翡翠の騎士たち

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 聳え立つ王宮は、広大という言葉一つでは言い表せない程に巨大な面積を占有している。
 万が一外敵が侵入してきた際に備えて複雑な回廊が作られ、王ですら案内がなければ迷うと冗談で言われる程に入り組んでいた。
 無数の隠された部屋や通路があり、公にはできない男女の密会やらはかりごとのために利用されている。いざという時は王族を匿い、安全に外へ逃すために設けられているものだが、ここ数百年その危機に陥ったことはない。
 その隠し通路の一つを、慣れた足取りで二人の男が歩いていた。クロノアとフェイアント卿である。
 手燭の光だけがゆらゆらと揺れて、濃い影を煉瓦でできた壁に投げかけていた。
 いくらも進まない内に、クロノアが口を開く。
「ガノンとユーリーは無事なのか」
「ああ、義父の城に無事辿りついたようだ。随分迂回したので遅れたようだが」
「他には誰か保護を求めた者は?」
「例の囲い女かい?」
 茶化したフェイアント卿に、クロノアは鋭い一瞥をくれる。
「そう睨むな。分かっているよ、あれがお前の女でないことぐらい」
「だったらふざけるのはやめろ」
「こういう時こそ余裕がないと持たないぞ。大体、お前はいつも思い詰めすぎだ」
 クロノアは普段は皮肉ばかり言ってくる学友の気遣いめいた言葉に、軽いため息をついた。
「そうやって話を逸らすということは、ダニエラは来ていないんだな」
「ああ」
 フェイアント卿の返答にクロノアは何も答えず、ただ足を速める。
「お前はいつもそうだな。一人で決めて、一人でさっさと先へ行ってしまう」
「悔しかったら追いついてみたらどうだ」
「誰が悔しがっていると? ただ行き過ぎたお前の首に縄をかけて引きずらなければならない役目はもううんざりだと言っているだけさ」
「安心しろ、それはお前じゃねえ。うちの兄の領分だ」
「公爵様もお可哀想に」
「口だけの同情なら誰でもできると言われん内にその黄色い嘴を閉じろよ。あの人は俺程優しくないからな」
「おやおや、それこそどの口が言うのだろうな」
 いつも通り皮肉の応酬を続けながら、クロノアは手元で燃える蝋燭の臭いに顔をしかめた。
 大げさではなく、今こうしている間にも王国存亡の危機が迫っている。
 ゴードンが狙っているのは翡翠堂の要を担うあの石板だろう。元は王族が堂守たちを縛り付ける保身として用意したものだが、こんな風に利用されるのは計算外だった。
 裏切れば、即座に死を意味する。社会的にも、身体的にも。翡翠堂とはそういう場所だった。
 ゴードンの秘密は魔法使いであること、ただそれだけだ。だがそれだけで表向き死刑となるには充分で、もし漏れれば彼の命はない。まさかそれを逆手に取ったこんな戦略を使うとは思わなかった。
 ゴードンは王宮が囲っている魔法使いの一族から出てきた男だ。
 一生日の目を見ない者も多い中、ゴードンはその才覚でのし上がり、翡翠堂の一員として仕えるまでになった。出自故に魔法やそれを使える者の存在を隠匿することには複雑な感傷を抱いていたようだが、ここまで大それたことを実行しそうな男ではなかった。
 もしあの石板が部外者の目に触れれば――。
 想像して、クロノアはもしこれが国家や他の者の命運さえ握っていなければそれも悪くないかと考えている自分に苦い笑いをこぼした。
 時期外れの風が吹きすさぶ夜。
 クロノアは今と同じように暗い隠された道を通り、王の居室へと向かった。その道を通るのは二度目、一度目の失敗の時に塞がれてもおかしくなかったのに、この城の持ち主はそうしなかった。
 突き当たりの天井を外せば、そこは居室の床の一角になっていた。
 音もなく部屋に上がったクロノアを照らすのは窓から差し込む満月の光だけ、だだっ広いその部屋に置かれていたのは寝台のみ。
 そこに横たわった老人は咳き込みながら、未だ衰えない眼光をこちらに向けた。
 何も問わず、何も言わず、怯えの色一つすら見せず、自分が手に提げた鋼の剣を見た彼は、異様なこの状況下でなければ孫を抱いて微笑むのが相応しい好々爺の容貌をしていた。
 むしろ怯えているのは小さな自分の方だった。
 これがどういう結果をもたらすかは、漠然とだが知っている。このまま楽に死なせてもらえる程甘くはない。
 怖い。憎い。恐ろしい。許せない。
 目の前には絶好の機会があって、今夜この男を殺すためだけに何年も耐え続けたのに、握り慣れたはずの柄が震えた。
 騎士の称号など遥か遠くにある子供が提げるには、随分と大振りで不釣合いな剣。
 だが、父から譲られた形見の大事な剣。
 重い。こんなにも、この剣は重かったか。
 復讐のために稽古し、振り回していた時は重さなど感じなかった。なのに、何故今になってこの剣は引き止めてくるのだろう。
 ――父が、やめろと言っているのだろうか。
 思い当たって、亡くした親を恋うる少年の顔になったのだろう。
 不意に老人が鋭い目つきになった。
「その程度か」
 いざとなったら臆するのか、貴様が受け取った屈辱はその程度だったのか――。
 言葉よりも雄弁に、目が嘲弄を物語っていた。
 安易な挑発と分かっていても、抑える術を持つほど大人ではない。激憤が再び燃え上がった瞳を、月光だけを頼りに見た老人は低く笑った。
 自分の思い通りに事が運んだ時に策士が見せる種類の笑みを、もうすぐ生を終える彼は隠そうともしない。
「それでいい。忘れるなよ。誰が貴様を生かしたのか。何のために堕ちるのか」
 淀みも掠れもしないその命令は、まさしく王のものだった。
 己が殺されることも、殺した者がどんな人生を歩むかも計算尽くの、絶対的な自信に満ちた顔と威厳。
 例えこの男の掌で踊ることになるのだとしても、許せなかった。
 ただ一人の父だった。大勢いた仲間も、この男の言葉一つで殺された。
 柄の冷えた感触を握り締める。もう剣は重くなどない。
 たった十歳の少年は、クロノアは、絶叫と共に切っ先を老人の胸に振り下ろした。
 鋼が老いた老人に食い込み、勢い良く吹き出た血が頭と言わず顔と言わずクロノアの全身に振りかかる。
 短い呻き声を漏らしながらも、王は絶命する最後の瞬間まで王たる威厳を保ったままだった。
 取り乱していたのはクロノアの方だった。
 人を殺したのは生まれて初めてなのも手伝って、震えが止まらず、極度の興奮と怖気が同時に押し寄せて息ができない。
 達成感など欠片もなく、ただ外側の肉を残して自分が空っぽの器になってしまったようだった。
 唇が震えて嗚咽が漏れそうになったのは、将来への絶望的な不安に押し潰されるより、犯してしまった罪の重みに身震いするより、父を殺した仇を討ったことを悲しんでいる自分に気づいたからだった。
 道具として利用価値があるから、この老王はクロノアを飼い殺しにするための首輪をつけたのだ。
 時として向けられた笑顔も、才能への賞賛も、努力への感嘆も、後ろ盾がない第二王子がいざという時のために使える駒に仕立て上げるためだ。
 所詮、オッドワルトは王家の人間。どんな血縁であっても王の血を残し、国の礎とすることを最上の使命とする。そんなことは分かっていても、クロノアが死ぬのを無念がってくれたのは彼しかいなかった。
 仇であり、師父のようでもあり、あらゆる意味でクロノアが生きるたった一つの支えだった。
 殺さなければならなかった自分。殺したくはなかった自分。どうしようもない矛盾がのしかかって、今誰かが自分の胸を剣でついてくれたらきっと楽になれるのだろうと思ったが、それは絶対にしてはいけないことだと知っていた。
 クロノアは背後で扉が開く音がしても抜き身の剣を提げたまま、自分が殺した老人の死体から目を離せなかった。
「ご苦労様でございました」
 低い声音と同時に、がっしりとした大人の手がクロノアの強張った肩に置かれた。
 男は王が直参として傍に置いていたガノンという騎士だ。彼に姓はない。つまりはそういう身分の出で、騎士といっても王が与えた仮の身分に過ぎない。
 それだけに、名誉兵士として王の手足として動いていた。
 一度王を殺そうとした自分を阻んだ手や声が、王を殺した自分を労っているのもおかしなものだ。クロノアは狂的に笑い出したくなる気分をどうにか堪えた。
「これからあなたは翡翠堂という場所に属することになります。覚悟はできていますか」
 それは、時に誰かの操り人形になり、時に誰かを操り人形にする場所。
 具体的な手法など知らなくとも、血臭がする汚泥の中に分け入る羽目になるのは分かっていた。
 視界が滲み、老人の顔が歪んでいく。
 小刻みに揺れる拳を握りしめ、少年は振り返った。
「そんなものは必要ない」
 貴族の子息でもなく、傭兵の息子でもなく、クロノアはただ一人の人間として掠れた声を紡いだ。
「俺は、色んなものを捨てに来たんだから」
 ガノンはそれを聞いて、寂しさと憐れみを混ぜた表情で血まみれの体に布をかけ、濡れた皮膚を拭ってくれた。
 あの時は彼の表情の意味が分からなかったが、今なら分かる。
 幼いクロノアは、捨てるために剣を振るったのではなかった。父の名誉を守るために、仲間の誇りを貫くために殺した。
 そんなことも理解していなかった青い自分が愚かしくもあり、ひどく懐かしくも感じられる。
 物思いに捕らわれたクロノアの肩を、フェイアント卿が軽く叩いた。
 まだ完全には治りきらない痛みが脳天に突き抜けて呻き声をあげそうになる。
「ふむ。まだまだ万全には程遠いな」
「……貴様後で覚えていろよ」
 平然とした顔で自分の手燭を奪い去って先へ向かったフェイアント卿に、クロノアは低い恨み言を漏らした。
 聞かぬ素振りをして歩を進める彼の背を蹴ってやろうかと思ったが、明かりがなくなっても困るので自重する。
 しばらく秘密の道を歩き続けると煉瓦造りが終わりを告げ、数段の階が続いているのが見えてきた。見上げれば階段の上がりきった場所を木の板が行く手を阻んでいる。
 クロノアが一番下の段に足を置いて手を伸ばすと、簡単に板が音を立てて外れた。
 フェイアント卿が蝋燭を吹き消す音を聞きながら慎重に一歩ずつ上り、視界を布に遮られた狭い場所へ体を入れる。
 クロノアは自分の体一つでいっぱいになってしまうそこからくぐり出るために、布を取り払った。
「やれやれ、ここまで来るのも一苦労だね」
「言うな、余計に気が滅入る」
 にじり出たそこは、王宮の一角に設けられた祈り場だった。限られた身分の人間しか参らないため、掃除はされているものの普段は閑散としている。神官が儀式の際に使う祭壇の下から這い出た時、祈り場の最前列、慎ましく腰掛け扇で顔を覆った女性が口唇を開いた。
「まあ、二人共お早いお着きで」
 明らかな冷笑を含んだそれに、そちらを見ようともせず、膝についた埃を払いながらクロノアはわざと慇懃に一礼してみせた。
「これはこれはバビエール伯爵夫人。長らくお顔を拝見しませんでしたが、お元気そうで何より」
「あら……意外ですわ、ルーウィス卿。あなた様は私の顔などよくご覧になったことがございませんでしょうに。見れば石になるような醜女だとでもお思いですか?」
「とんでもないことです、私如き辺境の領主には、黄金で飾り立てて眩しい女性が直視できないというだけのこと」
 会うなり早々相手を皮肉る言葉ばかりが飛び出すクロノアの背を、フェイアント卿が他には見えないように軽く小突いた。
 嫌味な程に完璧な笑みを浮かべて、手燭を祭壇の上に置きながら二人の間に割って入る。
「まあまあ、我らは一つの目的に向かう同志であり、翡翠堂という秘密を守る堂守でもあります。表での対立はさておき、ここでは国の行く末について心を一つにすべきかと」
 取ろうと思えば普通の会話として汲み取れたのにフェイアント卿がわざと険悪な言葉に変えたのは、扇で表情を隠している貴婦人が第一王子の後ろ盾だからだろう。
 王宮内にある様々な派閥や人の思惑を引きずってはならないのが原則ではあるが、やはり隠し切れない対立というものはある。王家に関するものならなおさらだ。
 俺より余程お前の方が嫌味だぞ、という文句は心の中にしまっておいた。
「何を仰るかと思えば、フェイアント卿。私は元よりそのためにおりましてよ。身を挺して国を守るための貴族ですわ」
 絢爛豪華な衣装をまとった伯爵夫人の声に、後列より笑いがこだまする。
「そうとも、俗世での立場など仮のものに過ぎんよ」
「遅かったな、ふたりとも」
「待ちくたびれましたわ」
 本来王族しか立ち入ることが許されない祈り場の中、老若男女の貴族たちが会衆席に並んでいた。
 一口に貴族といっても階級は様々で、夜会の中心となり遊び呆けていると評判の美男もいれば、普段は目立たず話題にも昇らない貴婦人がいて、厳格で有名な老騎士が姿勢を崩して座る横で、親が外国出身だからと冷遇されているはずの少年が微笑んでいる。
「もう大体の方はお着きでしてよ、お座り遊ばせ」
 伯爵夫人に促され、二人は前列、夫人の隣に座った。
 ざっと見渡して一番重要な人間が来ていないことに気づいたクロノアは、雑談をする彼らの空気はそれが原因かと思い当たった。
 翡翠堂は堂守と呼ばれる貴族を中心に、魔法使いが補佐役となっている。ちらほらと神官服を身にまとい慎ましやかに座っている彼らが見受けられ、否が応でもゴードンのことを思い出した。
 本来なら、彼も、彼が殺した同志も、こうやってここに座っているはずだった。
 竜騎士に斬られた肩が疼いて、表情が険しくなるのが自分でもよく分かった。
「過去は悔やんでも戻ってこんぞ」
 小さく諫める隣からの声に、クロノアは秀眉をひそめてため息を返答の代わりにする。
 思慮を打ち砕くように、扉が開く音がした。
 囀りをやめて集結した人間たちがそちらを振り返り、立ち上がる。クロノアもそれに倣い、正面から堂々と入ってきた相手に一礼をした。
 正面から入ることができるのは王族のみ。
 一同の叩頭を受けても動じることなく、人物は祭壇へと登り、備え付けられていた椅子に座した。
 石で造られたシドゼス神の像を背後に、ゆったりと彼女は腰掛ける。
「面をあげよ」
 五十の年を過ぎた女のものとは思えない、艶と深みのある声が放たれる。
 大神官の位を得た神殿の長であり、現王の妹姫であり、翡翠堂のまとめ役であり――クロノアが殺した老王の娘、レイナールだ。
 髪は茶から金へと薄く変化し充分に老いているものの、年齢を感じさせない清らかさと王家出身の気高さを放っている。
 ちらりとこちらに視線を向けたのは、クロノアが当事者だからだろうか。
 すぐに深みのある黒い目はクロノアを逸れて、堂守たちの上に等しく降り注いだ。
「それではこれより、国境の問題について我らの動向を決めよう――一同、着席せよ」
 
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