翡翠の騎士たち

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  36  

アーサーが置かれた環境は悪くなかった。
この城に舞い戻ってから七日が経つが、部屋の外に出る時見張りがつくこと以外悪くはない。
常に誰かの目にさらされるのは、今までにも経験したことだ。当初覚悟していたよりも気は楽に過ごせた。
むしろ、気にかかっているのがあの魔法使いのことだ。
竜騎士の方は何度か顔を見せたが、魔法使いの方は音沙汰がまるでない。
男爵がこちらに会いにこない、呼び出されないのは当然としても、あの魔法使いからは何らかの接近があると踏んでいただけに意外だった。
竜騎士の方も、世間話めいたことをしていくだけで、あの一回以降深いところへ立ち入ろうとはしない。
詳しいことを探ろうとすれば、するりと逃げられた。
意外といえば、この状況も意外だった。未だに、男爵たちは動きを見せていない。
クロノアたちに逃げられた時点ですぐに軍を動かすかと思っていた。しかし、城付きの騎士たちにも動きは見られず、城内に緊迫した空気はない。
ただ情報もなしにひたすら待つだけというのは、思ったよりも気苦労が募る。
そして、七日目の夜だった。
月が細くなり、やがてやってくる新月の日も近いと知らせている。
窓の外を見つめていると、突然部屋の扉を叩く音が聞こえた。そのまま、こちらの返答を待っているようだ。
また竜騎士かと思ったが、彼なら返事も聞かずに中へ入ってくる。
「どうぞ」
誰だか分からないのでそう返すと、控えめに扉が開いてローブ姿の男が入ってきた。
アーサーは思わず目を見開き、立ち上がる。
立ち上がったはいいが、何と声をかけていいのか分からなかった。
「座っても?」
頭のフードを取り去り、覗いたのは美男とは言い難い顔貌。こめかみに白髪が混じったそれは、つい先日命のやり取りをしたばかりの中年男のものだった。
「生憎、俺の部屋ではないが」
そう言いながら、傍にある椅子を勧める。
ハンフリー・ゴードンはそれに座ると、アーサーの顔を見て顔を歪めた。
笑った、と気づいたのは口調からだ。
「結局、君はここに舞い戻ってきたな」
「戻りたくて戻ってきたわけではないがな」
アーサーの皮肉な言葉に、ゴードンの目がちらりと右腕に向かう。
「狼に噛まれたとか?」
「ああ」
思い出して、アーサーは顔をしかめる。芝居とはいえ、できればあまり経験したくない類のものには違いない。
「それで? お前も俺を説得しに来たのか? それとも、あの竜騎士のように世間話でもしに来たのか」
この男には、一度自分の素直な心中を伝えてしまっている。
持ち札の半分を見透かされてしまっている博徒のような気分で、アーサーは訊いた。
だが、ゴードンは首を振った。
「君に、教えたいことがあってきた」
自分の心を揺さぶって、クロノアの情報でも吐かせる気なのだろうか。
しかし、ゴードンは言葉ではなく行動で示した。ローブの下に、抱えていたのだろう本を出す。
「本?」
間の抜けた、見たままをなぞる言葉を発して、アーサーは目を丸くした。
あまりに予想外で、どう対応すればいいのか分からない。
「歴史書か?」
歴史という単語にはどうもこの任務以来嫌な先入観を深めてしまったようだ。
反射的に尋ねたが、ゴードンはそれを否定する。
「いいや。……いや、ある意味歴史書かもしれない。見てみろ」
否定をさらに否定しながら手渡された、ずっしりと重く、革表紙が変色したその本を受け取る。
一体何枚の紙を使ったのだろうか、高級なことと年代を経たものであることはすぐに分かる。
神院にも本はあったが、余計な知識を付けさせないため、滅多に手に取らせてはもらえなかった。
もっとも文字そのものは、読めなければ神官として不自然であり、魔法使いとしての文字しか知らないというおかしさも残るため、ある程度は教えられた。
アーサー自身は、村にいた頃家庭教師に教わったこともあって、さほど学ぶこともなかったのだが。
蝋燭と月の明かりに照らされたその表紙は黒ずみ、箔押しの書名も霞んでいる。
何とか目を細めて読み取ると、それは現代の文字ではなかった。
「……これは……二百年前、の?」
魔法というものが公に認められていた時代、使われていた文字だ。
魔法狩りと通称される、魔法使いたちへの駆逐が行われて以後、大陸の国々は文字を故意に変えた。
魔法使いたちが使っていたものと同じ文字を使い続けることは、神への冒涜に値するのではないかという説が広まったからだという。
今思えば、それは各々の国が示し合わせたのだろう。魔法の純度を強化するため、そして古い文字を読み書きできる人間が魔法使いであるとすぐ認識するために。
分厚い紙の束は黄ばみ、角が丸くなってしまっている。
二百年も前の本となれば、製本技術もまだ発展していなかった頃、仕方がないのかもしれない。
慎重に中身を開き、アーサーは読む。
「これは……式典の、方法?」
この国が建国――三国併合により一つの国を名乗るようになった頃の書物らしい。
それぞれの国の特色が地方には色濃く残っている。豊穣の祭り一つにしても、やり方が随分と違う。これは、その二百年前当時の地方の式典模様を記録したものらしい。
「そうだ。まだこの国が一つになって間もない頃、国であったものが一地域として扱われるのに反発する者も大勢いた。式典のやり方から、言葉遣いまでな。今のように『地方色』と呼べる段階にまでなるには、相当揉めたようだ。だからこの本も、まだ古語で書かれている」
「……なるほど」
受け答えをしながら、アーサーの目は書面を流れるように追っていく。
こんなことをして何を企んでいるのかと思いながら、アーサーの興味は本の中へも向けられていた。
ざっと読んだだけでも、最南と最北ではまるで正反対の方法をとって神への祭事を行っている。元々は別の国だっただけに当たり前といえばそうだが、こういった些細なことが原因で国は崩れる。よく二百年、うまくまとめられてきたものだと感嘆した。
「これを俺に見せて、一体何の得がある」
「君は優秀な若者だ。見所のある人間に教えたいというのは、その道の先達に共通する願いだろう」
「……何?」
真意を計りかねて眉をひそめるアーサーに、ゴードンは重ねて言った。
「どうせ退屈しているのだろう? この城に動きがない間、魔法について学んでみないか」
「いいのか? 俺はまだこちら側につくと明言した訳ではないぞ」
「何、敵だったとしても、すぐに追い抜かされるつもりなどない」
案外自信家なのか、本当にそれだけの力量差があるのか。あの回廊で見た限り後者の可能性が大きいのが悔しいところだ。
「どうだ? やってみるか」
挑発とも何とも取れる発言に、アーサーは考え込んだ。
本当のことを教えてくれれば、それはそれでアーサーの足しになる。だが、これを機に利用をされてはたまらない。
単なる暇潰しという可能性もなくはないが、アーサーにかまけているよりもやるべきことの方が多いのではないか。
「あんたの計画は、進めなくてもいいのか」
「私の出番はこの先だ。しばらくは表舞台に任せておく」
謀反を計画した主犯という割には、男は穏やかな顔をしていた。
「何をしているんだ……と訊いても、答えてはくれなさそうだな」
「そうだ。だから、暇だろう?」
教えることは限られていると明確に告げるゴードンに、アーサーは嘆息した。
「俺にとって選択肢は一つしかないんじゃないか」
「そうとも言える」
顔色を伺って生計を立てている神官には、強い立場の人間に逆らうことが難しい。
現在どちらが強い立場にあるかなど、言わずもがなだ。
今後の明確な計画もないアーサーには、逆に相手の意図を知る好機かもしれない。
「確かに、暇だからな」
アーサーの皮肉に、ゴードンは苦笑したようだった。
「それでは、手始めとして明日までにこれを読んでおけ」
「明日?」
指さされたのは先ほどの分厚い式典のまとめ書きだった。いくら何でも急すぎる話に、アーサーは唖然とする。
「それくらいでなければ、この先の勉学などできんぞ」
平然と言ってのけられ、アーサーの負けん気に火がついた。
どの道時間を持て余していることに違いはない。
「……いいだろう」
対抗して浮かべた笑みが少しばかり引きつっていたのは、これから寝る間もないだろう予感のせいだった。
全てを見透かした年長者の笑みを浮かべ、ゴードンは立ち上がる。
「では、また明日」
ローブの裾を引きずって彼が出て行くのと同時、アーサーは年月を閉じ込めたその本を開いた。
今夜は、蝋燭を見張りに持ってきてもらう羽目になりそうだ。窓から見た月の位置は高く、朝が来るまでにかなりの時があった。




クロノアは、緩い弧を描く月を見て舌打ちしていた。
新月ならば暗闇でやりやすかったが、月光が僅かでもあると見つかってしまいやすい。
幸いハーヴェイの出立は明日の朝だ。
ヒューゴーと二人になった後に脱出した方が、騒ぎが大きくなる。ハーヴェイはヒューゴーに本当のことを告げられないため、うまく説得してくれるだろう。
物陰に隠れて素早く移動をしながら、警備の手薄そうなところを探す。こういう脱走ならお手のものだ。
体調は全快とは言えないが、これ以上屋敷でぐずぐずしている時間はない。
あの長兄のことだ、屋敷にいる衛兵たちには自分を外へ通すなと厳命しているに違いない。
王都に行くまで馬を飛ばしても三日はかかる。徒歩ならさらに時間を食うため馬の調達が必須となるが、問題はどうにか辿り着いた厩舎にも見張りがいることだった。
ハーヴェイは自分を面倒事から遠ざけることに必死のようだ。オリム城の方が何倍も楽だったとすら思うほど、警備が厳重だ。
王都まで戻ればクロノアが前線に出ることを、サイラスことレイヴィアス王子なり、翡翠堂の面々なり、支持をしてもらえる。
絶対に王宮に行かなくては、アーサーにこの借りを返すこともできず、隣国の竜騎士たちの企みを直接阻止することもできない。
馬がなければどうしようもないため、強硬手段に出ることにした。
「気絶させるか」
不穏当なことを呟き、潜んでいた藁束の影から半ば本気で立ち上がりかけたクロノアの耳に靴音が聞こえた。
規則正しい、どこか歩き方にさえ控え目な気配が漂う音だ。
クロノアは聞き覚えのあるその足音に、浮かせかけた腰を沈める。厩番と、その前に立っていた衛兵たちも気づいたようだ。
「何者」
誰何し、武器を構える音がする。先ほどまでの静かで退屈な見張りとは違い、緊迫感が張り詰めている。
不審人物なら即座に殺してくれるとでも言いたげな厩舎の面々に、静かな声が降り注いだ。
「騒ぐな。ハルマだ」
「こ、これは失礼を」
足音の主が名乗ったのと松明が顔を照らしたのは同時だった。あわてて衛兵たちは武器を収め、恭しい態度になる。
誰だか分からなかったのだろうが、あわてて厩番も頭を下げた。
「ハルマ様、一体何の御用で」
「馬を一頭……いや、二頭貸してくれ。急用だ」
「あの、恐れながら、公爵様の御命令で馬をお貸しすることはできねえです」
肩をすぼめながら、年老いた厩番が頭を下げた。
「そうなのか?」
いかにも驚いたというようにハルマは衛兵を見る。
「はい、旦那様のご命令です。申し訳ございませんがハルマ様といえど……」
同じ公爵家に仕えていながらも、厩番と衛兵では身分差がある。旦那様、と呼ぶには厩番では隔たりが大きすぎる。
――この国で我々が大手を振って歩けるように……。
いつも穏やかな表情をしていた、部下のことが頭に浮かんだ。
感傷に浸るクロノアの背に、ハルマと衛兵たちのやり取りが聞こえてくる。
「いや、それは困った。私も若様からお願いをされているのだが」
「何をでございましょう?」
「若様がお怪我を負われたことは知っているか」
「はい、何でも暴漢に襲われたと」
答える衛兵の口調には苦々しさが混じっている。クロノアに呆れているというよりは、公爵家の人間に手出しされた状況が悔しいのだろう。
「若様は大事ない、既に回復もされておられる。しかし、遠き地におられる婚約者様はさぞ気がかりであろう」
「ディートリヒの姫君でございますか」
「ああ。だから、通してもらわなくては」
「しかし、何もハルマ様自らがお出でになる必要は……。しかもこんな夜更けに」
「分からぬかな。若様の大事な言伝だ、他人に預ける訳にはいかない」
ハルマは柔らかで歯切れがいい口調でありながらも、一歩も引かない構えでいる。
困ったように顔を見合わせている衛兵たちに、ハルマは助け舟を出した。
「何、若様の手紙を届ければすぐに戻ってくる。ディートリヒの領地までは往復してもせいぜい五日、それまで黙っていてくれるだけでいい」
「しかし……」
「手紙と馬一頭分の贈り物を持っていくだけだ。それに……うまく届けられた暁には、若様からご褒美があるやもしれないぞ」
主と目の前の男と、どちらを選ぶかで揺れる男たちの天秤に僅かばかりの錘を乗せる。その少しばかり卑怯なやり方に、思わずクロノアは笑い出しそうになった。
忠誠心と身分階級は比例する。公爵家の衛兵とはいえ、身分そのものは決して高くない。
しばし迷った後、クロノアの読み通り衛兵たちは道を開けた。
「ハルマ様ですからお通しいたしますが……くれぐれもご内密に」
「けんど、衛兵様……」
なお食い下がる厩番を、衛兵が小声でたしなめる。
「いいからお通ししろ。この方は公爵家の、末弟様付きの執事様でいらっしゃるんだぞ」
執事は使用人をまとめる役目を持ち、衛兵そのものよりも屋敷内での位は高い。
厩番などは言うに及ばずなので、あわてて首を引っ込めた。
「も、申し訳ございませんです」
「安心しろ、五日以内には戻ってくる。若様もご承知の上だ」
使用人たちの心配そうな顔に笑顔を向け、ハルマ後ろ側をさした。クロノアが隠れている藁束と比較的近い場所に荷台がある。
少しばかり隙間を開けて、大きな布が全体を覆うようにかけられていた。
「あそこに令嬢への贈り物を用意している。馬と車をつないでおいてくれ」
「へい」
老人が馬を連れてくるため、厩舎の中へと入っていく。
「ん? あれは何だ」
ふとハルマが視線を荷物からは反対の方向に転じ、衛兵もつられてそちらを見る。
クロノアはその隙に、藁束から飛び出して荷台の中へ乗った。
板が軋んで気付かれないかと思ったが、床には柔らかい布が敷いてあった。行き届いているにも程がある。
クロノアは気遣いに笑みをこぼしながら荷の間に身を潜め、足元に敷いてあるものとは別に置かれていた敷布を被った。これで万一上の覆いがずれても、暗闇では荷物にしか見えないだろう。
「どうかなさいましたかハルマ様」
「いや……見間違いのようだ」
少し照れたようにハルマが言うのに重なって、出てきたのだろう老人が馬を荷台につなぐ音が聞こえる。
「村外れでもう一人と落ち合うことになっている。すまないが、それまでお前がこの荷馬車を引いてくれないか」
「へえ、わしがですか。よろしいので?」
「ああ。兵たちには馬の見張りがあるだろうからな。――さあ、行くぞ」
すぐに荷台が動き出し、車輪が地面の凹凸を振動に変えて伝えてくる。
屋敷の門も難なく通過し、村の外れまでやってきた。
一応ここは公爵領で屋敷も構えているが、城のような設備はない。実直な農民たちが暮らす村は、日の出と共に仕事を始めるため今の時間眠りについている。
しじまの中を馬と荷馬車が進む音だけが響いていた。
「ご苦労だったな、もう帰っていい。これは手間賃だ」
「こ……こんなに……ありがとうごぜえます、ありがとうごぜえます……」
老人はひたすら恐縮して礼を言い、おぼつかない足取りで去っていった。
足音が聞こえなくなってからしばらくして、覆いが剥ぎ取られる。
「もうよろしいですよ、旦那様」
見知った顔に、クロノアは苦笑を投げかけた。
「理由が随分と無茶だったな――エリック」
エリック・ハルマはクロノアの批評に着こなした執事服の肩をすくめた。
「仕方ありません。急場ですからね」
「それにしても、俺がよく今夜出るって分かったな?」
クロノアが荷台から降りながら聞くと、エリックは笑った。
「公爵様の出発が明日の朝と聞いたもので。ヒューゴー様を止められるのはハーヴェイ様しかいらっしゃいませんからね。あなたなら今夜事を起こすだろうと予測くらいつきます」
「なるほど。助かった」
「それでは、参りましょうか。いくらひとけがないとはいえ、ここで長話はまずいでしょう」
「そうだな。王都までは長い。とりあえず街道まで出るか」
夜道を進むのは自殺行為ともいえるが、ここは公爵領、クロノアも何度も行き来し土地勘がある場所だ。幸い最近雨は降っておらず、月の光もある。
そう考えてクロノアは天を仰いだ。
「さっきは疎ましかった女神が、今は輝いて見える」
「では、女神がそっぽを向かない内に行きましょう。女性というものは移り気と相場が決まっていますから」
エリックが荷馬車の手綱を取り、クロノアがもう一頭の鞍にまたがる。
二人は王都に向けて、闇の中へと進み始めた。  
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