翡翠の騎士たち

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  42  

「お前の住んでいた村は、どんな場所だった?」
 ジャック・ラトレルが不意に言い、アーサーは目をまばたかせた。
 王都への移動中のことだった。
 商人の荷馬車に偽装し、ゴードン、ベルナール男爵とは別の道を通っていく。敵の目を欺くために別行動をとるのはいいとして、何故この組み合わせなのだろうと考えていたところだった。アーサーとラトレルは共にその目立つ銀髪を布でまとめて覆い隠し、御者台に並んでいた。
 何故そんなことを尋ねるのか聞き返すことはできず、慣習のままアーサーは答えた。
「小さな村でした。閉塞的で、他人と関わらず。行き交うのは行商人と獣と、遊学に出た村の者くらいでしたか」
「いい村だったか」
「ええ」
 それ以外に何と言えばいいのだろう。故郷は、なくなってしまったとなればなお恋しい。
 言葉すくなに答える。
 思い返す度に開きそうになる感情に蓋をして、アーサーはちらりと眼帯の青年を横目で見た。
 二十歳にもなっていない、とクロノアが言っていた。ということは自分よりも少なくとも四年は後に生まれたはずだが、若さは鋭い視線に隠れて一人前の男が隣に座っている。
 出自のせいもあるだろう。小さな頃から重責を負ってきた彼の精神と、目の前の現実に泣きわめくしかできなかったアーサーとでは、地力が違う。
「私の育った場所はな、豚小屋だった」
 一切の嫌味を消し去ったさらりとした口調だからこそ、恐ろしさを感じた。
 何と返答すればいいか分からず黙りこむアーサーに、竜騎士は訥々と続けた。
「比喩ではない。豚と変わらない。うまい肉になるよう、餌だけはばらまいて育てられた。周囲には絶えず舎監どもの目が光っていた」
「さぞ、息が詰まる生活でしょうね」
「生まれた時からそれでは、息苦しいという感情すら知らない。豚自身が、己は豚だと気づくのはどんな時だと思う?」
「……どんな時です?」
「仲間である豚が舎監だったと気づいた時さ。仲間が仲間ではないと知った時、自分の地位が豚であるとようやく気づく」
 端整な頬の片隅に、嘲笑が浮かぶ。
「豚でなくなりたかったのは誰しも同じということだろうな。同じ血を分け合った者同士で、誰が貧乏籤を引くかの押し付け合いだ」
 それはラトレル自身が貧乏籤を押し付けた誰かへの嘲りなのか、あるいはその籤を創りだした巨大な背景そのものに対してだろうか。
 血を分け合ったという言葉に、アーサーは兄弟を連想した。
「ご兄弟ですか」
「いいや、父だ」
 さらりと放たれた真実は、アーサーの口を塞ぐのに充分だった。
 同じ立場同士が貧乏籤を押し付けあうのではなく、強いものから弱いものへと渡されていく。
「利用されるのは御免だと、俺たちを利用した。なるほど、頭の弱い男だった。だが利用した時点で誰かに利用されるのは覚悟するべきだとは思わないか」
 皮肉か?
 アーサーは今の自分の状況を省みて、それから、首を振る。
「生憎と、私はこれまで利用されるだけの立場でした。逆の立場の気持ちは、推察しかねます」
「謙遜するな。これからは利用する立場に回る。計画が成功すれば、お前はこの国の重鎮だ」
 男ならば、いや、女であっても、重要な地位に昇りつめたいと思う者は多い。
 アーサーは感想を避けた。
「いかがですか、その椅子の座り心地は」
「最低だ」
 肯定の意味合いが返ってくると思っていただけに、歯切れのいい返答はアーサーを驚かせた。
「だが、最悪ではない」
 続けたラトレルの藍色の目には、激しいものが燃えている。
 これがこの男の原点か、とアーサーは気迫に押されるような思いがした。
 最低であっても最悪ではない。
 人であることは、権謀術数の泥沼に入り込む不快さに勝るということか。
「……ベイフォード卿」
「どうした」
「私は、人でありたい」
 嘘偽りのない真実だった。
 ――道具はもう御免だ。父母に、親族に、愛した者たちに、顔向けができない生活はしたくない。
 吐露された心情に、隣国の重鎮は頷く。
「ならば、踏み越えることを覚えることだな。お前の足はこれから、敗者の骨を砕くものになる。いちいち感触を覚えていては、前に進めない」
 国は違えど同じく虐げられた、同族といってもいい男からの助言だろうか。
 ――違う。
 気づいたアーサーは背筋が粟立つのを感じた。
 ラトレルの目はアーサーに向けられているが、アーサー自身を見てなどいない。
 ラトレルにとってはアーサーも踏み砕く対象となる、そしてそんなことなど、前へ行くためにすぐに忘れる――。
 ある種の宣戦布告であり、自分が置かれた立場を認識しろという脅迫でもあった。
 既に、アーサーは利用し、利用される泥沼へと身を沈めていた。ようやく伴った実感が、泥沼の冷たさを伝えている。
 咄嗟にアーサーは笑った。人は真情を隠そうと無表情になる。ならばいっそ明け透けに心を見せるしか、ラトレルの信頼をとる方法はない。
 死に物狂いの計算が、自然な笑みを作らせる。反射がほとんど動物じみている、と冷静な自分がどこかで嗤っているのをアーサーは確かに聞いた。
「寂しいものですね」
 ラトレルが、無表情になった。
 アーサーと同じ、表情を隠さなければならない人間の性だった。
 ふと、うるさく飛ぶ羽虫を追いやりながら、ラトレルが呟く。
「あの男に」
「え?」
 聞き咎めたのはまずかっただろうか。一瞬の後悔は、直後の驚きに変わった。
「――そういうところは、お前はあの男によく似ている」
 誰のことを指すか、訊く愚は犯さなかった。
 アーサーは口を引き結ぶ。
 クロノアが自分に似ているはずがないという抗議をするためではない。
 存外に幼い、寂しそうな表情を竜騎士の目に認めてしまったからだった。
 十九といえば、平民ならば嫁をもらい子を成し、既に一家の主になっていてもおかしくはない。おかしくはないが、彼らが責任を負うのは家族や仕事仲間に対してだけである。竜騎士などという、広大な国で唯一の責を負う十九がどこにいるだろう。
「俺も、人でありたい」
 こぼされた小さな言葉を、羽音に紛れて聞かなかった振りをした。
 思わず聞いてしまった本音は、泥沼の中では人の温度を持ちすぎていた。




 歯噛みの音が、耳を覆う布越しにもうるさく響いた。
「ええい、おのれ、この」
 罵詈と馬にたかる羽虫、それを打つ鞭の音が何とも言えず憂鬱な空気を醸し出している。
 ゴードンは許されるなら耳を塞いでしまいたかった。
 隣に座り商人に身をやつしているベルナール男爵は、服が粗末で何の縫い取りもないことに不平をもらし、また、馬の尻が顔に近いことで文句を連ねている。
 耳どころか顔を覆いたい。
 魔法使いがため息をつくことは許されていない。ゴードンはことさら無表情になり、顔と耳の代わりに内心を覆い隠した。
「男爵、これも全ては国家の為でございます」
 囁くような宥めは、まるで魔法のようにきいた。ただし、何度掃いても降ってくる雪のように、しばらくすればまた鳴り出す。
 このように勝手に歌う楽器があれば、さぞかし金が稼げるだろう――。
 ゴードンは神官というより商人のような考えを頭にもたげ、瞬きの間に消し去った。
 こんな耳障りな楽器では、金を出す前に聴衆が逃げてしまう。
「男爵、手はずはよろしいですな」
「私を誰だと思っている」
 傲然と胸を張る態度は、どう考えても商人には見えない。才知第一の書生と言われただけのことはあり、知識はある。だが、知識はあっても活用する知恵がない。
 これで、果たして都までもつだろうか……?
 ゴードンは暗い予感を振り払い、不快な言葉の音楽から故意に意識を逸らした。
 ここに座っているのがあの方なら。黒髪の青年が思い浮かび、途方もない無念さが胸を突く。
 彼ならば、恐ろしい程に商人然としているだろう。絹の肌触りも金糸の縫い取りもない服を平然と着て、商人めいた雑談でもしているに違いない。
 クロノアは肌で庶民の世界を知っている。貴族が社交界での泳ぎ方を肌で知っているように、庶民が持つ呼吸を心得ている。
 特殊な立ち位置は時として不幸を呼ぶが、今は芝居気のある彼の空気が欲しかった。何よりも頼り甲斐が違う。
 不測の事態が起こった時に四角四面な対応しかできない男爵では、限りがあると思われた。
 ――まあ、それでもかまわないか。
 どの道、男爵は捨て駒だ。本懐を遂げるまでもてばいい。もっとも、向こうもこちらに対して全く同じことを思っているだろうが。
 ゴードンは息を吐き、これまでの道のりを振り返る。
 ハンフリー・ゴードンの人生は偶然の連続であった。髪色こそ平凡であるが、魔法という異能を扱う才には生まれつき長けていた。努力の結果などではない。だからこそ偶然だ。
 王宮に存在する魔法使いの里、元々そこで生まれたのか、買われたのか、拾われたのかは知らない。そんなことを考える暇がないほど、物心ついた時から育った環境は厳しいものだった。
 役に立たなければ即座に死に隣した任務に送り込まれる。一人前になるまでに、見知った仲間の何人が消えただろう。
 その中で生き残れたのは運が良かったからだ。膨大な力を持った銀髪の魔法使いは何人もいたのに、クロノアに補佐官としてゴードンが選ばれたのも、運が良かったからだ。
 たまたまこの世に生を受け、偶然の導きで魔法使いとして日陰に仕え、主を仰ぐべき人間を見つけて歓喜し、やむを得ぬ使命を見出してしまった。
 この偶然が神の意、運命の賜物だというのなら、ゴードンは何を呪えばいいのだろうか。
 頑強な男爵の横顔から未来に思いを馳せ、僅かな期間ながら教えを授けた弟子に、ゴードンは祈る。
 彼こそが肝要だ。何より己の意思で積極的に関わった若い芽を、摘み取りたくはない。
「シドゼスの祈りが吹かんことを」
 小さく、男爵には聞こえないよう、翡翠堂に飾られた男神の名を呼ぶ。
 風の守り神として祀られたそれに願いが聞き届けられたかのように、涼しくも激しい一陣の気流がゴードンの頬を叩いた。
 距離は、王都まで僅か二日であった。  
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