闇色遺聞
04
遅刻してきた生徒たちと入れ違いに校門をくぐり、ため息を吐きながら家へと引き返す。駅前に停めてあった自転車を漕ぎながら、やはり出てくるのは面倒くさいという思いのこもった息ばかりだった。
自宅に戻ったはいいが、やることがない。
昼までには大分時間があるし、幸いと約束の時まで寝ることにした。リビングのソファに横になり、テレビのスリープタイマーを入れる。
録画しておいた映画を適当に流しながら、京輔はまどろむ準備をした。
タイトルはスター・ウォーズ、言わずと知れた有名SF映画だ。一応はれっきとした吸血鬼である自分がSFものを見ているのがおかしくて、三人がけのソファに寝そべったまま京輔は喉の奥で笑った。
快適な温度と筋道をよく知っている洋画の内容が、あっという間に眠りの淵へと引きずり込む。
来客を知らせるチャイムが鳴って意識が醒めてからも、京輔は事態が把握できなかった。重ねて鳴ってようやく薄目を開けてテレビの方を見る。エンドロールもとっくに終わり、スリープタイマーのおかげで電源の落ちた真っ暗な画面だけがそこにあった。
「あっ!」
ようやく自分がどこに、何のためにいるのかを思い出し、上体を跳ね起こす。
三度鳴ったピンポンに、スリッパを突っかけるのもそこそこに玄関へ飛び出した。
ぐしゃぐしゃになった寝癖を直しながら、京輔は覗き穴から来訪者の顔を確認し、鍵を外した。
高校生とはいえそれなりに背の高い京輔と、ほとんど目線の釣り合う高さの女性がいた。
白皙の肌に整った顔立ち、少しだけ上を向いた眦、手にした籐かごのバッグに映える着物は青い辻が花染めだ。楚々とした立ち姿は、死語になりつつある大和撫子という単語を思い起こさせる。
紅を引いた唇が、可憐に綻んだ。
「坊、久しいのう」
発せられたのは妙齢の外見に似合わない時代がかった言葉。それを聞いて、京輔は懐かしさに破顔した。面倒だの何だの言っても、やはり昔の知り合いに会うのは楽しいものだ。
「長船の姉さん久しぶり! 変わらないな!」
「それはほら、化けておるからな」
ニヤニヤと笑う口元を、白檀の扇子で隠す。
普通の意味にとれば化粧で年齢を隠すという意味だが、文字通りの意味だと知っている京輔は納得した。
「まあ、そりゃそうか。姉さん、狐だしなあ」
狐。普通に捉えれば四本足の獣を想像するが、ただの狐が喋るはずも、ましてや人の形をしているはずもない。
長船も京輔と同じ、人間ではないもの――妖狐だった。ただし、経た年月は京輔の比ではない。京輔の両親の、そのまた両親の、さらに幾世代も遡った先でこの女怪は生まれた。
正確な年を聞いたことはないので知らないが、この狐が人間には不可能な時間を生きてきたことだけは確かである。
近所の目もあるので小声で言い頷く京輔の肩を、長船は畳んだ扇子でトンと叩いた。
「往来では世間話もできんの。悪いが中に入れておくれ」
たおやかな微笑みが浮かぶ口元から、桃色の気配が漂ってくるようだ。
僅かにドキリとしながら、京輔は身を引いた。
――いや、断じて浮気とかじゃない。違う違う。
生物的な反応だからと自分を納得させつつ、長船を中に招き入れる。
「お邪魔するぞ」
「いらっしゃいませ」
高価そうな草履を玄関に揃え、長船が京輔についてくる。リビングに案内すると、彼女は目を細めて見回した。
「変わらんの」
「おふくろが頑張っていつも掃除してるからなあ」
「いや、雰囲気がな。ここはよい気に満ちておる。家族がまとまっておる家というのは、空気も清涼としているものじゃ」
そういうものか、と京輔は改めてリビングを見回した。確かにそこそこ整頓はしてあるし、不意の来客でも迎えられるように綺麗にしてある。
「壊れ始める家庭というのは、こういう団欒の場から壊れていくからの」
ふふふ、と笑う長船の目には、一体何個の事例が映っていたのだろうか。京輔は背筋が寒くなった。
「その辺適当に座ってよ。お茶でいい?」
「ありがたいのう。坊もそんな気遣いができる年になったか」
「はは、まあ、前会った時は俺もガキだったからね、今でも充分ガキだけど」
失恋一つで凹むような、とは心の中だけで付け加え、ポットから出た熱湯を急須に注ぐ。茶葉がしんなりと濃い色に染まっていくのを見届けて蓋をし、盆に載せた。
カステラを添えて出すと、長船の目が和んだ。
「菓子も用意してくれたのか、ありがたいの」
「これ、親父が自分用にこっそり買ってたおやつ。姉さん相手に出すんなら親父も文句言えないし。お相伴に預かります」
ちゃっかり用意していた自分の皿を引き寄せると、長船は鈴を転がすような笑い声をたてた。
「よいよい。男はそれぐらい狡賢い方が出世する」
「俺、将来の目標決まってないけどね」
長船の隣に座り、湯のみに茶を注ぎながら京輔は笑った。
湯のみを受け取った長船は、一口すすって頷く。
「今の世はそれでもよかろう。おいおい決めていけばいいのよ。まかり間違ってもいつぞやのように『強い妖怪に挑みに行く!』とか言い出さぬようにな」
「いやあ……あの時は俺も自分が吸血鬼だって知って混乱してたんだってば」
思い出すだけで顔が赤くなる。
五年前、それまでただの人間だと思い込んでいた自分が、化け物と呼ばれる類のものだと知った時のショックは大きかった。
居ても立ってもいられずに、どうにか自分の存在を証明しなければならないと思った。化け物であるにせよ人間であるにせよ、どちらか区切るには何かしなければいけないと焦燥に駆られていた。
子供だったから、単純に力で勝負して負ければ人間、勝てば吸血鬼、と、そう思っていた。
いきり立つ当時の自分を諭してくれたのが長船と、もう一人の妖怪だ。妖怪なので何人という数え方はおかしいかもしれないが、人の形をしているので京輔はそう数える。彼女たちは妖怪か人間かの区分が全てではないと、時間をかけて教えてくれた。
「姉さんたちに色々教えられて、視野が広がった気がしたよ」
「はは。懐かしいの」
「あの時は本当に、ありがとうございました」
長船がいなければ、今こうやって平穏無事に生活を送っていたか分からない。家出して馬鹿をやり、野垂れ死ぬことだってありえたかもしれない。
そう思うと、帰ってくるのを渋った自分が急に恥ずかしくなった。
深々と頭を下げた京輔に、玲瓏たる笑い声が降ってくる。
「そう畏まらずとも、同じあやかしの同胞を助けるのは年嵩の者の役目じゃからな」
カステラを上品に口に含み咀嚼する彼女は、妖怪と言われてもにわかに信じ難い。それを言うなら自分も吸血鬼には見えないだろうし、裕貴も陰陽師には見えない。
世の中っておかしいもんだよなあ、と妙な感慨を抱きつつ、京輔は面を上げて自分用の茶を飲んだ。
ひとしきり昔話や家族についての世間話をして、カステラが二人の胃の腑に収まると、頃合いを見計らったように長船が籐かごのバッグから何かを取り出した。
盆をどけてテーブルの中央に置かれたそれは、随分と古い色合いを持った桐箱だった。箱の胴体を囲んで紐が結ばれ、蝶々結びの真ん中には「封」と崩し字で書いてある。
「こ、これ……なに?」
「これをな、少しの間預かって欲しいのよ」
「預かる? 何で?」
「少々追われていての」
聞いて、京輔は好奇心から箱に伸ばしかけた手をあわてて引っ込めた。
「これ、ヤバイもの?」
「そう……取り方によるがな」
「封印を解いたら怨念が溢れ出すとか、そういう? 追われてるって、まさか陰陽師とか?」
今朝方銃を使う巷の噂とは随分違う陰陽師に脅されたせいで、そんな例えが口を突いて出てくる。
長船はきょとんとして、それから吹き出した。
「まさか。そんな大層なものではない。まあ、恨み、はある意味こもっているかもしれぬが」
「ええっ」
そんなの預かりたくない、という顔に書かれた京輔の心情を読み取り、長船はぱちりと扇子を鳴らす。
「触れても大丈夫じゃ。それに開けたところで、呪われるとすればそなたではない」
「ほ、本当に?」
「ああ、それは間違いない。坊、昔の知り合いを助けると思うて、何も聞かずこれを預かってくれぬか? 一週間もかからぬ。済んだら礼もするから」
のう? と京輔の頤に白魚のような指が添えられる。下ろした長い黒髪が項にかかって色気を放ち、目の遣りどころに困った。ふわりと鼻孔をくすぐるのは香水だろうか。
年上だけが持ち得る色香と技巧を漂わせている長船を間近にして、京輔は身動きすらできなかった。鼓動だけがうるさく体内を跳ね回り、その音を聞かれはしないかと冷や汗が滲み出そうだった。
「まあ、今のお遊びは冗談としても」
すぐさま手を引っ込め、長船は子供のようにころころ笑う。
今日は俺の心臓に悪いキャンペーンでもやっているのかと、京輔はドッと押し寄せてきた疲れと安心に崩れ落ちそうになった。
「これを預かって欲しいのは本当じゃな。奴と会うためにこの近辺におらねばならんが、これを持ち続けているのは、そう、人間ではない私には危険じゃ。これを持っておる所を警察に見つかると不便でのう」
何せ身分証もないわ保険証もないわ、とぼやく台詞の最後は耳に入ってこなかった。
そもそも見つかったら警察に捕まるようなものを渡さないでくれと言いたいが、長船に請われればしょうがない。
「警察でもない……? じゃあ、追われてるって誰に?」
「――旧友、よのう」
帯電したように空気が張り詰めた。不意に訪れた殺気に、京輔は口を噤んだ。
――友達なら、逃げなければいいのに。
うっかり口に出しかけた京輔は、音にする寸前に愚を悟って空気の塊を飲み込んだ。ただの古い友人なら、自分が青い嘴を挟むまでもない。きっと、友人であったと、過去形にしなければならない者に追われているのだ。
これ以上は訊くなと暗に言われた気がして、口が縫いつけられたように開かない。
だが、どうしてもこれだけは訊かなければならないと、京輔は無理やり唇を意志の力でこじ開けた。
「姉さんにとって――これは大切な、ものなんだね?」
長船は少し考えこむような様子を見せて、頷いた。
「そうじゃの。私にとっても、大切なものであるのは間違いない」
私にとっても、というのが気になるが、これ以上振り絞る勇気の持ち合わせが京輔にはなかった。
それに、一番大事なことは聞いた。
自分の人生を、襟首を掴んで正道に戻してくれた恩人の頼みだ。たった一週間、この箱を預かるくらいが何だというのだろう。
腹を括りつつも、どこか得体の知れない不安に慄いている自分がいるのも確かだったが、素直にそれを出せるほど、京輔は大人でもなければ弱くもない。
そんな様子を、遥かな年月を重ねてきた者の余裕で彼女は啄む。
「今度はそやつと決着をつけなくてはならぬ。だから、坊。一週間肌身離さず、これを預かってくりゃれ?」
にっこり笑った狐の前に、断るという選択肢は存在しなかった。
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