闇色遺聞

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  03  

 講堂へ向かう群れとは逆走して、京輔は教室へ向かう。本館五階の最奥にある教室は、急いでも三分はかかる。教室についた時には、風紀委員の女子生徒が施錠する寸前だった。
「石本、タンマ!」
「綾倉くん、遅い」
 急にかけられた声にも、彼女は驚く様子はまるでなかった。石本恵というこの女子とは中学校時代からの付き合いだが、厚い眼鏡の下にある目が感情に揺らいだのを見たことがない。
 重そうな眼鏡がずり落ちているのを上げ直しながら、恵は血色の悪い唇から文句をこぼした。貧血かと疑いたくなるくらいいつも顔色が悪いが、倒れたところも見たことがないので多分これが元々なのだろう。
「悪い! あ、鍵なら俺が職員室に持ってく」
 だから先に講堂行ってくれて構わない、と言う意味合いだったが、その瞬間ホームルームの始まりを告げる鐘が鳴った。
「……鳴ったから、もう遅れても同じ。いいよ、綾倉くん化学選択でしょ。取ってきなよ」
 ため息混じりに言われては、さっさと支度する他仕方ない。
 肩を縮こまらせて教室に入る時、恵が化学の教科書を抱えているのが見えた。そういえば彼女も化学選択者だったかと思い返してみたが、化学教室で共に授業を受けたような気もするし、受けていなかったようでもあった。
 個人ロッカーに置き勉している教科書を揃えていると、忘れ物でもしたのか恵が自分のロッカーを開けてごそごそしていた。
「石本って、化学選択だったっけ」
「そうだよ。綾倉くんよりは後ろの席だから気づかなかったかもしれないけど」
「意外。お前ならいつも前の席に座るのかと思ってた」
「……前の席は、うるさいから」
 恵が答えるまでにやや間があって、京輔は少し手を止めた。
 選択科目は数クラス合同で行われる。席は自由に選んでいいが、何回か授業が行われると自然とそれも固定されてくる。前にいたのは、確か。
「B組の前田たちか」
「あそこのグループ、うるさい」
 生真面目な恵らしい物言いだ。前田たちは確かに、真面目に受けるために座っているわけではない。ただ、化学教師がハンサムなのだ。授業中は静かに聞いているが、うるさいというのは授業態度の話ではないのだろう。
 芋蔓式にこの後前田とも顔を合わせなくてはいけないことを思い出し、京輔は面を憂鬱に染めた。
 まさか心の中を読んだ訳でもないだろうが、恵はこちらを見て言う。
「そういえば綾倉くん、前田さんに告白されたんだってね。付き合うの?」
「お前まで何で知ってるんだよ?」
 恵は女子たちの中に積極的に入っていくタイプではない。裕貴とはまた違った意味でクラス内から浮いている。そんな彼女が隣とはいえど、違うクラスの話題を何故知っている。
「村主くんから聞いた」
「村主ィ?」
 あの馬鹿何を教えてやがるんだ、と歯噛みして京輔は眉をひそめる。ひょっとしたら先刻の騒動を言いふらされているかもしれない。
「あいつ、そんなに口軽いわけ?」
「違うよ。一緒に帰ってた時に、たまたま」
「一緒に? お前と村主、そんな仲良かったっけ?」
「ううん。ただ、たまたま一緒になっただけ。というか偶然を装って村主くんが帰りの時間一緒にしてくることがあるの」
「何だそれ」
「村主くんが、私のこと好きなんだって」
 淡白でどこまでも他人事な、非常に素っ気無い一言だった。思わず京輔は村主に同情と憐憫を覚えずにはいられない。
 教室ではさして仲良くしている所を見かけないから、それが村主なりの精一杯のアプローチなのだろう。見抜かれているのは残念というかいじらしいというか、悩むところだ。
「こ、コクられたのか、お前」
「うん。興味ないけど」
 本人ではないがぐさりとくる言葉である。興味ない、というのが何より辛いだろう。同じ台詞を裕貴に言われたらと考えただけで落ち込む。
 きっと前田のことも、気まずい会話の場つなぎとして口にしてしまったのだろう。そう思うと、村主が喋ってしまったのもある程度許容できるような気がした。
「興味ない……ってお前、ちょっと村主が可哀想だぞ」
「だって、しょうがないじゃない。私、男の子が好きっていうの、何かよく分からないし」
 濃淡がない一言に、京輔は言葉を失う。中学校の時から顔見知りとは言っても、ガリ勉ということくらいしか知らない。こんなに表情のない人間だとは思わなかった。
 哀れだな、という言葉が胸に浮かんだ。
 恵も、恵を好きな村主も。
 思っただけで、自分がどうこうするつもりも、できるつもりもなかった。
「終わった?」
 ぱたん、とロッカーを閉めた恵がこちらを見てきた。京輔は釈然としない気持ちを抱えたまま、自分もロッカー扉を閉める。
 その時、教室に備え付けられたスピーカーが音を発した。
『一年A組、綾倉京輔くん。一年A組、綾倉京輔くん。至急職員室まで来てください。お家から電話が入っています』
 突然自分の名前が聞こえるのは心臓に悪い。その驚きと、家族に何かあったのだろうかという嫌な予感に襲われる。こんな時間に家から電話がかかってくるということは緊急事態なのだろう。
 もう一度同じ事をスピーカーが繰り返し、ブツンと重たい音を立てて切れた。
「綾倉くん、行かないの」
 恵に呼ばれて、京輔は我に返った。
 膨れ上がって頭の中を駆け巡っていた、出張先の父や、町内会メンバーと旅行中の母、友人宅に泊まっている姉が、事故か事件に巻き込まれたという妄想。それらが現実から放たれた恵の一声で消え失せた。
「ああ、行く。ひょっとしたら授業遅れるかも。そん時は先生に伝えといてくれ」
「分かった」
 教科書類を抱えたまま、京輔は職員室へ走った。
 姿が見えた途端、教師の一人が待ち兼ねていたように中へ引っ込んで声をかける。
「綾倉が来ましたよ」
「中に入れてやって下さい。こちらに電話がありますから」
 机とテスト用紙と噂話が仕切る部屋の、その内部に招かれたのは初めてだった。普段は玄関口のような狭いスペースで教師を呼び、用事を終えるだけだ。
 衝立の向こうで受験生の誰々は何々大学に受かりそう、という話を教師陣がぼそぼそと交わしている。
「綾倉、お姉さんから電話だ。お祖父さんが大変らしい」
 担任は講堂に行っているのだろう、他学年の教師が気の毒そうに固定電話の受話器を差し出してくれた。
「オジイサン……?」
 綾倉京輔に祖父はいない。父方は既に他界、母方は母の代から絶縁状態で会ったこともない。
 何故いない祖父のことなど口実にして電話してくるのだろう。
 怪訝に思いながらも受け取り、京輔は受話器を耳に当てた。
「もしもし、綾倉ですけど?」
『あー! 良かった良かった、連絡ついて。今どこ? 職員室?』
 ほっとした、という感情を全面に押し出した女の声。この声は間違いない、姉だ。随分脳天気な声音に、京輔は拍子抜けする。
「ああ、そうだけど」
『この会話周りの人に聞こえてる? モニターボタンとか押してない?』
「いいや、ないけど」
『じゃあ良かった、用件言うわね。もちろんおじいちゃん云々は嘘よ。あのね、あんた早退して家に帰ってきてくれない?』
「は? 何で?」
『長船のお姉さまがいらっしゃるらしいのよー。あたしの携帯電話に連絡あってね。でも、今あたし友達の家でレポート中でしょ? あんた帰ってきてよ』
 長船、という名にぴくりと眉が動いた。知人の女性だが、彼女は一体何の用があるのだろう。
 大学院生の姉は提出するレポートが修羅場中で、県を跨いだ友人と共同作業中。父は長期出張、母は旅行、二人ともこの先一週間近く帰ってこない。簡単に動けるのは自分しかいないのはよく分かっているが、納得はできない。
「何で俺が」
『いいじゃないの、サボれて』
「えー?」
 来たばかりで帰るのは面倒くさい。姉が言うようにいつもならこれ幸いとサボるところだが、今日このタイミングで休んでしまうと、裕貴から尻尾を巻いて逃げ出したように思われてしまいそうだ。
「嫌だな、自分で家に帰るか、もしくはその友達の家で――姉さんに会えばいいだろ」
 周囲で耳をそばだてている教師たちに聞こえても不自然でないように、京輔は言葉を選ぶ。
 もちろん「姉さん」は長船のことだと姉は分かってくれただろうが、京輔の意図を汲む気はなさそうだった。
『へえ、京輔のくせにあたしに逆らうんだ。へえ、京輔のくせに!』
 台詞の内容とは違い、実に楽しそうな姉の声。嫌な予感がした時にはもう遅かった。
『そっかあ。京ちゃんはお姉さんのこんな簡単な頼み事一つ聞けない子ですかぁ。いいわよぉ、そんな京ちゃんが持ってる秘密、母さんに教えちゃうんだから。世界歴史辞典の中身抜いて、中に隠してある――』
 ひいぃい。
 喉がおかしな音を立てた。息を吸い込む時にこんな鳴り方をするのだと、京輔は人生で初めて知った。
「なっ、なんっ、何でっ、何で姉貴がっ」
『何で知ってるかって? 馬鹿ねえ、男の浅知恵よねえ。あたしの彼氏も本棚のね、同じような所に隠してるのよ。言ってないけどねー、うふふふふふふふ』
 姉貴の彼氏今すぐ逃げてー! 誰か知らねーけど逃げてー!
 京輔はまだ見たこともない男性に同情しつつ、自分の置かれた窮状に冷や汗を流した。
「な、何が望みだっ……!」
『子供を人質に取られた親みたいな言い方しないの。だから早退してお昼過ぎに家に来る姉さんを迎えろって言ってんでしょ』
「俺は具体的にどうすればいいわけ……」
 すっかり諦めの境地に足を踏み入れ、京輔は肩を落とした。
 まさか男子必需品の隠し場所を姉に知られているとは。ただでさえ頭が上がらないのに、むしろ尻に敷かれているというのに、これではこの先の日常生活が思いやられる。
『んー? あたしも詳しいことは聞いてないわよ。長船の姉さん、うちの家族に話があるんだって。誰でもいいんだけど、今体空いてるのあんたしかいないからね』
「俺だって別に空いてるわけじゃ」
『それじゃあよろしく頼んだわよ。じゃーねー』
 ぷつん。無情に切れた通信の後、姉の高笑いが聞こえるようだった。
 京輔は受話器を置くと、たった一分少々の電話でひどく疲れた体を支えるために机に手をついた。
「どうだった、綾倉」
 その机の持ち主であろう教師が訊いてくるので、答えないわけにはいかなかった。
「センセー、祖父が急病なので、ちょっと帰ってもいいですか?」
 ダメって言ってくれたらいいのにな、という京輔の期待はあっさり散り、教師はもちろんと頷いた。
 早退表を書いて教室に一旦戻り、鞄をまとめる。京輔はつい数十分前来たばかりの道を引き返す羽目になった。  
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