翡翠の騎士たち

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  35  

クロノアは、公爵家の屋敷内で静養していた。
飢餓状態から助けだされて、五日が経つ。ようやく体調が戻ってきたが、五日もかかる程衰弱していたのかと思うと自分に舌打ちしたい気分に襲われた。
エリックには何か動きがあったらすぐ知らせるように言ってあるので、まだベルナール男爵自体に動きはないだろう。
寝台に横たわり、天井に施された豪華な装飾を見るともなしに見る。
ここはスペンサー公爵家の中でも一族の筆頭たる兄の屋敷だ。
クロノアがここに運ばれた時兄本人はいなかったが、そろそろ来る頃合いだろう。
そんなことを考えていると、扉の向こう側から荒い足音が聞こえてきた。
お出ましだ。
クロノアがゆっくりと起き上がった時、扉が音を立てて荒々しく開いた。
大股で闊歩してきたかと思うと、扉を開けた人物は挨拶の一言もなしに大音声を放った。
「この大馬鹿者が!」
言い終わるや否や、大きな手が飛んできた。平常時なら避けられるが、体が鈍った今はとても叶わない。
思ったよりも強い衝撃が頬に走ると同時に、体が傾いだ。寝台に手をつくと柔らかな毛布に掌が沈んだ。ずきり、と返ってきた痛みには無視を決め込む。まだ傷は完全に塞がったとは言い難い。
平手打ちで体勢が崩れるほど強打してきた相手を、クロノアは冷ややかな目で見返した。
「怪我人を打擲なさらないでください、大兄上。傷に響きます」
「その程度で響くような柔な人間ならば貴様はとうの昔に死んでいる!」
声の主は、茶色の髪と目、貴族にしては不似合いな程逞しい体躯、自分とは似ていない――それでも、家族の中で比較して一番クロノアと似ているのはこの上の兄だが――その全身を怒りに震わせていた。
今代のスペンサー公爵、クラナリア王国の重鎮である兄、ハーヴェイである。
クロノアの端整さとはまた違う、男らしい面構えだ。その顔も今は朱に染まっている。激怒している長兄に向かって、クロノアは冷静に頭を下げた。
「謹慎中であるにも関わらず屋敷を飛び出したのは、申し訳ありませんでした。そのことにお怒りでしたら謝ります」
「家長の命を無視しただけでは飽き足らず、生死の境をさ迷って血を絶やすところだったことについて弁明はないのか」
「私一人が死んだところで……大兄上も兄上もいらっしゃる。スペンサー家の直系が絶えるということにはなりません。そもそも、私が血を残すのは分家、本家としては大兄上こそがお気をつけにならなければならない立場でしょう」
舌を動かしていると、連動して打たれた右頬が痛んだ。
こっそりと顔をしかめていると、まだ熱の収まりきらない声が飛んでくる。
「貴様という奴は! 火で送られたいのか!」
クラナリアの葬儀は基本的に土葬である。火葬に処されるのは罪人、もしくは身寄りがなかったり旅人だったり、そんな理由で墓地に入れてもらえない者だ。そのため、勘当するという意味の、貴族にとっては屈辱以外の何物でもない慣用句にもなる。
しかし、クロノアは怯みもしなかった。不敵に笑って言い返した。
「大いに結構。私がいなくなれば大兄上もお荷物が一つ減るでしょうからね」
喧嘩腰の弟に、ハーヴェイの顔が険悪になる。
「死ぬなら公爵家の人間として役立って死ね。それが貴様の役割だろう」
「生憎と下賤の育ちなもので。私は役割というほど大きなものを果たす駒になれるとは思えません」
「殿下の駒にはなっても、公爵家の駒にはなれんという意味か」
目を開き威圧するように見下ろしてくる長兄に、クロノアは冷淡に対応した。
「勘違いなさらないでください。私はレイヴィアス殿下の命令を聞いた訳ではありません。ただ翡翠堂の一員として、王家の意を汲んだまで」
ハーヴェイは忌々しそうに顔を背け、吐き捨てた。
「まさか我が公爵家からあの堂に入る者が出ようとは……末代までの恥だ。本来なら、我々はあの者たちを使う立場だぞ」
言いながら、傍にあった椅子を引き寄せて腰掛ける。背もたれと台座には張られた天鵞絨に縫い取りがされ、木の部分も透かし彫りが施された、日用品として使うには贅沢な品だった。
とんだ金の無駄遣いだ、と心の中だけで批判しながら、クロノアは口を開く。
「私が好きこのんで入ったとお思いですか。こうなさったのは先代のスペンサー公爵が原因ですよ」
それから、と兄に冷たい一瞥をくれた。
「軽々しく翡翠堂の人間を使うとおっしゃいませんように。スペンサー公爵家が王家に成り代わるというようにも聞こえます」
「私がそんな愚昧な失態を犯すとでも? ほんの戯言だ。それよりも、問題はお前だ。何故殿下の命令に従った」
「ですから、命令ではありません。ただフェルディナンデス伯爵家令嬢にとっても良かれと思ったからです。伯爵に貸しも作れますしね」
「元はといえばお前が蒔いた種でもあるぞ。伯爵家令嬢を親衛隊にとは……全く。これが他国に知られれば、我が国の品位は下落どころの騒ぎではすまんぞ」
「だからこそ、この反乱を止めることが大事なのです。竜騎士まで投入してきたんです、マークドは大規模な戦争を行うつもりに相違有りません」
「確証はあるのか。竜騎士が捨て駒という可能性は」
「ありえません。捨て駒にされるほど、あいつが保身を怠ったとは思えない。何か、目的があるのでしょう。反乱は表向き。何か裏向きの事情が――竜騎士が出てくるほどの、何かを手に入れようと」
「翡翠堂に一人、欠員が出たそうだな」
クロノアは、長兄の思わぬ言葉に表情を引き締めた。
「どこでお聞きになられました」
「翡翠堂には我が縁戚もおるからな。フェイアント卿が、さぞ弟御はご心痛でありましょうと微に入り細を穿って教えてくれたぞ」
「あの馬鹿が……」
脳裏に真面目そうな顔貌で人の裏をかいていく曲者の男が思い浮かび、クロノアは痛烈な舌打ちを漏らしそうになる。
ここで行儀の悪い真似をしてはまた小言が飛んでくるので、どうにか堪えた。
「従兄弟殿には礼を言わねばな。お前がまた余計な情けをかける手間を省いてくれたのだから」
「余計な情け……?」
眉が跳ねた。
兄を睨み据えながら、クロノアは低く地を這う声音を発する。
「公爵家の惣領として育ったあなたに、私の気持ちは分からない」
「当たり前だ。そうなるべく私は生きてきたのだからな」
時として王家に列せられるほどの巨大な権力が、この男の両肩にはのしかかっている。
それを支えきるために、ハーヴェイは何かを犠牲にして事を成し遂げることに慣れさせられている。その犠牲になるのが、自分の血を分けた弟であっても怯えぬように。
「……あなたは地獄を知らない」
返答はない。
安穏と過ごしている、とハーヴェイを責めるつもりはなかった。
ただ、クロノアの中で、あの乱とそれに巻き込まれて命を落とした人々、生き残った人々に向ける感情が余計なものだとは決して思わない。
平民を見下す貴族になれれば楽だった。いっそ突き放されて道具と言われれば楽だった。だが、クロノアはどちらにもならずにいる道を選んだ。
一度深く呼吸をしてから、クロノアは騎士の顔になって兄を仰ぎ見る。
「私は既に回復いたしました。一度翡翠堂に戻ります」
「ならん」
「大兄上!」
思わず声を荒らげた弟に、ハーヴェイは淡々と告げる。
「お前の報告は既にエリックを通じて、従兄弟殿に届けてある。お前が再び前線に戻る必要などない」
「戻るかどうかは決議次第です」
「お前のことだ、前線へ出るに決まっている。ましてや、元部下が反乱を起こしたというのであれば、自分で始末をつけようと思って最深部まで入り込んでいくだろう」
さすがに長年見ているだけあって、図星だ。
しかし、クロノアは退く気はなかった。
「そうです、もしあの者が秘密を喋ったとしたらどうします。その場に私がいれば何とでも繕えます」
「お前に汚れ役をあてがわなければならないほど、あの堂に人材は不足していない。幸いにも従兄弟殿は快く了承してくれた」
「私抜きで話を進めないでください!」
「お前の感情はここには必要ない。公爵として命令する。ルーウィス卿、お前はこの屋敷で乱が終結するまで大人しくしているように」
「お断りします!」
噛み付いたクロノアに、国内きっての大貴族はため息をついた。
「大方、相手が欲しいものの目星もついているのだろう。それを口実に最前線に出る気満々のお前など、堂へ返せるものか」
「今更私の心配ですか?」
獰猛な笑いを浮かべてクロノアは長兄に視線を投げかけた。対して、ハーヴェイは冷ややかな目を返す。
「お前の体の心配ではない。我が公爵家の心配だ。翡翠堂そのものは限られた存在しか知らないとはいえ、お前が前線に出るとなると理由付けが必要になる。どうあっても公爵家の名を出さない訳にはいかんだろう」
ハーヴェイは、どこか哀れむような目をクロノアに向けた。
「お前が本当に無能であれば、こんな心配はいらん。一人で行ってその裏切り者を斬り捨ててすぐ戻れというところだ。だが、公爵家の名を動かすなら兵が必要になる。公爵家の末弟が、第二殿下の学友が、臣下の分を越えるような名声を手に入れるとなると相当な問題だぞ」
クロノアは奥歯を噛み締めた。
謀反鎮圧となるとそれに伴って名も高まる。ただでさえ公爵家はやっかまれることが多いのだから、無用な恨みまで買うことはない。
恨まれるだけならいいが、それを契機に王家に目をつけられるようなことがあってはたまったものではない。口さがない世間は、一体何と言うだろうか。
この兄の心配も分かりすぎる程分かった。神経質な、と笑うことはできない。
「――しかし」
反論をしかけた時、再び扉越しに誰かが走ってくる足音が聞こえた。
反射的に口を噤んだクロノアは、扉の前にいた見張りを押し切って駆けこんできた人物に驚いた。
「……兄上?」
そこにいたのはクロノアの兄にあたり、今代のスペンサー公爵の双子の弟にあたる人物でもあった。
「ああ、ヴァレッテ! 無事で何よりだ!」
寝台まで一直線に駆け寄ると、次兄ヒューゴーはクロノアの肩を抱いた。指先が治りかけの傷口に触れて、思わず呻き声が漏れる。
「兄上、傷口に障ります」
どうにかきつい抱擁から逃れて言えば、ヒューゴーはあわてて手を放した。
「すまない、僕としたことが! つい弟の無事を確認できて感極まってしまった。おや、兄上いらしたのですか、お久しぶりです」
毒気を抜くような爽やかな笑顔の上では、茶色の髪が乱雑に踊っている。どうやら急いで駆けつけてきたらしい。
今の今まで険悪な雰囲気で睨み合っていた長兄と末弟は揃って嘆息した。
「ヒューゴー。入ってくるならノックの一つくらいしろ。それと何だその髪は。身だしなみくらいは整えろ、公爵家の人間として外に出せない格好だぞ」
いかつい戦士のような長兄と、典雅な貴族を体現したような次兄。これで同日に同母から生まれた人間同士だとは信じがたいが、双子なのは紛れもない事実だ。
上の兄にも下の弟にも似ないヒューゴーは、髪を撫で付けながら笑った。
「これは失礼を。しかし弟が暴漢に襲われたと聞いて矢も盾もたまらずに領地から飛んで参りましたので。こういう時、与えられた領地が飛び地というのは不便ですね」
暴漢という単語にクロノアはそっとハーヴェイを盗み見た。長兄は、目配せでそういうことだと示してくる。
同じ公爵家でも兄と弟では重さが違う。末の弟が国家機密に関わっていても、それを知ることはできない。
苦い因習を飲み干し、クロノアは少し陰りのある笑顔を見せた。
「申し訳ありません兄上。私の不注意でした」
「ふむ、確かに護衛の一人もいないのは不注意だったね。しかし、お前の剣の腕で負かせないとは、その暴漢はよほど強かったのだろう。命があってよかった。どこも不自由はないかい?」
心底こちらを気遣ってくる兄に、クロノアは穏やかに応じた。
「ええ、医師の話では後遺症もないだろうと」
「そうか。本当に良かった。ところで兄上。その不届き者の刑はいかほどに?」
弟を案じる兄の顔のまま、ヒューゴーはハーヴェイに問いかける。
「まだ捕まっていない」
今後も捕まることはないだろう。暴漢など存在などしていないのだから。
そんなことは知らないヒューゴーは、顔を曇らせた。
「そうですか。私としては、最低でも火刑に処すくらいの心持ちでお願いしたいのですが」
一見文雅を嗜む好青年のようなヒューゴーの顔に、冷たいものが過ぎる。
「スペンサー公爵家の末弟を襲ったのです、それくらいは当然でしょう?」
ともすれば、ヒューゴーは双子の兄であるハーヴェイよりも血統思考が強い。
しかし、ハーヴェイも深く息を吐きながらそれには同意した。
「確かに、スペンサー家の者に手を出すとどういうことになるか、思い知らせてやる必要はある。必ず捕まえよう。だが私が取り仕切ることだ、お前が余計な気を回すことはない」
「お気遣いありがとうございます、兄上」
クロノアならばむっとして言い返しているところを、ヒューゴーは人当たりのいい笑顔と礼でかわす。
貴族とは本来こういうものだ。
クロノアは未だにどれくらい自分がそこに浸透しきれていないかを感じながら、椅子から立ち上がった長兄を横目で見る。
「大兄上、どちらへ?」
「お前の無事も確認した、私は戻る。今後のことを相談せねばならん」
「お待ちください、まだお話が――」
立ち上がって兄を遮ろうとした途端、体に痛みが走る。
まだ全回復には程遠い。
「お前には休息が必要だ。ヒューゴー、こいつが無茶をしないよう見張っていろ」
「はい兄上」
ヒューゴーは答える。兄なりの弟への気遣いだと思っているのだろう。
クロノアはハーヴェイを止める手立てを模索したが、すぐには思いつかない。
制止の声をあげる前に、ハーヴェイは扉をくぐり抜けていってしまった。
「まあ、そんなに落ち込むことはない。何も、兄上も今すぐに出発されるわけではないだろう。今夜くらいはここに泊まっていかれるさ。どうしても話したいことがあれば、晩餐の後ででも話せばいい。それよりも、お前の体のことを考えなくては。大人しく寝ていなさい」
何も知らないヒューゴーに、一刻を争う事態なのだとは言えない。
しょうがないと諦め、クロノアは次兄の言葉に従って再び横になった。
ベルナール男爵の居城のそれとは比べ物にならないほど柔らかく、いい匂いのする寝台だ。公爵家という存在がどういうものか、たった一つの寝台で分かってしまう。
「殿下がお前の様子を聞いてこいとの仰せだったよ。大層心配しておられた」
「殿下には後で謝らなければいけませんね」
「そうとも、お前は殿下の数少ない学友なのだからね。体には気を付けないといけないよ」
他愛もない世間話に相槌を打ちながら、クロノアの心は遥か遠くへ飛んでいく。
今は何もできない自分に苛立ちながらも、与えられた貴族という役割を演じ続けるしかなかった。  
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