奪え」
 何を、とアーサーが問う暇などなかった。
 クロノアは、突然騎士との間合いを詰めると、使えないはずの利き腕で、あれほどの深手を負ったその腕を伸ばし、思い切り騎士の腰にある剣帯を掴んで引きずり下ろした。
 剣を握っている側とは逆の手、それも大怪我をしていると夜目にも分かる手だ。騎士は全く警戒していなかったに違いない。
 そのために、あまりに呆気なく、その騎士は馬から転げ落ちた。
 一瞬、あっ、と周囲が息を呑む。
(まさか馬を奪えと言うのかあの男!)
 アーサーは無理難題にも程があるその要求を、ようやく理解して心の中で叫んだ。
 めちゃくちゃだ。
 馬に乗るような特権階級の生まれではない。幼い頃、それこそ十六年前には、一度か二度父にねだって乗せてもらったような、かろうじてその程度の記憶があるくらいだ。
 この土壇場で、しかも手綱捌きを必須とされるこの山道でいきなりやれと言うのか。
「――くそっ!」
 しかし、やらなければ自分一人置き去りである。
 既にクロノアは馬の鐙に片足をかけていた。それを見て、後続の騎士が動いた。剣を抜き放ち、馬の腹を蹴る。
 アーサーは腰から提げた袋の中から、鳥の彫り物を数個引っつかみ、破れかぶれでその騎士の顔面に投げつける。
 思わぬところからの衝撃に、騎士は少しよろけた。そのせいで、鞍上で均等にかけていた体重が崩れ、手綱を引っ張ってしまう。
 馬の首が反り、嘶きを上げて棹立ちになった。そこに、アーサーは先程のクロノアを見習い、腰帯を掴んで渾身の力をこめて引っ張った。だが、慣れない力技を行使したため、思う方向に引きずり下ろせない。やむなく、力を緩めて逆の方向に突き飛ばす。咄嗟の変換についていけなかった騎士が、槍の林へ転げ落ちた。
 ぎょっとした兵たちがあわてて穂先を引っ込めるが、てんでばらばらの方向に動いたために仲間に当たり、その上突っ込んできた騎士にも当たり、途端に悲鳴があちらこちらから上がった。
 その隙に、どうにかアーサーは手綱を握り、這い登るようにして鞍に到達する。
 何とか跨いで馬に乗れば、クロノアはそれを見もせずに自分が跨った馬の腹を蹴り、夜闇の中へと駆け出していた。
 置いていかれてはたまったものではない。アーサーも見真似で、思い切り踵を馬腹に蹴りこませた。
 騎乗した馬が一声嘶いて、クロノアの後を追う。
「ぐっ……!」
 瞬間、猛烈な風圧とも重圧ともつかないものがアーサーの上体にかかり、後ろへぐん、と頭が引っ張られる。
 太ももでしっかりと馬の胴を挟んでいたのは、もはや本能だった。
 そのおかげで何とか振り落とされずに済んだが、それからが難関だった。
 手綱を繰るなどという器用な真似が乗ったばかりでできるはずもない。落ちないように馬にしがみつくのが精一杯だった。それだけではない。
 ただでさえ背の高いアーサーの、頬、耳、足、手、その肌が露出した部分を、張り出した伸び放題の枝先が掠めていく。
 すさまじい速さで駆け続けているせいで、触れたときにぶづりと音がして肌が裂けた。
 掻いた枝先はしなり、赤の臭いを残してすぐにはるか後方へ過ぎ去っていく。
 それが何度も絶え間なく繰り返され、体中の痛覚を呼ぶ。
(……痛い)
 痛い。痛みが、顔を歪ませた。
 たかだか、枝に掻かれた程度でこの痛み。
 もっと鋭利な剣で抉られていたら、アーサーはどうなっただろう。
 絶叫したに違いない。クロノアのように、強がりでも笑ってなどいられない。痛みを超越するような信念も覚悟も、アーサーは持ち合わせていなかった。
(……信念)
 唇を噛んだ。そんなものは、神院では不要だった。捨て去らなければ、あの見た目だけは極上の美しさを保った、蓋を開ければ神の名を借りた怪物たちの跳梁する、神の膝元では生きていけなかった。
 では、これからは。
 これからアーサーは、どうなる。
 神院に戻るのだろうか。生きて戻れるのだろうか。
 戻ったところで、アーサーは今までと同じように生きていけるか。すぐに答えは出てしまった。否だ。
 思い出してしまった。自分が、生きていることを。
 笑うな、泣くな、悲しむな、喜ぶな、感情を削ぎ落とせ、そうずっと言い聞かせ続けていた。そうでもしなければ、醜い権力の道具になどなっていられなかった。
 それなのに、その権力を行使する立場だというのに、あの男は土足でアーサーの胸中に入り込んでくる。
 信じていたい。
 旅芸人なんて口からでまかせだ。
 信じてみたい。
 あんな安物の剣だって、俺を信用させるための手口だ。
 肯定と否定の言葉が交互に去来する。
 いっそ見捨てていけば、クロノアを敵だと認識できた。それなのに、見捨てると言いながら、クロノアはアーサーの手を取る。
 本人の口から聞けば、何かが変わると知っている。
 どうしてあのとき聞かなかったのだろう。
 お前は何だ、と。
(――分かっている)
 理由など、本当は自分でよく分かっている。
 時間がなかったから、王国の危機だったから、そんな理由で後回しにしたその訳を、アーサーは気づいていた。
 罪悪感。
 村の皆へ、神院で苦渋を共に味わってきた仲間へ、そして、自分の盾代わりになったクロノアへの。
 色んな感情がせめぎ合い、アーサーはやり場のない感情の波を、手綱を握り締めて殺す。
 また一つ、首筋に赤い線が走った。




 ぴたり、と先を行くクロノアが馬を止めたのは、それから間もない頃のことだった。
 追い抜いて疾走しそうになる馬を、あわてて手綱を引いて止める。馬は実に嫌そうに首を盛大に振りながら、かろうじて走るのをやめた。
 振り落とされるかもしれないとひやりとしただけに、止まったときには思わず安堵の息を吐いた。
 短時間乗っただけで全身が硬直してしまっている。
 強張った体を無理やり動かして、クロノアの方を向いた。
「どうした?」
 妙に静かな目が、振り向いてアーサーを見た。その額を、頬を、汗が伝っている。
 微かに、唇の端が持ち上がった。
「悪ぃ、アーサー……」
 その続きを聞く暇はなかった。
 ぐらりとクロノアの上体が傾いだかと思うと、手綱からその手が離れ、アーサーがその体に手を伸ばす間もなく、地面に投げ出される。
 アーサーは咄嗟に馬を下りようとするが、うまくいかない。馬が首を振り回し、ほとんど落馬に近い状態で、やっと馬から降りた。
 放り出された、と言った方が正しいが、それに構っていられるような状況ではない。
 倒れたクロノアの額に手を当てて、反射的に引いた。
 熱い。
 これが人間の温度だとは思えない。
(こんな状態であんな戦いを……!?)
 考えてみれば当然だ。
 肩を深く斬られ、手当てすらまともにできないまま、あれだけの戦闘を繰り広げれば。
 常人なら既に倒れていて当然、熱が出て起き上がれなくても当然である。
「……くそっ!」
 今の今までかろうじて精神力で持ちこたえていたに過ぎないと気づき、アーサーは悪態と舌打ちを吐き捨てる。
 クロノアの意識はない。
 後ろからは追っ手、目の前は暗く沈んだ森と道、さらに追い打ちをかけるように、アーサーの額にぽつん、と当たるものがあった。
 見上げれば、その頬にもぽつん、と水の粒が落ちてくる。
 それは瞬く間に雨になり、あっという間に全身を濡らし始めた。
 まずいどころではない。
 どうする、と思案したアーサーは、漆黒の髪を濡らし、荒い呼吸で額に張り付かせているクロノアを見下ろした。
 この男を、どうするべきか。
 今降伏すれば、アーサーの命は助けてもらえるだろうか。
 銀色の髪に、また一つ、雫が落ちてきた。
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