翡翠の騎士たち

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  30  

「七歳の子供が考えられることなんざ、たかが知れてるからな。俺は考えた」
 クロノアは、熱い息を吐いて、僅かに咳き込む。
 口元を手の甲で押さえながら、少し掠れた声でその続きを口に出した。
「公爵家と王家とこの国ごとどん底に突き落とすことはできないか――そう考えて、一番馬鹿な方法を思いついた。――お前なら、どうするかな」
 自嘲するような響きがあるのは、事実過去に復讐を企てた自分を嗤っているからだろう。
 アーサーは黙ってその響きに耐えた。その声は、今現在そう思っている自分を責めているようにも聞こえた。
 どうするかという問いは、真剣に発せられたものではない。アーサーは口を噤んで続きを待つ。
「王家の誰かが死ねば、公爵家の責任になる。俺が公爵家の人間である以上、王家の者を殺せば不敬罪で国家反逆罪だ。家長ごと、責任は免れない。もし失敗しても、公爵家は確実に明日を失う。そう思った」
 唖然とするような内容を、クロノアは熱に浮かされているとはいえ淡々と語る。
 それが自身の最悪であった頃を、遠い記憶として捉えているからできることだった。
「……お前、王家の人間を、殺そうとしたのか……?」
 反射的に、身が竦んだ。
 どれほど恨んでいても、どれほど憎んでいても、王家は王家。純粋な憧れとはまた違う、神の血を引くと自称してアーサーたちの頭上に君臨する一族に対するその感情。
 一言でいうなら、畏れ。
 目の前にいても、殺すと思って睨むことはできても、おそらくそこで斬りつけることはできない。
 どれほど貴族やその筆頭である王家が嫌いでも、身に叩き込まれた優先順位や秩序がそれを邪魔する。
「なんだ……案外敬虔な奴だな、お前」
 その思いを読み取ったクロノアが、低く笑って咳き込んだ。熱で体が痛むのだろう、微かに顔をしかめる。
「もっとも、今の俺も仇だから王家の人間を殺せと言われても、ためらうだろうけどな……七歳の子供だから考えられたことだ」
 また、咳き込んだ。
 熱が高いなら無理をするなと言えばいいのだろうが、言って素直に聞くような男ではないだろう。何より、アーサーはこの男の話の続きが聞きたかった。
「公爵家の信用を得るまでに一年半、それから王家の人間に近づけるまでさらに一年半かかった。三年だ。――よくもったもんだ」
 自画自賛にも聞こえるのに、寂寥感が滲んでいるのは何故だろう。アーサーは、小さくなった火に、一つ枝を放り込んだ。
 煙は洞窟の天井を焦がして緩やかにその黒さを外気と交わらせる。
「馬鹿だったよ。成功する可能性なんてたかが知れてた。でも、俺はそれに縋るしかなかった。どうしようもなく、子供だった」
「それで、どうなったんだ」
 それ以上独白を聞いていられなくて、無理にアーサーはクロノアの言葉を遮った。
 どうなったかなど、簡単に予想はつくのに。
「……失敗した。俺が狙ったのは、当時隠居していた先代の王。俺たちがこの国を恨む原因になった――」
「オッドワルト?」
 先回りして口を開いたのは、驚きがアーサーを支配したからだった。
 確かに復讐相手としてこれ以上ない程の相手ではあるが、隠居しているとは言え、王を相手に。
 その感情はクロノアに対する無言の非難ではなく、王という最高位の相手に対して直接の復讐行為に及べるこの男との、「遠さ」だった。
「……そうだ。俺があの爺の命を絶ってやる。そう思ってたんだがな。惜しいところまでいったのに、寸前で護衛の騎士に阻まれた」
 仮にも一国の王だった人物に向かって爺呼ばわりする人間は例え王家の中にもいないだろう。
「何故、許された? 今の王の庇護でもあったのか?」
 未遂に終わったとはいえ、過去に王であった男を殺すという重罪を企んだ身。クロノアが思った通り、公爵家ごと罪を追求されてもおかしくはない。
 それを止めることができるのは王だけだ。
「いいや。腹立たしいことにな。あの爺、俺のことを誰にも言うなと抜かしやがった」
 一瞬アーサーはクロノアが何を言ったか理解できなかった。
 頭にその考えが染み込むまで数秒、唖然として目を見開いた。
「――では、何か? 自分の命を狙った公爵家の息子を、それも自分や公爵家に恨みを持っている者を野放しにしたのか?」
「野放し? ――とんでもねえ。自分の胸一つに収める代わりにあの爺、俺を自分の手元に置きやがった」
 忌々しそうに、その反面、どこか懐かしそうに。
 その語調に、アーサーはクロノアがオッドワルト自身を嫌っていたわけではないと悟る。
「それからはもう延々と説教の始まりさ。お前の将来をこんな爺のために不意にするんじゃないだの、復讐するならもっと頭を使えだの、――馬鹿な説教ばかりで、まるで親父に叱られてるみてえだった」
 小さな呟きは、万感の思いが込められていた。
 アーサーは何も言えなくなって、無意味に湿った枝をへし折った。
 ぺきり、という軽い音が場にそぐわずに鳴り、アーサーは手の中に響いた小さな反動を抑えこむように半分になった枝を握る。
「……『それで、結局親の仇に懐柔された訳か。情けないな』くらい、言うと思ってたんだがな」
 クロノアの端整な横顔が、自嘲のように歪む。
「生憎と、お前はそれほど単純な奴でもないらしいからな」
 言いながら、枝をまた焚き火の中へ放りこむ。
 湿った部分が当たった火が弱くなり、次いで乾いた部分から徐々に飲み込まれていく。
 理解できそうな自分が怖かった。仇であるはずの誰かを憎まずにいられる自分が。クロノアの昔話と、アーサーの今が、炎の熱に揺らいで重なる。
「……生乾きの枝みたいなもんなのかもな。火に飲まれまいとして必死に抗って、それでも結局は燃やされる」
「詩人だな」
「語り部を目指していたからな」
 ふ、と漏れた笑みを含んだ吐息は双方から自然とこぼれ落ちた。
「……逃げろよ、アーサー。今ならまだ間に合う」
 現実不可能なことを、熱に浮かされてクロノアは言う。
 熱でも出ていなければおそらくは言えない本音だったのだろう。
 だからアーサーは、笑った。
「残念ながら、俺はここ以外に俺の居場所を知らない」
 そうか、とだけ呟いて、クロノアは目を閉じた。
 気を失ったのか眠ったのか、それ以後は浅い呼吸を繰り返すだけで、それ以後彼の昔話を聞くことはなかった。
 声をかけて起こす気にもなれなかったし、意識を失ったクロノアの顔は苦しげにひそめられている。
 起きていれば表情を律せても、無意識下ではそうはいかないのだろう。
 クロノアの傍にうずくまった足を失った狼を見れば、体を丸めて茶色の体毛を緩やかに上下させていた。
 落ちた穴から滴り落ちてくる雨の音が、耳の底に反響する。
 アーサーは目を閉じて、枝が焼かれる音と水滴の音、傍から聞こえる二つの呼吸に聞き入った。
 ――だったら、逃げ出せば良かったんだ。
 ――お前たちが何を言う! よりによってシドゼス騎士団のお前たちが!!
 何も知らずに叫んだ自分の言葉に、ある意味自分よりも当事者だったクロノアは一体何を思ったのだろうか。
 ――……全部、くだらない。いっそ、あの時死んでいれば良かったんだ。
 ――ふざけるな、アーサー。そんな台詞、冗談でも言うな。
 本気で思った自暴自棄に、本気で怒ったクロノア。あれは、アーサーをクロノア自身の昔と重ね合わせてはいなかっただろうか。
 ――……俺はもう、これ以上あの戦のせいで、誰にも死んでほしくねえんだよ。
 ――こんな形ではなく、『俺』の武力に屈する形ではなく、王宮に戻ってくる気はないのか。
 必死で、自分と同じ境遇の者を助けようとした彼。敵に回っても、命を奪うと脅されても、自分の「過去」を裏切りたくない一心で。
 本当は大家の末弟のくせに、望めばこんな国の汚れ仕事など人に押し付け、いくらでも楽な道は歩めただろうに。
 過去を恨むだけで向き合うことを選ばない道もあっただろうに。
(大馬鹿野郎)
 本日二度目のそんな罵倒を胸中で吐き、アーサーはダニエラの言葉も思い出した。
 ――駒を操る立場にあるはずの人ですのに、あの方は絶対に自分も駒となり戦います。それは普通の人に見える戦いではありません。危険も増します。愚かなことだと笑うものがいることも知っています。しかし――私たちは、確かにそれに救われたのです。
 こういうことか。ダニエラが、ユーリーが、あるいはあのハンフリーという男が、クロノアを見るその目の理由は。
 彼らがどうしてこの男に信頼という名の感情を寄せたのか、アーサーは理解して目を瞑ったまま静かに洞窟の壁にもたれかかった。
 開いたら、感情が外気にさらされて流れ出てしまいそうだった。
 知ってしまった真実と彼の過去に、複雑な感情が渦巻いている。
 しかし、それでもアーサーは悲しみと慟哭に浸された胸の奥に不思議な穏やかさを感じていた。
 同じ過去を持った人間なら神院にいた。誰も彼も、明日を見て見ぬふりをする、そんな虚しい目をしていた。
 しかし、彼は違う。
 過去を乗り越えた強さ、縛られながらも自分で歩き出そうとする強さ。
 それはきっと、あの時旅芸人一座に拾われて神院に捕われてからアーサーがなくしていたものだった。
 その穏やかさに後押しされて、クロノアが激怒するようなことを、アーサーは胸中で呟いた。
 ――今なら、死んでもいいな。
 何かが確実に変わったわけではない。
 ただ、きっとこの先無傷では神院に帰れないだろう我が身と、知った真実から自然と思いが湧き出た。
 いつでも命を投げ出せる気がして、アーサーは笑った。
 ――お前、神官なんかやめて彫り師になればいいじゃねえか。才能あるぜ?
 思わず笑い、それを苦痛に感じたのはつい四日程前のことだ。
 別に笑ったって構わないだろうと、恐らくはアーサーよりも感情の重圧を強制されてきた男は言った。
 思い出して自分の愚かさがおかしく、クロノアの飄々とした態度がおかしく、その台詞がおかしく、アーサーは声を出さずに笑い続けた。
 顔を歪め、胸襟が痛くなるほど体を震わせ、アーサーはついには手で顔を覆って笑い続けた。
 唇を引き絞って、指が肌に食い込むほど爪を立てて、誰も見ていないのに誰にも見えないように、アーサーは肩を震わせ続けた。
 閉じた眦から幾筋もの雫が伝って、掌に落ちた。
 声を出さず、吐息も漏らさず、奥歯を噛みしめて、ただただ肩を震わせ続けた。  
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