翡翠の騎士たち

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  26  

 真っ先に思い浮かんだのは、自決、という言葉だった。
 傷の深さから見て、このままだと血を失って死にかねない、そう思ったクロノアがいっそ先に――と思ってしまってもおかしくはない。
 その疑念が顔に出たのか、クロノアは微笑を浮かべたまま小さく首を振る。
「そうじゃない。俺一人じゃ……やれない、からな」
 その視線は火の中に注がれている。ようやく、アーサーはクロノアの意図を悟った。
「……傷を、焼くのか」
 正解、とでも言いたげなクロノアの視線からアーサーは顔を逸らす。
 それしか手段がないとはいえ、戦場ではよくある応急処置だとはいえ、アーサーはためらった。怖気づいているのがやられる本人でないというのは、情けない話だ。
 そう思い、無理やりアーサーは気を落ち着かせようとした。
「……分かった」
 とりあえず訊くこともままならないこの状況下では、クロノアの身の安全を優先する。そして、答えてもらう。あの日の真相を。何が何でも。
 その決意のために差し出した手に、クロノアは剣を落とすようにして渡した。
 掌の中に収まったそれは、何の変哲もないただの剣。決して上物とは呼べない、いつもクロノアの腰に提げられていた剣だった。
 ずしりとした重みが腕をしならせて、アーサーは危うく剣を取り落としそうになる。鉄の重みという以上に、人の血を吸ってきた重みがそこにはあった。
「気を、つけてくれ、よ。それは、俺の――、……、なんだ」
 掠れた声が不意に横手から発せられ、肝心なところを聞き逃したが、顔を上げてクロノアの表情を見れば問い返すのは無粋なように思われた。
 アーサーは手の中にあるじっとりとした柄の感触を握り締め、意を決して立ち上がる。
 剣先の煌めきに、狼がぴくりと肢を反応させた。そんな彼、あるいは彼女をなだめるためにクロノアは無事な方の手を狼の背に置く。大丈夫だ、と信用させるために。それでも狼は低く唸る。アーサーに、というよりは手の中にあるクロノアの剣に向かって。
 あの肢は剣に斬られたのだろうかと、ふとそんな推測が頭を過ぎった。
 アーサーは深く呼吸をすると、一度目を瞑り、勢いよく銀に光る刃の面を炎の中に差し入れた。焼き鏝として使うにはあまりに不衛生極まりないが、贅沢は言っていられない。
 刻々と鋼の色を失い、代わりに純真な赤と白の光を帯びてきたのを見たクロノアはなるべく腕を動かさないようにしてシャツを脱ぐ。
 ダニエラが施した応急処置の布を乱暴に取り去ると、見るも無残な、今なお血を流し続けている肉の裂け目が露になった。咄嗟に目を逸らしてしまってから、アーサーは息を整えてそちらを直視する。
 傷痕だった。あのときも、こうやって手負いになって死んでいった者たちが大勢いた。
 ふざけるなよ、と己に吐き捨てる。
 傷痕を直視することを恐れて、今まで逃げ続けてきたのだろう。
 もう逃げたくはない、闇に引きずり込まれてもいい、真相を知りたいと思った、だからあの男たちの下に逃げ込むのをやめたのに。
 逃げるな、怯えるな、臆するな、避けるな。
 呪文のように何度も何度も繰り返して、アーサーは一際重みが増した剣の柄を掌に食い込ませるようにして握りしめた。
 自らの血を吸って赤黒く変色した布を口に含み、クロノアは蒼白な拳を膝の上で握り締めた。元々は拷問のために編み出されたと聞くこの荒療治は、ともすれば舌を噛み切ってしまうほどの苦痛を要求される。それを防止するためだった。
 ちらちらと爆ぜる炎が、端整なその顔の陰影を濃く見せている。
 覚悟をとっくに決めた、血の気は失せているが悲壮さはなく、むしろ涼しげな面立ちを見て、アーサーはもう一度だけ胸に空気を送り込んだ。煤けた木の臭いが、どこか旅芸人時代の露営を思い出させた。
「……やるぞ」
 アーサーの声に、クロノアは僅かに顎を引くことで答えた。
 す、と息を吸い込んだアーサーは、気を奮い起こして赤黒い傷痕に真っ直ぐ剣を押し当てた。嫌な音が、肉の焼け焦げる音が、焚き火と呼吸する音以外何もない空間に立ち昇る。
 直後、クロノアの喉から絶息するような、堪えきれない苦痛の声があがる。目が見開かれ、背が跳ね、首筋が反る。硬く握り締められた指が、手が、腕が、痙攣を起こしたように震えて痛みに耐えているのをアーサーは嫌でも視界に入れてしまった。
 目を逸らすな、と胸中で絶叫しつつも、あの凄惨を思い出させる音と臭いから逃れようと首が勝手に動く。顔を背けようとする。
 ここで逃げたらこれまでの二の舞だ。アーサーは柄に渾身の力を込めて、引きつる筋肉を意思の力で総動員して動かした。額から汗が流れ出て顎を伝い、首筋に流れていく。
 じゅう、と傷口からあふれた血が熱によって赤く昇天する。その光景は、音は、克明に焼きついた記憶をアーサーの目の前につきつけてきた。
 悲鳴が、耳の底で反響する。父が斬られ、母とはぐれ、そうして見下ろしたあの風景がちらつく。現実と過去が、曖昧になる。
 それを振り払うように、アーサーは心の中で叫んだ。
 逃げるな、怯えるな、臆するな、避けるな……!
 ここで逃げて繰り返すな。逃げればまた出口のない迷路に戻ってしまう。ようやく先が見えたのに、逃げてはまた同じだ。絶対に逃げるな、真実を知りたいなら怯えるな、血の臭いに臆するな、この痛みを避けるな。
 耐えるために噛みしめた唇の端が切れて、赤い筋を一つ作り出す。
「――……っ!」
 恐らく、その時間は時にして数えればほんの少しでしかなかっただろう。だが、その少しはアーサーにとってもクロノアにとっても長すぎる時間だった。
 合図めいた息を吐いたのはどちらか、じゅわっ、という音を残して白い刀身がクロノアの体から離れる。
 アーサーは急に力が抜けたかのように、その切っ先を重力のままに地面に下ろして膝をつき、クロノアはすさまじく長い、そして重い息を吐き出し、咳き込みながら無事な方の腕を地面について自重を支えた。
 彼は、思い出したように口腔に押し込めた布を吐き捨て、手の甲で口を拭った後、熱のせいで縁が潤んだ瞳をアーサーに向けて微笑んだ。
 無理をして笑ってみせた、礼と感謝の双眸だった。
 苦痛を他人に見せるのをよしとしない、実に騎士らしいその一面に、アーサーは腹の底から息を吐き出す。
 痛みを顔に出すことなかれ。簡単に弱音を見せるは騎士の恥と心得よ。騎士の条件としてこれほど有名なものもないだろう。
 騎士とは弱きに手をさしのべ、己の主君に義理を尽くし、女性に対して礼儀を重んじよ。
 高らかと訓戒を仰ぐ騎士たちが、アーサーたちの村に何をしたか。ささやかな営みを紡ぐ弱き魔法使いたちを淘汰し、女子供の区別なく虐殺し、守ったのは金で雇われた主君への義理のみ。
 ――何のための護国の騎士か。
 胸の中でどろどろと黒いものが鎌首をもたげたのをかろうじて封じ、アーサーは覚悟を決めた目でクロノアを見返した。
「……訊きたいことがある」
 その声音に、クロノアはぴたりと布を巻き直しかけていた手を止める。
 クロノアも大方の予想はつけているだろうが、アーサーはあえて核心とは離れたところから訊いてみた。
「まず一つ。――どうして、女が親衛隊にいる? ユーリーというのは男名だが――あいつは女だろう?」
 最初にユーリーの姿を見たとき、思わず問い返してしまったのは咄嗟に感じた違和のせいだ。男のなりをしていても、それが板についていても、アーサーの目には女以外の何者にも見えなかった。
 その指摘には純粋に驚いた様子で、クロノアは目を見開いた。次いで、低く笑う。
「――そうか。お前は、魔法使いだったな……」
「何を……」
 当たり前のことを。すんなりとそう言いかけて、アーサーは口を閉じた。いつの間にか、忌避していたはずの魔法使いという言葉を受け入れかけている自分がいた。
 その葛藤に気付くわけもないが、クロノアはシャツをまとうとずるりと背を土の壁にもたれかけさせた。火傷の痛みに顔をしかめながら、相変わらず掠れた言葉を発する。心なしか、その音が先程よりは明瞭になったように聞こえた。
「――ユーリー・ゲルダ。それがあいつの表向きの名前だ。ゲルダは母方の姓でな。父方の姓は――フェルディナンデス」
「フェルディナンデス……? あのフェルディナンデスか」
 王宮で権勢を誇る一派の一つ。王国の重鎮、という言葉が頭を過ぎる。
 ――今代のベルナール男爵様は、昔王宮でフェルディナンデス伯爵様の所で書生をしてたんだ。
 不意に、オリムに来る途中でクロノアが言っていた台詞が思い出された。
「ベルナール男爵と、何か関係が?」
 政治的な配慮かと首を傾げるアーサーに、クロノアは違う、と目を瞑った。
「いや……偽名にそれは無関係だ。――分かるだろう、アーサー。王宮の、親衛隊の一員が女。到底、許されるようなことじゃ、ない。マークドならともかく、ここはクラナリアだ」
 爵位に手を出すのはマークド皇国に比べてまだ幾分容易いクラナリア王国は、その分男と女の区別が激しい。男尊女卑というわけではないが、女は家を、男は外を、というのがクラナリアでの一般的な認識だった。
 失血は治まったとはいえ、今度は火傷が痛むだろうクロノアは、それを誤魔化すかのように喋り続ける。
「女が親衛隊にいたとなればどうなる? フェルディナンデス伯爵の名誉は地に落ちる。娘一人の管理もできないのか、ってな。……だから、秘密を知ってる俺がやるしかなかった」
 女の騎士がいないわけではない。戦場で功を立てた女性騎士が、重要な役職に取り立てられないわけではない。絶対数は少ないが、ないことではないのだ。
 だが、王宮を守護するその神聖な役職、神殿を守る神官と同様の扱いを受けるその場所に、風習を真っ向から否定するような者がいたら。それも、王宮で支持を得ている者が進んでその禁を犯していたら。
 想像に難くない現実に、なるほど、とアーサーは暗い声を落とした。
「あいつの本名は、いや、ユーリー・ゲルダも本名では、あるんだが。もう一つの、女としての名前は、ユリア・フェルディナンデス」
 どこかで聞いた、と記憶を探ったアーサーは、執事に婚約者の名前としてさり気なく伝えていた名前を思い出して、あ、と声を漏らす。
「……あのときの」
「そう、あいつらは知ってた。ユーリーがユリアだってことを。フェルディナンデス伯爵の元で書生をやってて、あれだけ都市を復興させるくらいの頭があれば、ユーリーのことを知ることだってできただろう。――だから気ぃつけろつったのに、あの馬鹿野郎共が」
 最後は誰に向かってか分からない愚痴になっていたが、それを無視してアーサーは疑問を重ねた。
「どうして女を捨ててまで、親衛隊に?」
 フェルディナンデス伯爵家といえば、公爵家にも匹敵するような旧家であり名家である。嫁の貰い手など掃いて捨てるほどいるだろうし、そこまできっちりと見たわけではないが器量も悪くなかった。そんな女がどうして、と尋ねたアーサーに、どこかクロノアはひんやりとした笑みを返す。
「――女の価値なんて、あの程度で決まっちまうもんかね」
「どういう意味だ?」
「ユーリーは……ユリアは、石女だ」
「あ……」
 また、あの感覚に襲われた。不意に落とし穴を踏んでしまったような。
 ダニエラの、達観したような表情が暗闇の中に浮かんだ。
「貴族体制を続けていくなら、子孫は不可欠。その条件を満たせないユリアじゃ、最初から貰い手の意図は限られてくる。フェルディナンデス伯爵家に恩を売ろうとする奴らが、群がってくるに決まってる」
 ゆっくりと息を循環させながら、クロノアは遠い目を暗闇に向けた。
「――そもそも、あいつが石女になっちまったのには訳がある。結婚が――一度目が、早すぎた。子供を産める体ができあがっちゃいなかったんだ。それを、急いた伯爵が無理やり縁談を推し進めて――結局、嫁ぎ先からも見放されて帰ってきた。あいつは、たった十一だった。それなのに、急いで子供を産ませようとして――失敗した」
 まだ握り締めたままの剣の柄が、さらに重みを増したようだった。
 アーサーは打つ相槌も思い当たらずにやり場のない視線を狼に向ける。狼はまだ、アーサーの手にある剣を警戒するように低い姿勢のままだった。
「もう女としての人生は終わったと諦めてたあいつに光を取り戻したのは殿下だ。レイヴィアス第二殿下。何があったか、どうしてユリアがユーリーになることを決意したのか、俺は知らない。――だが、知らないなりに知ってることもある。ユリアは、殿下のためにこれからを捧げると誓ったんだ」
「それで、あんな風に」
 王国の危機に、切迫した声調子で急げと言ってきた。それはユーリー――ユリアが、クラナリア人であるからだけではない。王国の危機は王室の危機、その延長線上にある王子の危機も案じていたのだろう。
「そう、だから命をかけた。普通騎士になる奴らは皆、十になる前から訓練を受ける。男と女じゃ圧倒的に差があるのに、しかも時間的な不利もあるのに、ユーリーは騎士になる訓練を受けた。男と同様に。男になって。女を捨てて。――そうして、あの地位を得た。フェルディナンデス伯爵も、嫌とはいえなかっただろうさ。娘のあんな必死な姿を見ちゃ――それも、元はといえば、自分のせいなんだからな」
 微かに笑い声をたてたように聞こえたのは気のせいだろうか。
 それは、フェルディナンデス伯爵を嘲笑う声か、見守るしかできなかったクロノア自身を笑う声か。
「あいつの夢は制限時間つきだ。二十歳を過ぎたら、そろそろ男で通すのは難しくなる。これまでのように、同僚の前に出ることもできなくなる……だからだろうな。最近、必死で役に立とうとしていた。おかげであの様だ。――下手に情を移した、俺が言える台詞でもねえけどな」
 やはり、自分への嘲笑だったらしい。
 それを噛みしめて、アーサーは一つ浅い呼吸をした。これからが、本番とも言うべき問いかけ。もっとも、逃げてはならない問いかけ。
「――クロノア」
 呼びかけた声に、これまでとは違うものが混じっていたからだろうか。驚くほど静かに、何かを予期した目で見返してきた。
 闇色の瞳は、相変わらず底が見えない。
 アーサーはその目を見つめて、口を開いた。
「訊きたいことの二つ目だ。――あの日、あの時の真実を、お前は知っているな?」
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