翡翠の騎士たち

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  27  

 どの日のどの時か、言わずとも分かっただろう。
 張り詰めた空気に、クロノアは表情を消して、ややあって突き放した口調で言った。まるでアーサーを試すかのように。
「……知っていたら、どうだってんだ?」
 冷ややかとも思える返答が聞こえて、アーサーは汗ばんだ掌ごと、クロノアの剣を握り締めた。
「――教えろ。俺には、知る権利がある」
 両親が、村の者たちが、神院で共に過ごしてきた仲間の家族が、名も知らない魔法使いたちが、死んでいったその訳を。
 それを知るために、アーサーはクロノアを選んだ。
 この男の言葉を信じたいと思ったから、この男が見せた表情に嘘偽りがあってほしくないと思ったから。
 しかし、クロノアは、ふ、と唇の端に笑みを浮かべた。それは間違いなく――嘲笑。
「ねえよ、そんなもんは。――知る権利? 馬鹿言うな、アーサー。お前は、たかが一神官だろうが。王国の闇に触れる権利なんて、ねえんだよ」
 その声音は、私に感謝をしろ、と平然とのたまってみせたあの神院長と同じ高さをしていた。
 それを知覚した途端、ぐしゃり、とアーサーの中で何かが決壊する音が聞こえた。
 旅を始めた直後に宿で感じた、裏切られたという感情よりももっと強烈な激情が腕を動かした。
 激昂に任せた腕は目にも留まらぬ速さで動いて目標を――クロノアの首を捕らえる。
 大怪我をしたばかり、それもここまで発熱などで疲労していなければ、たかが神官などに不覚を取ることもなかっただろう。
 しかし、緩んでいた気の隙を突かれ、クロノアは呆気ないほど簡単にアーサーの攻撃を受けた。飛びかかるように、アーサーはクロノアの首に体重をかけた。あっという間にクロノアは地面に転がる。
 背中から強かに打ちつけて、クロノアの体が反った。その腹に、アーサーは馬乗りになるようにして膝頭をめり込ませる。重く鈍い、嫌な音がした。
 がはッ、とかろうじてクロノアの喉から息が漏れる。その気管すらも塞ぐように、アーサーは指を伸ばした。
 反射的にクロノアの指が、左腕が、剣を探して跳ねる。その剣を握ったままのアーサーは、咄嗟に刀身をクロノアの喉元に突きつけた。切っ先は地面に食い込んだまま、まだ当分おさまりそうにない赤い熱を放っている。横目でその様子を見て、クロノアは痛みに喘いで顔を苦痛に歪めながらも、意外なほどに冷静だった。
 傷に今の衝撃が響いていないはずはないだろうに、熱で朦朧とした意識が感情を吐露させないはずはないのに、クロノアは一つ苦しげな息を吐いて、それきり小さく呼吸を繰り返す。それがアーサーの癇に障った。
 自分が軽く手を動かせばこの首は落とせる――そう考えた瞬間、アーサーの頭から恐ろしいほどの勢いで血が引いていくのが分かった。
 それを表情で読み取ったのか、クロノアが薄く唇を開く。
「――アーサー。お前が今手にしてるのは、人殺しの道具だぜ? その覚悟があるのか? 神官だったお前が――」
「黙れ!」
 余裕がないのは、アーサーの方だった。明らかに度を失っている。かろうじて残った理性だけが、怒りに任せるなと叫んでいた。
 狼は、突然争い始めた二人に歯をむき出して唸る。今にも飛び掛ってきそうな狼を後ろに見て、クロノアが喉を動かした。
「……無闇に殺気を放つな、アーサー。獣はそういう気配に敏感だ。下手に刺激すると敵と見なされて食われるぞ。――とりあえず、剣をどけろ」
「どけない」
「どけろ、アーサー」
「どけない……っ」
「どけろっつってんだろうが……!」
 初めてクロノアは、苛立ちを露にした。短い期間だが、一緒に旅をしてきた仲間が戻ってきた感覚。お高くとまった騎士などではない、謎めいた傭兵が戻ってきたような気がした。
 今を逃したら二度と口を割らないのではないか――恐らくは、殺されても。そんな予感と不安に突き動かされて、アーサーは絶叫する。
「絶対に嫌だ! お前が話すまではどけるか!」
 吠えた声が、湿った洞穴の中にこだました。
 睨みあったまま双方動かず、しばらくは狼の低い唸り声だけが背筋を撫でる音が続く。膠着した状態と張り詰めた緊張に、冷や汗が額から吹き出た。一呼吸一呼吸が、ありえないほど長く感じる。
 これ以上この重さには耐えられない――そう思ったアーサーの手が震え始めた、そのときだった。
 狼の唸りに負けてしまいそうなほど小さな呟きが、アーサーの耳朶を打った。
「……俺はもう、これ以上あの戦のせいで、誰にも死んで欲しくねえんだよ」
 不意に呟かれたその言葉に目を見開くと、熱のせいだろう、ひどく朦朧とした様子のクロノアが目に入る。
 うなされるようなその言葉は、手本のような騎士の顔も、謎を包んだ傭兵の顔も剥がれ落ちた、年相応の青年の顔から発せられたものだった。
「クロノア……」
「――訊くな、アーサー。訊いたらお前は……もう、きっと戻れない。俺は――もう二度と、あんな戦のせいで誰かが死ぬ様を見たくない……」
 底の見えなかった闇色の目が、不意に揺らいだようだった。
 アーサーは急激な変化に戸惑い、ついていけず、ただクロノアを凝視するしかできない。
 その時には、アーサーの戦意はこそげ落ちていた。意味もなく、おざなりに剣を手にすることしかできない。いつしか切っ先の白は元の鋼に色を戻しつつあった。
 アーサーは迷う。今までのように、幾度も自分に問いかけて、迷う。
 本当にこれでいいのか。
 今なら神殿騎士団に安易に復讐して、それで終わりにすることだってできる。
 そう声高に主張する声は、しかしもっと根底にある熱に押し潰される。何度迷っても、結果は変わらなかった。訊かなければならなかった。
 どうして、あんな地獄がまかり通ったのか。その恨みだけを胸に抱えて、この十六年を生きてきたのだから。
 そう思って口を開けば、予想以上に静かで、凪のような音になった。
「……死んでも、かまわない」
 哀しそうな色を浮かべていたクロノアの顔が凍りつき、次の瞬間怒気を帯びた。人体が発する熱ではない温度を内包していることなどには構わず、今にも激怒の声をあげそうな表情になる。
「冗談なんかじゃ言わない。もちろん、その場任せの怒りでもない」
 クロノアが反論するその前に、アーサーは言葉を落とす。
「――知りたいんだ。俺がどうして、ここにいるのか。何故あのとき、母や父や村の皆と消えていけなかったのか。どうして彼らは――俺たちは、殺されなければいけなかったのか。死んでもいい、クロノア。俺は――今の俺は、知らなければ、結局死んでいるのと同じだ」
 いつの間にか、狼の警戒の声も消えていた。互いの息遣いと、焚き火の音だけが聞こえる。
 その中で、アーサーはほんの僅かだけ、微笑んだ。
「――もう手遅れだ、クロノア。俺はユーリー・ゲルダの出生について聞いてしまった。もしお前が教えてくれないのなら、マークドへでもどこへでもこの話を吹聴する。そうすればお前は俺を殺すしかなくなるだろう?」
 嘘偽らざる本心の中でほんの少しだけ混じったのは、ひどく打算めいた言葉とは裏腹な気持ちだった。
 この男は、強情だ。殺されかけても、その命惜しさに抵抗できないほどの信念を持ってしまっているが故に。
 だから、無理やりにでもいい、理由をつけなければきっと本当を語ってはくれない。だが、これはアーサーにとっても賭けだ。アーサーのためを思って口を噤むクロノアに対する、心情的な裏切りであり、厚意を踏みにじるものでもある。さらに強情を張って口を閉ざす可能性もあった。
 ぎりぎりの綱渡りを強いられている感覚に、お互いに苦しいな――そう、何の気負いもなくそう思ってしまい、アーサーは視線を歪ませた。
 その言葉の裏を汲み取ったのか、単に息を整えていたのか、打算を働かせたのか――ややあってから、小さく音がこぼれた。
 自分の喉に当たっている刃、そこから続く地面に伸びた切っ先を目で追いながら、どこか懐かしむような声で、彼は独り言のように呟く。
「――お前が今握ってる剣は、あの日……親父が俺にくれた剣だ。あの時俺は七歳で――一人前と認められるには、早すぎると思った。あれだけ、馬鹿の一つ覚えみてえに剣に生きろと言ってた親父が、本人の俺すら早すぎると思ったのに、あんなに賢かった親父はくれた。お前の身を守る、これが唯一の方法だと」
 少し呂律が回っていない上に、文法が怪しくなっている。そこにアーサーが触れる前に、クロノアは何かに怯えるように続けた。
「お前と同じだ……俺も。世界が、奴らが、のうのうと生きていることが許せなかった――俺を育ててくれた親父や、俺に笑いかけてくれた皆は死んだのに、おとぎ話だとばかり思ってた話が本当で、あいつらは親父を殺したくせに、俺を助けるんだ。ふざけるな――殺してやる。――そう、思った……」
 その言葉とは裏腹に、クロノアの手は何かに縋るように虚空に伸ばされ、ぱたりと落ちた。
 ひどく不安定で脆い一面が垣間見えて、アーサーは驚くよりも怖くなる。
 その表情に寂しげに微笑みかけて、クロノアは言った。
「――なあ……アーサー。もしも、もしもお前たちだけが全ての魔法使いじゃないと言ったら?」
 どくん、と心臓が跳ねる。
「――数は少ないが、少なくとも国内にいる魔法使いは七人なんて少数じゃなく、もっともっと多いとしたら……それが、各地の神院と神殿にいるとしたら……そいつらが王家に仕えていたら、お前は、俺たちのことを、裏切り者と責めるか?」
「……どう、いう」
 声が緊張のあまり掠れた。
 ――秘密を……魔法使いを、神院を使ってこのクラナリア全土に匿っていることを、諸侯に暴露する気でいる。
 ユーリーの言葉が、耳の奥で鳴り響く。
「神院には、あのデルハイワーの戦で身寄りをなくした魔法使いたちが、いる。元締めである、神殿にも。それから――神殿騎士団、にも。――刀、の根元。見てみろ」
 アーサーは、言われた通りに目を落とし、握った剣の刃の根元にあるそれを見て息を呑んだ。
 小さく、傷と見紛うばかりに刻まれたそれでも、アーサーには見間違いようがない。
 何故これがこんなところに、と愕然としながら指をそれに添える。
 それは魔法使いだけが使う、魔法の誓言だった。
「お前の……父親が、これを?」
「ああ……」
 吐息のように返された言葉に、文言を指先でなぞった。
 魔法使いが魔法を使用する際の誓約として口にされる言葉。
 昔から魔法使いという人種は秘密主義で、その実践において使用した文字も普段使用される言葉とは全く違った。
 二百年以上の昔から、魔法使いやよほどの有識者以外は読めなかったその文句を、アーサーは口にする。
「……月の光、大地の精霊、風の踊り子、笑え、歌え、紡げ、語れ。踊り狂って花を咲かせろ。我が名はレオン・アレハンドラ。魔法を行使し、司る者なり――」
 レオン・アレハンドラ。今まで聞いた、目の前に横たわる男の名前とは全く違う名前だ。エリックでもヴァレッテでもクロノアでもない。
「レオン……が、お前の本名か?」
 少しばかり似つかわしくないな、という感想を抱いた直後、黒髪の青年はどこか懐かしそうに笑った。行商人の前で剣を見つめていたときと同じ表情だった。
「それは、俺の親父の名前だ。俺の本名は、ヴァレッテ・フォンダイク・スペンサー……お前が大嫌いな、貴族で神殿騎士団の一員だ」
 あの魔法使いが、ダニエラが言っていたことは、本当だった。
 心のどこかで分かっていても、本人に肯定されてしまったことは決定的だった。
 胃の腑に重い石が落ちたような感覚に、アーサーは何かに後ろへ押されたかのように、よろめいた。かけられていた体重がなくなり、クロノアは急に戻ってきた正常量の空気を喉に通し、咳き込む。その咳き込みの音に混じってしまいそうな小さな問いかけを、アーサーは落とした。
「だったら……この誓言が、どうして」
「……もし魔法使いが役人に追われる立場になって、死にたくないとしたら……アーサー、お前ならどうする」
 全く的を射ない答えを聞いて、問い詰めるかどうか逡巡したあと、アーサーは思考に従って答えを口にした。
「俺たちのように、普通の人間とは交わりを絶ってひっそりと隠れて生きるしかないんじゃないのか」
「ああ、それも一つの生き方だ。だが、まだ手段はある。お上に殺されないために、それ相応の秘密を掴んで脅しをかける。だが、これは、危険が伴いすぎる。一番は、逃げることだな。いつでも逃げられるように、同族同士で固まることだ。――例えば、旅芸人みたいに」
 何かが繋がった気がして、まさかという予感を胸にアーサーは尋ねる。
「……旅芸人?」
「そうだ。――俺が育った一座も……魔法使いの一座だったよ」
 どくん。と、心臓がまた跳ねた。
「……少し、昔話をしようか」
 そう言った青年は、闇色の瞳を静かに閉じて、追憶を食むように唇を持ち上げた。
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