翡翠の騎士たち

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  33  

水の音がする。
絞った水が盥にこぼれる、そんな日常の中の音。
ひんやりと心地いい布地が首筋に当てられているのを感じ取ったアーサーは静かに息を吐き、目を開けた。
薄ぼんやりと焦点の合わない目は、石の天井を捉える。視界の隅で、布を持った女が歩いているのが見えた。
そのまま何回か呼吸をして、靄がかかったような頭の中でここはどこだろう、と自問した。
「起きたか」
部屋の隅にいたのだろう、今まで視界に入らなかった人物の声が聞こえた。
首をその方向へ傾けると、見覚えのない人物がいる。
若い男だった。恐らく騎士なのだろう。体つきはがっしりとしていて、目が鋭い。
この国の人間ではない、とアーサーは直感した。
髪は茶髪だが、微妙に濃いその色合いは、クラナリアというよりマークドに多く見受けられる髪色だ。
その男の後ろで、粗末な布地で作られた服を着た、いかにも下働きという格好の女が金盥の上で布を絞っている。蝋燭が部屋に灯されているところを見ると、今は夜のようだ。
自分は一体どれくらい眠っていたのだろう。一日は二日でないことは、体内の感覚で分かるが。
思考がまとまらないアーサーに向かって、髪と同じ目の色をした騎士が口を開く。
「自分のことが分かるか?」
「……牢に入れられるものとばかり思っていました」
婉曲に答えたアーサーに、その騎士は日焼けした顔を笑みの形にした。
「ベイフォード卿が客分として扱えと仰った。君が反逆者にならない限り、その権限は保証される」
ベイフォード卿という名前と、あの危険な竜騎士が頭の中で結びつくまでしばらく時間がかかった。
アーサーは自分の処遇が案外緩いことに驚きながら、起き上がろうとする。
その際、左手に体重を乗せてしまい思わず呻き声が漏れた。
「ああ、その傷はかなり深いようだ。無理をしない方がいい。狼に噛まれた、とここの城兵たちが言っていたが」
「三足だからと油断しました」
アーサーは答えながら、今度は慎重に身を起こした。
木の枝でできた擦過傷、雨に打たれて山を登攀した疲労、噛まれた傷跡から発せられる痛みが、一気に体にのしかかる。
それでも何とか起き上がり、アーサーは騎士を見た。
「ベイフォード卿の配下だ。ジークフリート騎士団の一人、コーネリアス・レヴェリッジという。そちらは?」
言いながら、騎士らしき男は寝台脇の椅子に腰を下ろした。
アーサーはまだぼんやりとした部分が残る頭を押さえながら慎重に答える。
「アーサー・アーヴィングです、レヴェリッジ様」
「ああ、ミュアー卿でいい。アーサー・アーヴィング……君は、余程の世間知らずかもしくは命知らずかな?」
いきなりかけられた言葉にアーサーはぎょっとなった。
機嫌を損ねたせいで拷問でもされるのか、と後ろ向きに思考を走らせるアーサーに、コーネリアス・レヴェリッジは悪戯っぽく笑いかけた。
「普通、隣国でもレヴェリッジ家と聞けばそれなりに反応するはずなのにな。全く何も返してくれないとなると少しからかいたくなってしまう」
くすくすと面白そうに笑う様子からは、本当にからかい以外の目的は見られない。
安堵するアーサーは、レヴェリッジの名を思い出そうとしてみた。
しかし、隔離された神院で過ごしてきた日月は世間から確実に距離を置かせていた。全く思い出せない、と早々に諦める。
とりあえずマークド皇国の大家なのだろう。
大家にしてもクロノアとはまた毛色が違うようだが、彼は特殊すぎるのだろうから参考にしてはだめだ。
「さて、アーサー。私は一応君に対する尋問も兼ねているのだが、質問してもいいかな?」
「……どうぞ」
顔が引き締まる。
別に、これは不自然なことではない。隣国の騎士に尋問されるとなれば緊張して当たり前だ。
だが、嘘をついているかどうかを見分けられてはならない。
できるだけ無表情を押し通そうと、アーサーは静かに呼吸した。
「君は、どこの神院の所属だ?」
「レイトクレル、ユレタ神院です」
「ああ、レイトクレルか。クラナリアでは王都を除いて随一の賑わいだというじゃないか」
「よく言われます。市内に出たことはあまりないので、実際のところは分かりませんが」
神官は滅多に人前に出ない、それもアーサーのような裏稼業を持つ者は。
尋問に来るくらいだから、この男は魔法使いのことも知っているのだろう。肝心の部分以外は誤魔化して喋らない方がいい。
「そうか、君は魔法使いだったな。はは、失敬。つい義兄上を引き合いに出して考えてしまう」
「あに……? 兄君は魔法使いでいらっしゃる?」
つい、クロノアといた時の気安さを引きずって質問が口に出てしまった。
コーネリアスは唇に緩やかな弧を描いた。しかし、それは笑みではあるが内心の苛立ちを押し隠すような微笑みだった。
アーサーは不興を買ったことに気付き、即座に頭を下げた。
「お許しを。まだ少し頭の痛みが残っておりまして」
判断力を欠いた。自分に舌打ちしたい気分でアーサーは相手の沙汰を待つ。
「いや、構わない。オリムの兵は君を少し手荒に扱いすぎたようだな」
気遣っているように見えてかなりの皮肉だ。
こんな質問をしていいかも分からないほど頭が朦朧としているのか、と言われているのだろう。
――やはり、貴族。
特権階級に対する感情を蘇らせながらも、アーサーは頭の隅でどこの国でも貴族は変わらないのだな、と諦めにも似た感情を抱く。
庶民、それも旅芸人と混じって育ったクロノアがいかに言葉を交わしやすかったか、改めて思い心中だけで嘆息した。
「ベイフォード卿が私の義兄上だ。あの方の妹と結婚することになっている」
「それは――僭越ながら、おめでとうございます」
「君は謀反を企んだ領主の城にいる隣国の人間に結婚の祝いを述べるのか?」
優位を保たせてやらねば怒り、その癖言葉遊びで嬲る。そして、自分を越える者は許さない。
どうしようもない程の貴族だ。
嫌悪とも侮蔑ともつかない感情が沸き上がってくる中で、冷えた心が判断する。
この男が相手ならばいける。今まで貴族の相手は嫌というほどやってきた。
決定的な違いは、相手が自分に遠慮する部分が全くないということだけ。神院に来る貴族は後ろ暗いところがあり、故にほんの少し扱いに気をつけていた。
もっとも、彼らにとってみればアーサーたちは文字通り願いを叶えてくれる魔法の道具だったのだろうから、道具以上の価値は見出していなかっただろう。
そして、アーサーは道具としてはこれ以上ない程使い勝手が良かった。だから色々な任務を任されてきたのだ。
過去が、現在の自信に変わる。
「私は、この国に特別愛着がある訳ではありませんから」
「ほう?」
「……私の、いえ、この国の魔法使いの過去はご存知でしょうか」
「もちろん、そのために私がこの尋問に当たっている」
だから竜騎士から任されたのだ、という自負を隠しもしない男に、おかしさがこぼれた。
同時に、高位であるとはいえ隣国の騎士が知っていたことを知らない自国の人間、真実を隠され続けている魔法使いたちに対する同情と申し訳なさ、国を操作する側に立っているこの男への本能的な拒否感が湧いてくる。
しかし、表情には欠片も出さない。皮肉にも、神院で訓練させられた感情を表さない積み重ねが役に立っていた。
「でしたら、私がこの国を愛していない理由はお分かりでしょう」
「ふむ」
コーネリアスは顎をなぞりながら、アーサーを注視した。
あまり見られて気持ちいいものでもないので、失礼にならない程度に目を逸らす。
「今回のこの仕事、君は納得尽くで受けたのか?」
「……私たちの仕事に納得という言葉は必要ありません。上の人間が受け、私たちがそれを遂行する。今回もそういうものでした」
「なるほど。内容はどんなものだった?」
アーサーは、もう何年も前の事のように思い出す。
急の依頼とのことで、すぐにレイトクレルを発てと言われた。依頼内容は不明、現地で合言葉を持った人間がいる、その男に詳しいことを聞くように。
男の外見の特徴、合言葉の内容、そして引渡しの鍵となる神院の紋章。
それ以外何も知らされず、アーサーは余程金払いがいいのだろうと腹立たしく思いながら神院を出たことを覚えている。
かい摘んで話すと、コーネリアスは話に不自然な点はないと納得したように頷いた。
「そうか。では、君はこの謀反についてどう思っている?」
「どうも」
「どうも? 何も思っていないと?」
「……ええ。私にとっては、何も。世界が遠すぎて、急に謀反と言われましても、どう思っていいのかすら分かりません。道具には荷が重すぎる」
自嘲に、コーネリアスは顔色も変えなかった。アーサーの言葉を当然のものとして受け止めた顔がそこにあり、アーサーは彼らにとっての自分の価値を再認識した。
これから先は、自力での戦いになる。
クロノアたちの助けは望めない。彼は助けようとしてくれるかもしれない。
だが、もう駄目だとなったら見放す。あの城で、ユーリーよりも国に起こる重大事を優先しようとしたように。
死ぬだろうな、と漠然とした実感がアーサーの胸に生まれた。
しかし、ただで死ぬ気はない。
コーネリアスは今後、自分がどういう経緯であの山でいたのかを訊いてくるだろう。騙し通し、クロノアへの追手を防ぎ、時間を稼ぐ。
少しでもあの男が助かる可能性を高くするために。
胸中では来るなら来いと身構えたが、コーネリアスはそこで不意に立ち上がり、外へ出て行った。
怪訝に思ったのも束の間、すぐさま後ろに人を連れて戻ってくる。コーネリアスの影に隠れて、その人間の顔はアーサーから見えない。
「私の尋問は以上だ。これからは、君の依頼主について――よくご存知の方にしていただく」
よくご存知、という言葉からあのハンフリーという魔法使いが連想された。
しかし、コーネリアスの体躯から顔を出したその人物に、アーサーは息を呑んだ。
まさか、これほど早く出てくるか。
「――会うのは二度目だな、異国の同胞」
昼日中にも眩しい、銀の髪。鋭く光る藍の瞳と、片方の目を隠す眼帯。整った顔貌は冷気すら放っているような威圧感を押し出している。
――竜騎士、ジャック・ラトレル。
「さて、あの黒髪の傭兵気取りはどこへ消えたのか教えてもらおうか」
ふざけた軽口の中には、嘘など言ったらその瞬間首を刎ねられそうな殺気が込められていた。
嫌でも腰の剣が目に入る。
アーサーの背中を冷や汗が流れた。




鳥が飛んで数日。
その間、洞窟の奥に生えている薬草と、雨水だけで凌いでいたクロノアはそろそろ限界に達しつつあった。
「こんな所で餓死したら、合わせる顔がねえぞ……!」
傷の疲労と発熱、飢餓感がクロノアを蝕んでいく。
飢えだけなら、傷だけなら、ここまでひどくはなかっただろう。
せめてもの救いは、あの鳥のアーサーの力が残っていたことだけだった。クロノア自身に魔法使いの力はない。
鳥の足には、オリム城内で作成した見取り図をくくりつけて送った。自分が思い描いた場所へ届いていることを祈るしかない。
ただ耐えて待つということは、大事と分かっているだけに辛い。
この狼がいてくれたのが救いだった。動物は魔法使いを本能的に好くとは言え、やはりそりが合わないものもいる。その中で、この狼は非常に好意的だった。
おそらく三本足になった理由は、剣で斬りつけられたからだろうに。剣につけられた傷なのは、見れば分かる。
しかし、今は狼に同情する余裕がない。
下手をすれば視界まで霞んでしまいそうな極限状況の中、クロノアにはひたすら一呼吸が長く感じられた。
どれほど時間が経っただろうか。
穴に近づいてくる足音を聞きつけ、体が反応しようとしたが、動かない。
ここまで鈍ったか、と自嘲する暇もない。
狼が耳を逆立て、低く唸り声を上げる。
穴の入り口に人影が差し、低く呼ばわる声が聞こえた。
「ヴァレッテ様……いらっしゃいますか?」
「……エリック?」
聞き覚えのある声に、クロノアは応えた。
同時に、僅かに残った力で狼の頭を撫でる。
「安心しろ――味方だ」
クロノアの語調に安心したのか、狼は大人しくなる。
その声を聞きつけ、松明を持った人間が洞穴へと踏み入ってきた。
近づいてくるにつれ、顔が明らかになる。火に照らされた二十半ばの男の顔には、深い苦悩が刻まれていた。
それはクロノアの姿をはっきりと認めてからなお大きくなる。
「……ヴァレッテ様……」
名を呼んだきり、エリックは肩を大きく上下させることしかできない。
「どうした、エリック……随分老けた顔をしているぞ」
苦しい息の下で吐いたクロノアの冗談に、エリックは何かを言いかけ、飲み込んだ。
「今夜この山は安全でございます。脱出いたしましょう」
そして、エリックはクロノアの傍にいる狼に目を止めた。普通の人間ならば大声をあげて逃げるか主人を守ろうと庇うかだろうが、エリックはどちらの行動も取らなかった。
ただ、静かに狼に向かって頭を下げた。
「……魔法使いじゃないお前の行動が伝わっているかは分からないぞ」
「例えそうでも、この狼は旦那様を助けたのです。これは私の我儘ですから」
断固たる信念をのぞかせる使用人に、クロノアは久々の苦笑を浮かべた。
変わらないな、と小さく呟きながら狼の方に顔を向ける。
「すまなかった。……また、いずれ」
会うことがあれば、とクロノアは喉を撫でた。
狼は気持ち良さそうに手の甲に首を擦り付けると、クロノアを見上げる。
「行きましょう」
エリックの促しに従って肩を貸してもらい、クロノアは洞穴の外へ出る。
最後に振り返ると、狼は闇にらんらんと光る目でこちらを見ていた。
できるだけ長く生き延びろ。
心の中だけでそう言うと、クロノアは顔を上げた。
「……行こう」
オリムがあるはずの方角を見る。町の光など見えはしないが、そこには囮になったアーサーが囚われているはずだ。それとも、まだ逃げているのだろうか。
しかし、助けようにもこの体たらくでは自力で歩くことすらままならない。
唇を噛むクロノアに、エリックが気遣わしげに囁いた。
「まずは公爵領へ避難いたしましょう。大事はその後に。お体を治さなければ何も出来ません」
「……そうだな」
すぐ近くに敵がいるのに、自分一人では何も出来ない。
無力感を噛み締めながら、クロノアは胸中で願った。
――無事でいればいいが。  
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