翡翠の騎士たち

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  25  

 足がぬかるみに沈んだ。
 思わず背に抱えた荷物を落としそうになり、くそ、と内心アーサーは毒づく。
 これの背丈は自分よりもほんの少し低いが、筋肉はしっかりとついた、引き締まった体つきをしている。
 兵士として訓練を受けてきた男を、神官としてこの十四年ぬくぬくと過ごしてきた自分が背負っていけるわけがない。
 しかも、状態は満身創痍と呼ぶにふさわしい。
 兵士はその利き腕を封じられ、意識を飛ばし、発熱まで起こしている。それでもまだ斬られた傷からは血が流れ続け、布越しにアーサーの背を黒く染めていた。
 なお悪いことに、天はアーサーたちに微笑まない。山の雨は、その空気と相まって容赦なく体温を奪い取っていく。
 馬は捨てた。山の登攀に、ろくな乗馬技術もないアーサーが連れていくことは不可能だった。
 銀色の髪が額にへばりつき、ただでさえ悪い視界をさらに狭める。
 咳き込むようにして吐き出した息が、水煙と混じって白く染まる。
 頬を流れているのは汗だろうか、雨だろうか。
 それすらも分からない。
 前髪を伝って口に落ちてきた水を吐き出して、またアーサーは咳き込んだ。
 足が重い。
 背中が熱い。
 張り出した木の根に気づかず爪先が引っかかった。
 傾いだ体が地面につく寸前、どうにか体勢を立て直す。
 悪態を口に出す気力は残っていなかった。
 呻き声のようなものが食いしばった歯の間から漏れ、アーサーは無理やり足に力を入れて次の一歩を踏み出す。
 肺や脇腹が張り裂けそうに痛い。
 足は踏み出す度に崩れ折れそうだったし、クロノアを支えている背中はその重量に沈んでしまいそうだった。
 それでも耐えて進んだのは、この男にどうしても聞かなければならないことがあったからだ。
 アーサーの人生を覆した、その真相を知らずにはいられない。
 例えそれが、もっと深い闇にアーサーを引きずり込むとしても。
 打算もした。感情と理性を秤にかけた。
 結果として、アーサーは今自分で選び取った道の上にいる。
 ふ、と唐突に笑いがこみ上げてきた。
 今、自分は何をやっているのだろう。
 雨に濡れて、敵の男を背負って。
 体は既に冷たいという感覚をなくし、息を吐く度にそのまま前へ倒れてしまいそうになる。
 汗か雨かも分からない滴が、目に入り込んで視界を塞ぐ。
 どれくらいの時間が経ったのか、追っ手は来ていないのか、そんなことすら考えられなくなったとき、急に足元の感触がなくなった。
「しまっ……!」
 思わず声に出したことを、アーサーは直後に後悔した。
 浅い地面を踏み抜いた――あるいは元から空洞だったのか、不意に落下し、着地の衝撃で舌を噛む。鉄の臭いが口の中に広がったかと思うと、土が舞い、衝撃を受け止めた膝がぎしりと不穏な音を立てた。
 口腔に溜まった唾を痛みと共に吐き捨てれば、それは闇の中で黒く染まっている。
 それでもクロノアの腕を握ったままだったのは、執念などと呼べる代物ではなく、指が凍りついたように動かないせいだった。
 しかしその結果、クロノアが直接衝撃を受けることは免れたらしい。
 アーサーが上を見れば、すぐ上に開いた穴から、ぱらぱらと落ちてくる土くれに混じって水が滴ってきた。暗いせいでよくは見えないが、下草らしきものが穴から垂れ下がっていた。
 ひんやりとした風が右手の方から吹いてくる。どうやら洞穴のような状態になっているらしいが、暗闇の中では先も見えない。
 ここなら身を隠すこともできるのではないか、と疲労困憊した頭の隅で思った、まさにそのときだった。
 左手の奥の方から、聞きたくない音がした。
 低い唸り声は自分の巣へ急に落ちてきた闖入者への威嚇だろうか。
 暗闇の中から爛々と光るその双眸を滲ませて、それはこちらへ近づいてきた。
 光源がなくとも、分かる。
 にじり寄ってくるその足音、独特の臭い、低く震えた声帯から出る背を逆撫でる音。
「狼……」
 アーサーの呟きに、瞳がぴたりと動きを止めた。
 じっ、とこちらを注視してくる様子は、本能のまま動く獣とは思えない、どこか理知的な光を宿していた。まるでこちらを値踏みするかのように、野生の狼は動く気配を見せない。
 ここで迂闊に動けば食われる――アーサーは、先程までとは全く違う滴が全身を浸す感覚を味わった。
 ほぼ闇しかない色のなかで、何か打開策を見つけようと泳いだ目が捕らえたのは、クロノアが佩いている剣だった。
 これならば、あるいは。
 そう思って、剣の柄に手をかけた瞬間だった。
 急に手の甲をひんやりした感触が覆い、思わずアーサーは振り向く。
「クロノア……!」
 お前意識が、と言いかけるアーサーを封じるように、クロノアどこから絞り出しているのか、とてつもない力でアーサーの手を抑え込んで、かろうじて音と認識できる声を発する。
「よせ……お前に、剣なんか、扱え、ねえ……だろ」
「今がどういう状況か分かって言っているのか……!」
「血の、臭い……」
「――何だと?」
「そいつからも、血の、臭いがする……多分、手負いだ……」
 その言葉に前を向けば、狼はただ黙してそこにいるだけだ。微かに息遣いが聞こえるだけで、襲い掛かってこようとはしない。
 血の臭い、というほどのものを嗅ぎ取れたわけではないが、アーサーはとりあえず手を緩めた。
「……すまない。少し……お前の――巣を借りさせてくれ」
 クロノアは、闇に浮かび上がる二つの光に向かって、まるで人間に話しかけるかのように言葉を発する。
 狼に言葉なんて通じるわけがないだろう、と口を開きかけたアーサーは、張り詰めた空気とクロノアの眼光にその唇を閉じて、噛んだ。
 どれほど緊迫した時間が流れたか、体重をかけたままの膝の痺れすらなくなる頃、その獣は視線をつい、と外し、近寄ってきた。
 ひょこひょこと上下に揺れる瞳の動きに不審を覚えたアーサーは、やがて闇に慣れた目を見開いた。
 暗闇の中でも、その不自然さは際立って分かる。
 狼は、あるべき四肢の一つが欠けていた。
 左前の空洞を補うように、狼は胴体を使ってこちらへ進んでくる。
 アーサーは突発的に剣を抜いてしまいそうな衝動にかられたが、クロノアが上から押さえ込んでしまっているのでそれもできない。
 やがて狼は二人の息がかかるのではないかというほど近くにやって来ると、しばしこちらを見上げ――ややあって、一本しかない前脚をアーサーの膝に置くと、ざらつく舌で頬を舐めた。
 鋭い歯が目の前に現れてぎょっと固まったアーサーを尻目に、狼はさっさと体重を移動させ、今度はクロノアの方に近づき同様の行動をする。
 そして、驚く二人を見遣ると満足したようにまた暗闇の奥へと三本の足で歩いて姿を消した。
「は……っ、どうやら……気に入られたみてえ……だ、な」
 息も絶え絶えに、しかしクロノアは笑う。
 よくもこの状況下で笑える、と苦く胸中で呟き、アーサーは硬くなった指を無理やり動かし、クロノアの腕を引き剥がした。
「……傷は」
「平気だ――と、言いたいとこだが」
「そうだろうな」
 意識を取り戻したのも落下の痛みだろう。気絶していた方が楽な傷であることに違いはない。
「アーサー……とりあえず、何か、燃やせるもんを――」
 夏は間近とはいえ、標高のある山の中、雨にまで降られて体温は低下している。体力もないこの状況下では、寒さで凍死という笑えない結末を迎えかねない。
 だが、外は大雨で、薪にする枝も湿ってしまっているだろう。下手に動けば、戻って来られなくなる可能性もある。何せ、落ちてきた場所からさえ光は僅かしか入ってこない。
 どうする、と迷いながら暗闇の中に目をさ迷わせるが答えは出ない。
 しょうがない、とアーサーは腹をくくった。
 腰につけていた袋から細工用の小刀だけ抜き取り、帯から外して地面に置くと落ちてきた穴に手を伸ばし、ぐっと体重をかける。少し土くれが指の間からこぼれ落ちたが、それだけで済んだ。
 一気に体を持ち上げると、雨と森の冷気が一瞬でアーサーの体を包む。
 吐き出した息が白い。
 どうにかよじ登ると、夜闇でも目立つ明るい色の上衣を、脱いで目印として手近な木に結んだ。
 前髪をかき上げて、アーサーは使えそうな枝を探しに夜闇と雨の中を慎重に歩き始めた。
 少しずつ進む度に、突き当たった木に刀で傷をつけておく。こうすれば手探りでも戻ってこられる可能性が高い。
 できる限り濡れていない枝を探し、折る度に腕の中に抱え込む。
 太さが違う枝の束をいくつか作るとかなりの量になった。枝先が肌を掻いて、先程と同じように赤い傷を作っていく。
 痛みに擦りこむように雨が落ちてくるが、今それに文句を言う暇などなかった。
 アーサーは慣れていない肉体的な痛みに辟易しながらも、どうにか火を起こせそうなくらいの枝を集めると戻り始めた。
 ほぼ闇の中を、じりじりと感覚だけを頼りに進んでいくのは重労働だった。
 自分がつけた傷かどうか指先でなぞって確認し、来たときと同様に少しずつ戻っていく。
 ようやく自分が着ていた上衣を見つけたときには、雨もぱらぱらと雫が落ちてくる程度に収まっていた。
 穴の傍にしゃがみこみ、アーサーは声をかける。
「クロノア――そこにいるか?」
「ああ」
 精彩を欠いた、ひどく虚ろな返事が反響しながら上に届いた。
 アーサーは眉を寄せながらも、びしょ濡れになった上着を木から解き、枝と一緒に抱えながら穴の中に落ちる。
 雨が降りこんだせいだろう、水溜りができている中にまともに足を浸したがそこには頓着していられない。
 そこから少し離した乾いた地面の部分に、木を組む。
 濡れた部分は用を成さないので、小刀で削り取った。その際に危うく自分の指まで削りそうになる。うっすらと掻いた指の皮が痛みを発した。
 濡れた木の皮をその辺に放り、アーサーが火を起こそうとしたときだった。
 ひたひたひた、とまたあの狼の足音がした。
 反射的に身構えたアーサーの膝に、何かべとりと物が落ちた。同時に、毛の塊がアーサーとクロノアの間にうずくまる音がする。
「……何だ?」
 恐る恐る自分の膝に手を伸ばし、アーサーはそれを手に取った。
 少し粘り気があるのは、狼が口で咥えてきたせいだろうか。それは、手触りからすると葉のようだった。拾い上げて臭いを嗅ぐと、思わず顔をしかめたくなる強烈な臭みが鼻腔を突き抜けた。
 アーサーでも知っている、有名な野草だ。
「……止血、炎症に効果がある」
 臭いで判断したのか、クロノアが呟いて隣に手を伸ばす。
 気持ち良さそうに狼が小さな声をあげたので、恐らくは撫でてやっているのだろう。
 野生の狼は気が荒い。それを手懐けるのは容易ではないはずだが。
「ありがとうな」
 応えて、また狼が小さく鳴く。同じ血の臭いから起こる仲間意識か、手負いの狼は食料にすべきところのクロノアを助けようとしているらしい。
「……とりあえず、火、起こすぞアーサー」
「ああ」
 体力も限界に近く今にも眠りこんでしまいそうだが、このまま眠り込んでしまっては次に目覚めることはないだろう。
 石はともかく金属板がないため、細い枝と太めの堅い木を擦り合わせ、風の向きから考えて煙が流れるように穴の方に火種を置く。組み上げた木から火が爆ぜる音が聞こえるようになるまで、そう時間はかからなかった。
 これくらいはまだ覚えていたか、と旅芸人時代にやった記憶と照らし合わせて息を吐き、振り返って思わず目を見開いた。
 明かりに照らされたクロノアの服は、ほとんどが自身の血の色に染まっている。
 よく今まで失血死しなかったものだと思うくらいに、ひどい。恐らくは先程の衝撃で傷がさらに開いたのだろう。
 だが、クロノアは額から汗を滴らせながら、いつものように薄く笑ってみせる。
「アーサー、悪いが、頼みがある」
「……何だ?」
「これを……使ってくれ」
 そう言って、クロノアは剣をすらりと鞘から抜き放った。
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