翡翠の騎士たち
31
朝日が昇り、ほんの少しずつ気温が上がってきた。
体はもうすっかり温まってはいるが、その代わりに疲労がのしかかっている。
全身の筋肉が強ばり、睡魔がアーサーを襲っている。
それでも、眠れない。いつ追っ手がこの隠れ穴を嗅ぎつけるかという恐怖のせいというよりも、頭の芯だけが目覚めているおかげだった。
しかし、さすがに疲れが頂点に達していたのか、明け方に僅かな時間まどろんだ。
寝具に慣れきった体は、洞穴で眠れるほど強くはできていない。濃厚な土と獣の臭い、服越しに感じる砂礫の感触のために、眠りは浅く覚める。
喉に何か突っかかる感覚があって、咳をした反動でアーサーは目覚めた。
体の節々が痛み、まるで自力では動けない人形にされてしまったかのような不自由さを覚えながら指を曲げ伸ばししてみる。
その度に身体の筋が悲鳴を上げるのが分かり、顔面まで引きつった。
「……昨日は疲労困憊だったからな。筋肉痛なんだろ」
横でぐったりとした声がかかり、アーサーはぎょっとして視線をそちらに向けた。
相変わらず地面に横たわったままだが、クロノアが薄く目を開けていた。
その体の下で枕代わりにされていた狼は、重心が移動したことに軽く抗議の鳴き声をあげた。
「ああ、悪いな。お前にも迷惑かけた」
顔色は昨日に比べればある程度よくなっているが、やはりまだ熱があるのは見るだけで分かった。
クロノアは左手で軽く狼を撫でてやっている。狼は気持ち良さそうに目を細めた。
「平気、ではないな。大丈夫か?」
「ちょっと動く程度ならな。こいつにもらった薬草もあるし」
「食ったのか?」
あんな強烈な臭いのするやつを、という表情を読んで、クロノアが微かに笑った。
「本当は煎じて飲む方が効果あるんだがな」
そう言いながら、クロノアは傷の具合を確かめようとしてか上体を起こし、途端にふらりと傾いで壁に手をついた。
服を脱ぎ傷口を振り返って見ながら、小さく呟いた。
「水……は、ないな。服ももう泥々だ……」
アーサーの服に視線を移すと、頬に刻まれた苦笑がさらに深くなった。
「悪いな。お前の服まで血まみれだ」
「しょうがないだろう。それより休め。――何か食えそうなものがないか探してくる」
「……待て」
ぎこちなく立ち上がりかけたアーサーを、クロノアが押しとどめた。
「もう外が明るい。捜索隊も出されてるはずだ。出ればすぐに見つかるぞ」
「……では、どうする」
このままじっとしていても、それはそれでいずれ見つかるだろう。
アーサーは慎重に考えながら言葉を選んだ。
「……ベルナール男爵は、名家の家系を重んじるんだろう。もしお前は捕まっても、殺されることはないんじゃないか。お前を処刑する気はないようなことを、お前自身口にしていただろう」
クロノアは汗と土に汚れた頬を持ち上げて笑ってみせる。
「そう、ベルナール男爵だけならな。だが、あいつがいる」
「あいつ?」
「ベイフォード卿、ジャック・ラトレルだ。名前くらいは聞いたことあるんじゃないか? マークドの竜騎士だ」
「……それが?」
言っている意味がよく分からなかったので尋ねれば、クロノアは吐息を漏らした。呆れたというよりは、笑ったようだった。
「あいつは少身貴族の出からここまで這い上がってきた。竜騎士がどれほどの地位かは知ってるだろう」
「一応は……」
竜騎士は隣国にのみ存在する特殊な爵位で、マークド貴族の血筋であるとはっきりした上で、国に貢献した騎士にしか認められないものだという。その称号はマークド皇国が樹立した当時の伝説に基づくと聞いたことはあるが、外国人であるアーサーは詳しくは記憶していない。
ただ、血族意識が濃いマークド皇国人の中でも特に優良と認められた騎士なのは想像がつく。
月光に照らされ浮かび上がる笑みを思い出し、アーサーの背筋を寒気が這った。
「あいつは未だに二十歳にもなってないはずだ。そんな年齢の奴を、普通竜騎士になんて据えるか? 裏工作もして表の名誉も得て、少身貴族からのし上がってきた男だ。何度か俺も裏の仕事で顔を合わせているくらいには深く国の争いやら闇に関わってる奴だぜ」
そこで長台詞を喋りすぎたのか、クロノアは少し咳こんだ。
手の甲で口を押さえ、無理やり声を絞り出すように続きを話しだす。
「――そんな奴を投入してきた。あの男爵の軍事力はクラナリア王国としては恐れる程じゃねえ。だが、問題はあの男だ。もしこの裏にあの国がいるなら……何かもっとやばいことが起ころうとしてるんだ、間違いなくな」
「やばい……こと? 何だ、それは。男爵の叛乱が終われば、それでいいんじゃないのか」
「いいや、むしろ男爵の叛乱は陽動かも知れねえ。本人にその気がなくても、あいつらに利用されて、あいつらはその影に乗じて何かをしようとしている――ハンフリーがいただろう。魔法使いが大手を振って歩けるようにするのが目的だと言っていた」
「ああ」
自分の力が到底及ばないあの敗北感を思い出し、アーサーは背筋に寒いものが走るのを感じた。
次にやりあったら、勝てるかどうかは全く分からない。
「お前、あの男がいることが最初から分かっていて俺を雇ったんだろう」
孔雀のタペストリーに殺されそうになった時のことを思い出し、アーサーは眉根を寄せてクロノアを睨む。
その視線を受け流し、クロノアは不自由な肩をすくめて言った。
「まさか。魔法使いであるお前を雇ったのは、万が一の時のためだ。俺一人じゃどうなるか怪しいからな。ハンフリーがいたのは計算外だった。あいつは、それなりに忠誠心の厚い奴だったからな」
かつての部下に対する感情を目に浮かばせるクロノアに、アーサーは少しだけ迷ってから尋ねた。
「あいつは何をしたんだ?」
「今思えば、この叛乱を起こすためだったんだろうな。同志殺しだ」
「同志? 王宮にいるとかお前が言っていた魔法使いか?」
「まあ……そんなところだ」
クロノアは珍しく歯切れが悪い返事をする。
まだ自分に対して隠しておかなければならないことがあるのだろうか。
そう考えてから、アーサーは自分の考えの浅はかさに笑った。
この男はアーサーとは比べ物にならないくらい、王国の闇に関わってきた人物だ。言えないことも一つや二つではきかないだろう。
「ハンフリーの目的は、お前のような魔法使いに日の目を見させることだ。ベイフォード卿がいるんだ、マークドも一枚噛んでいる。男爵を囮に、魔法使いの存在を公に認めさせるような、そんな計画を立てているに違いない。あいつは一度同胞殺しをやった。二度目もためらいなくやるだろうな」
「男爵は見逃してくれても、竜騎士やあの男は見逃してくれないということか」
「ああ。昨日言ったように、俺があの町で死ねば国側には堂々と抗議する理由もできるし、兵の士気も高まるだろうが……」
そこでクロノアはひた、とアーサーを見据えた。
闇色の目は、昨日のように熱に揺れず、しっかりとした意思を発している。
「お前は俺のわがままに付き合って死ぬ気は毛頭ないんだろう? だったら、逃げろ。あいつらに追従したふりをしてでも何でもいい、生き延びて、逃げるんだ」
この状況下でそんな台詞を言うか。
アーサーはむしろおかしくなって肩を震わせた。
「どうやって? 逃げたところでどうなる? 先立つものも何もない。行く先も、宛てもない。いっそ叛乱軍に加勢しろとでも言う気か」
自暴自棄などではなく、確固たる事実だった。
この先逃げたところでアーサーに先はない。かといって、叛乱を起こそうとしている男爵たちに手を貸そうという気にはなれない。謀反も叛乱も、世を拗ねて生きてきた神官一人の手には余る大事だ。
「だからといってここで死ぬ気か?」
自分の身を心配するべきだろうクロノアの方が、眉をひそめて言う。
アーサーは深く息を吸い込み、吐く。死ぬだとか生きるだとか、そういうことはどこか遠い世界のことのように思えてきた。
「実感が湧かないな。死ぬだとか、生きるだとか」
「いつまで世間知らずのままでいるつもりだ、お前は」
呆れと怒りを混じらせたように言われ、アーサーは笑う。これでは立場があべこべだ。
「普通ここは取り乱す場面だと思うんだがな、我ながら。ただ――今、不思議と後悔はしていない」
泣いて、胸の中に溜まった思いを吐き出したせいだろうか。
押し込めるのではなく、感情を爆発させるという方法を思い出したからだろうか。
自分でも驚くほどに、胸の中はすっきりとしていた。
今、死が目前に迫ったら仕方ないことだと諦められる。それがいいことか悪いことかは別にして、中途半端だった今までの状態とは違うのは確かだ。
真相を知り、自分の中で感情の整理がついたのだろう。
「言っただろう、俺はこれ以上、あんな戦のせいで誰かに死んで欲しくはない」
「お前はどうなんだ、クロノア」
「俺は……今は騎士だ。この国に従事する義務がある。友人を守る義務もある。お前にはそれがない」
「義務、か」
義務。あるいは責務。自分にはないその言語を反芻し、アーサーは訊いた。
「俺には確かにそんな類のものはないな。この国を恨んでもいる。だが――」
そこでアーサーは目を閉じた。
その瞼の裏に浮かんでくるのは、一人の女性。
「女のあいつが戦っているのに、俺だけ逃げ出せるか?」
ダニエラがいる。彼女は、こうやって誰かと話して助けを求めることもできず、囮になって一人で山中をさ迷っている。
彼女の無事も確かめないまま、一人逃げてどうにかなろうとは思わなかった。
それは、彼女を一人で行かせた後ろめたさなのかもしれない。
「……そうか」
クロノアは驚くでも諌めるでもなく、憂い顔になった。
「俺が仮に捕まったとしても、お前一人でも助かる方法としては――」
本気で案を模索しているのだろうクロノアの様子に、アーサーはおかしくなった。
冷徹でいて、部下を見捨てると言いながら、ぎりぎりの段階まで見捨てられない。本当にどうしようもないと分かるまで、必死に助けようとする。
それはクロノアがデルハイワーの乱で亡くなっていった人々を見て信条になったものなのか、それとも根っからの性格か。
いずれにしても、この男が依頼主だから世間知らずの自分も今まで命があったようなものだな、とアーサーは思った。
「お前は、頭がいいようでいて悪いな。いや、あえて俺に言わせるために黙っているのか?」
「何?」
面と向かって頭が悪いと言われて喜ぶ者はいない。
クロノアも怪訝そうな表情の中に少し苛立ちを滲ませてこちらを見た。
あえてそれを無視し、アーサーは狼へと話しかける。
「昨日は俺もお前の巣を借りたのに、何も言わずに悪かった。ありがとう」
狼は真正面からアーサーを見て、ぱたりと尻尾を振る。
どうやら許してくれたらしい、と苦笑して、アーサーは恐れていた狼へと手を伸ばした。
怖がるな、と自分に言い聞かせ、できるだけ自然に指先をそのごわごわした毛に触れさせる。
狼は目を細め、アーサーの好きにさせてくれている。
クロノアがしていた時程気持ち良さそうではないので、我慢してくれているといったところだろう。
アーサーはそれを撫でながらクロノアの方を見ずに話す。
「俺はあの場で心に一つ決めたことがあってな。とりあえずこんな事態に巻き込んでくれたお前を一発殴らないと気が済まない」
「……そうだな。殴ってお前の気が済むのなら――」
「ただし」
言いかけたクロノアの言葉を、故意に遮る。
「さすがにこんな怪我人を殴るのは気が引ける。今度、お前の怪我が治ってからにする」
「今度、……って、お前――」
背後で、クロノアが息を呑む気配がした。
「すまない、少し付き合ってくれ」
その台詞は三足の狼に向けて言った。
魔法使いは動物に好かれるというのは本当だったらしい。ひょっとしたらクロノアだけではないのかと少し不安だった。
だが、昨日はあれほど警戒して唸っていたのに、狼は心からの頼みにはあっさり動いてくれた。
不自由な足を引きずって、ひょこひょこと洞窟の入り口へと歩いて行く。
「……待て、アーサー。やめろ」
何をしようとしているか悟ったクロノアが制止しようと声を上げた。怒気とそれ以上の焦りを含んだ声音だが、アーサーは立ち止まらない。
筋肉が疲労で軋む音がするが、心臓が送り出す鼓動の強さがそれに勝る。
「お前は、一番有効な策を取っていない。一度はあの城でやったのに、何故今やらない」
それは、どちらかを囮にしてもう片方が目的を遂げるというもの。
今回囮になるべきはどちらか、言わずとも明白だ。
「今とあの時じゃ状況が違う! 俺が死んでもユーリーがいる、殿下だってこのことを知っている! 俺は死んでも大局的には問題ない!」
「お前が処刑されて、ユーリーが国に報告すれば、確かに謀反鎮圧には一番いいだろうな。だが、俺は国のために動く気はない。依頼主はお前だしな。別段お前の護衛が依頼内容ではないが、金は払ってもらわないと困るし、逃げた後でお前が死んだと聞いてみろ、寝覚めが悪い」
「屁理屈をこねてる場合か」
クロノアは唸るように言い、立ち上がろうとする。
だが、普通なら安静にしていなければならないような傷と熱を持った体だ。途端に体の均衡が崩れて指先が土を掻く。
「屁理屈なんかじゃない。――俺が自分で決めたことだ」
昨日までにはなかったものが、アーサーの胸中にはあった。
ようやく自分がもどってきた、そんな感覚に従ってアーサーはクロノアの方を振り返らずに外へと歩いて行く。
「この馬鹿野郎!」
クロノアが怒声を張り上げる。近くまで捜索隊が来ていたらどうする気なのだろうとアーサーが思うくらいの大声だった。
「お前はあの男を知らない、芝居をしたところで見抜かれる。ハンフリーや竜騎士の名を甘く見過ぎだ、死ぬぞ!」
「その結果死ぬとしても、俺は後悔しない」
「死ぬよりひどい苦痛を――拷問にかけられてもそんな台詞が言えるのか!」
その可能性は頭に浮かばなかった、と思った。思っただけで、足は止まらなかった。
代わりに、狼が待つ洞穴の入り口付近で腰に提げた小袋から木彫りの鳥を取り出して置いた。色々使ってしまったために、これが最後の一個だ。
「時間が経ったらこれを使って、お前の望む場所に飛ばせ。お前のことだ、魔法使いのことを知っている仲間はたくさんいるだろう」
「アーサー……!」
アーサーは一度だけクロノアを振り返って、自分の決意を伝えた。
見据えた先には、熱と傷の痛みに苦しみながらアーサーを射殺すような目で睨んでいる黒髪の騎士がいる。
「俺が囮になって、時間を稼ぐ。別に義理立てしている訳ではないからな。俺が、お前に死んで欲しくないだけの話だ。死んでしまっては殴れなくなるからな」
背後で何か叫ぶ声が聞こえたが、アーサーはもう振り返らなかった。
狼と共に洞穴を出た。
見上げれば、木漏れ日がちらちらと目を射す。
これだけ明るければあの洞穴が見つかるのも時間の問題だろう。
木々の切れ目から太陽の位置を見て、方角を判断する。
「お前、ある程度離れても、巣まで戻れるか?」
尋ねると、狼は小さく、甲高く鳴いた。
夜のしじまに響き渡れば恐ろしいが、今は頼もしく聞こえる。
「行こう」
短く言って、アーサーは歩き出した。
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