闇色遺聞

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  05  

 黒髪が、目の前で揺れた。
 正確にはぼさぼさとした黒髪が――、だ。お世辞にも、連れの髪は姫君のように綺麗とは言い難い。
 否、ある種姫君のように気ままで明るく、周囲を巻き込むようなところはある。それを自覚しているだけに何とも性質が悪い。
「景秀――悪いがちょっと体に登らせてくれ。歩きたくない」
 自儘な姫君が、疲れたと仰せだ。
 山伏はうんざりと先を行ったままで答える。笠で作られた影がその端正な顔を歪ませた。
「御免被る。貴様、一体いくつまで俺の体を遊び道具にする気だ」
「一生」
「断る」
「すげないな。人の一生など、お前の一生に比べれば遥かに短いものだというのに。仮にも山伏なんだから人には施しをするものだろう」
「だから俺は似非山伏だとお前を拾ってから何度言ったかな」
「知らん、数えていたらキリがない」
 ふふん、と楽しげに山伏の男を煙に巻くのは、十五・六歳に見える少女だった。実年齢は本人ですら知らない。ひょっとしたら十三くらいかもしれないし、もう二十歳になるような年なのかもしれない。
 彼女は疲れた疲れたと口では言いながらも、並の女性では敵わぬ速さで軽快に道のない獣道を登っていく。
 見目は悪くないどころか、もしも色宿に売られるようなことがあったら、その見た目と才智を最大限利用して瞬く間に頂点に上り詰めただろう。だが、実際は何故かこんな所でこんな風に着たきり雀の生活を送っている。
 普通ならばそろそろ連れ合いを見つける頃合で、旅をしていると景秀と夫婦に見られてしまうこともしばしばだった。
 しかし夫婦にしては色めいた所作が二人の間にはない。あっても困るというものだ。
 そんなことを彼が考えていると、連れは心底不平そうに口を尖らせて振り返った。それは女が男に甘えるのではなく、雛鳥が親鳥に餌をねだる様によく似ていた。
「景秀、ノラは少々腹が減ったぞ」
「もうそんな刻限か」
 太陽を見上げる山伏は、きりと引き締まった体つきと、公達のように美麗な顔つきの男だ。脂の乗ったいい男ぶりである。
 だがこの男は山伏でもなく、人でもない。
 妖怪の仲間内でも恐れられる、名の知れた鴉天狗だった。しかし、人の目に付かぬよう作られた妖怪の巣に籠もろうとはせず、全国を山伏の風体で行脚して回っている。
「――はぁ、景秀は妖怪のくせに押し入りの一つもやってノラの腹をいっぱいにしてくれようとはせんのだなあ」
「おい。何故俺がわざわざ人なんぞを殺して金を奪わねばならんのだ」
「関所を通過するだけで金は取られるし、妙に疑われるし、町か村に入れば布施で稼いでその金で食うだろう? 一回くらい、お伽話みたいに豪勢な食事がしてみたいんだ、ノラは」
 奴婢という階級の出でありながら、ノラは博学だ。以前いた村では乙名と呼ばれる長老の家で使われていて、招かれて来る学者や坊主たちの話を聞いて知識を身につけたからだ――と彼女は語る。
 景秀は景秀で、人間が幾度も生死を繰り返すだけの長き世を生き続けてきた鴉天狗だから、そんじょそこらの寺坊主には負けないだけの学識がある。
 ノラはそれを片手間に教えられ、いつの間にやら景秀を舌で言いくるめるまでに成長していた。
 時として教えたのが間違いだったかと鴉天狗が後悔するくらいには、彼女は賢しい。
 素直に欲望を吐露するノラに辟易しながらも、景秀は彼女を置いていけない。何となく拾ってしまったから、捨てようにも機会を逸してしまったと言った方が正しい。
 いつの間にやら隣にいるのが自然になってしまったので、捨てるのを景秀自身が惜しんでいるのかもしれなかった。
「その分外での食事には困らんだろう。俺と共にいるおかげで無駄に妖怪共が襲ってくることもない。襲ってきても俺の力で追い払ってやっているではないか」
 外、とは町や村の外、関所の目の届かない所を指す。景秀はどの場所でも食べていいものと悪いものを見分け、猟師でも獲れないような極上の獲物を狩ることができた。
 だが、ノラは頬を膨らます。
「最近は妖怪よりも人が多い。しかも数が多いだけ面倒くさい。殺せば詮議がかかる、それも面倒だ」
「それについては同感だな」
「大体、一体何なんだ? どうして皆こんなに殺気だっている」
 ノラは並の女ならば見るだけでへこたれてしまいそうな急峻を登りながら訊く。
 景秀も下駄をとんとん、と鳴らしながら汗一つかかず斜面を駆け、返答した。
「戦さ」
 ノラは急にぴたりと止まって、木に寄りかかった。ノラを追い越した景秀が、ん? と振り返る。
「どうした、戦なぞこの国にいくらでも溢れているだろう」
 時は戦国の世真っ只中である。戦国とは、誰がそう言い始めたのか、この国から海を隔てた大陸に存在した群雄割拠の時代になぞらえて、この世情をそう呼び表す。
 応仁の乱から根を深くしていた濃い戦の影は、明応の政変と呼ばれる将軍廃立事件をきっかけに一層膨れ上がった。
 元は幕府高官同士のお家騒動と派閥争いであったものが将軍擁立問題に発展し、幕府そのものを真っ二つにした上、中央だけでなく地方にまで飛び火した。
 戦に次ぐ戦。夥しい血が流れ、幾つの田畑が焼けたか知れない。
 権力闘争や家督相続争いに次いで起こる家臣たちの裏切りや、成り上がりによる下剋上、商人という新たな階級層の出現、この百年で国は大きくその色を変えた。
 ある公家は日記にこんなことは天地開闢以来この国で起こったことがなく、収まる気配もないと嘆きを記した。
 動乱は未だ止んでいない。
 当の本人たちはとっくの昔に死んだのに、その遺恨だけが染み付いてさらに火を広げ続けている。
 だからこその好機でもある。我こそはと意気込む者たちは天下を目指し、御旗を都に建てることを夢見て仕官する。田畑に執心する農民ですら、落ち武者がいれば殺して首をとる。
 故に戦などはほんの些末事で、権力を握っている連中の思いつきのようなもので突発的に始まるのだ。今更そんなことを気に病むほど殊勝な性格ではないはずだが、と訝しく思って訊く。
 しかし、景秀は忘れていた。
 この娘が、景秀の意表を突く達人であることを。
 ノラは木に寄りかかったまま面倒くさそうに口を開く。
「だめだ、足が棒のようで――もう動かん」
「心配して損をしたわ大馬鹿者」
 何だかんだと言いつつ、結局請われたままにノラをおぶって次の関所まで運んでやるあたり、景秀は甘い。
 関所の手前になると背中からノラを降ろし、いかにも山伏らしい仏頂面を装った。ノラも心得て伏し目がちについて来る。
 何食わぬ顔で山から降りてくる普通の道へ合流し、武装した兵の前に澄ました表情で進み出た。
 山伏と歩き巫女の振りをして関所の門をくぐる。普段ならばそのまま通り抜けられるはずが、急に門番が立ち塞がった。
「待たれよ」
「何だ」
「主ら、本物の山伏と歩き巫女か」
 ちらり、と景秀とノラは顔を見合わせた。今まで疑われることはなかった。何か不審な点でもあるのだろうか。こういう時はシラを切るに限る。
「我らが修行のために行脚する山伏と歩き巫女である。己が目玉で見れば分かろう。修行を妨げれば地獄に落ちるぞ」
 景秀の脅し文句に門番は青くなった。
 民衆は神も仏も、それ故にもたらされる罰も信じている。ともすれば手にした太刀を取り落としそうな程、彼は震えていた。
「もし、山伏殿。彼らもお役目でありましょう。我らを疑う訳をお訊きなされてはいかが」
 男のようなぶっきらぼうな口調は忘れたように、ノラが柔らかく二人の間をとりなす。
 このまま押し切ってもいいが、尾行されては面倒だと思ってのことだろうか。
 気を取り直した門番がため息混じりにこっそり語ったところによれば、最近山伏や歩き巫女の一団がとみに多く関所を通過する。無論それ自体には問題がないが、身分詐称をしている者が多いのだという。
「なるほど、間諜か」
「しかり」
 門番は頷きながら、その一味ではあるまいなと二人を注視してくる。
 景秀が振り返ると、ノラは面白そうに一歩後ろでその様子を見守っていた。後始末は景秀に任せるという意味だろう。
 自分から首を突っ込んでおいて、尻拭いは人にやらせる気らしい。
 悪態をつくのは後回しにして、景秀は声を潜めた。
「なるほど、貴殿の疑いもっとも。しかし我らは熊野から勧進帳を持って京の相国寺、伏見稲荷大社へ参る旅の途中である。これ、ここに」
 と、景秀が懐から取り出したのは真っ白な絵巻物だった。
 門番は開いた巻物を覗き込み、景秀がいちいち白紙を指さしては寄付先の名前を呟くのを真面目くさって眺めている。
 ノラは思わず笑いそうになるのを堪え、慎ましく後ろに控えていた。
 鴉天狗の使う幻術だ。
 世話になった礼にその人間が望むものを見せたり、仏に化けてみたりといういかにも化け物らしい大仰な逸話はたくさん聞いたことがあるが、その場を凌ぐためにつまらない幻術を使う鴉天狗の話は聞いたことがない。
 門番は畏まって勧進帳を拝み、手を合わせた。
「失礼をいたした。まことの修験者殿たちとお見受けする、通られよ」
「ありがたい」
 紙を巻き取って懐に収め、景秀はすたすたと歩き出した。
 ノラもその後に続いていく。
 関所を出てしばらくした所で、ようやく景秀はむっつりと口を開いた。
「あのような小者に使うためにあるのではないぞ」
 術一つにせよ鴉天狗の誇りがあるのか、へそを曲げた景秀にノラは今度こそたまらず吹き出した。
 ひとしきり笑ってから、謝るでもなくノラは小首を傾げる。
「間諜か」
「身分の一つも誤魔化せん馬鹿共まで動いているとなると、相当な数がいるのだろうな。いちいち検分せねばならん奴らもご苦労なことだ」
「何故増えたのかな」
「自称上総介の小倅が、大層な活躍らしいからな」
 各地を巡っていれば、情勢は嫌でも耳に入ってくる。
 官位は朝廷から下されるのが通常だが、彼はその官位を自称していたという。
 もっとも九重の内にまで知り合いがいる訳ではないからただの噂だが。
「織田?」
「そう、織田だな」
 畦道をゆるゆると歩きながら、世間話のように二人はその名を口ずさむ。
「本願寺は二月前に和睦を結び、比叡山は焼き討ちされた。室町御所は果たしてどうなることやら」
「まるで他人事だな」
「他人事だ。我らは食うには困らず、最悪この国に住まう人間共が死滅しても困ることはない。特に俺は人の死骸を食う妖怪ではないからな」
 天下が大きく変わり、二百数十年続いた足利幕府が終わりを迎えようとしている。
 時代が変わる。
 大きな時の節目に生きているという実感があってもいいはずだが、ノラには全くそんな感覚がなかった。物心ついた時から奴婢として扱われ、浮世離れした鴉天狗と十年も共にしたせいだろうか。
 心を読んだはずもないだろうが、景秀がノラに問いかけてくる。
「お前こそ、どうだ。仮にもお前は人間だぞ」
「そうだなあ」
 どう返答したものかと、ノラは辺りを見遣った。
 皐月の中空を川蜻蛉が飛んでいた。田植えを終えたばかりの水田には、青々とした背の低い稲が風に揺れている。
「興味がないなあ」
 一番しっくりくる答えを口にすれば、景秀が呆れたように息を吐くのが分かった。
 のどかな田園風景の中で、ノラはわざとはしゃいで景秀の背を叩く。
「しょうがない、ノラはそういう俗世には興味ないんだ、歩き巫女だし」
「お前な」
 そんなものが名目上なのは、誰よりも景秀が知っている。
 彼なりに将来を案じてくれているのはよく分かったが、ノラはおどけた。
「だって、景秀についていればノラは安心だ。どんな侍よりも景秀は強い」
「名うての法師にかかってはひとたまりもないかもしれんぞ」
 高僧にやり込められる天狗の話は山ほどある。
 思い出して笑ったノラを、今は人の形である拳が頭を小突いて嗜めた。
「こら、笑うな。この国は人が神と思えば全てが神になる国だ。故に、神はすぐに零落する。我ら妖怪とて同じだ。いつお前の前から消えるか分からんぞ」
「心配ない。景秀は優しくて強い鴉天狗だからなあ。そんなことになったら、ノラを連れて真っ先に安全な所に一緒に逃げてくれるに違いない」
 未来を信じて疑わないノラに、景秀の口から再度ため息がこぼれた。
「あ、村だ」
 屋根の連なりが見えて、ノラは声を上げた。
 日はそろそろ落ちかけている。鴉天狗ならば夜目も効くが、そこまで急いではいない。旅の目的などあってなきが如しなのだから、今夜の宿はこの村で決まりだろう。
 一際大きな家屋に辿り着くと、景秀が「頼もう」と声を張り上げた。
 すぐに中から家人らしき人物が出てくる。
 一泊させて欲しいと景秀が交渉している間、することのないノラは手遊びに小石を拾い、土に絵を描いていた。
 描くのは鳶だ。
 鴉天狗である景秀の周囲には色々な鳥が集まったが、その中でもよく見かけるのが鳶と鷹だった。鴉でないのは意外だったが、景秀が本来の姿になったところを思い返しても鴉よりは鳶に似ている。
 何故人は鴉天狗と呼ぶようになったのだろう。漠然とした疑問を抱きつつ腕を動かしていると、嗄れた声がかかった。
「おや、巫女殿。何をなされておいでです」
 この家の者だなと判断し、日に焼けた老人を振り返った時には既に笑顔を繕っている。
「少々、手慰みに」
「おお、これは」
 小石で描かれた鳶の見事さに、老人は感嘆して目を丸くする。
 よく特徴を捉えていて、素人の手によるものとは思えなかった。
「申し訳ない、まだ娘時分の気が抜けぬ奴で」
 景秀が後ろからやってきて、さっさと足の裏で鳶を消してしまう。
「何をする」
「それはこちらの台詞だ、家主殿に迷惑をかけるな」
 頬を膨らませれば、景秀の眉間には皺が寄り、家主の老人の顔には微笑が広がった。
「いやいや、とんでもないことだ。巫女殿は良き絵の師をお持ちだったのかな」
「いえ、そのような良家の子女ではございませぬ故」
 愛想よく笑えば、老人も一層頬の皺を深くした。
「それにしては、気品があるお方じゃの。どうぞ当屋敷でごゆるりと過ごされよ」
 ノラが気に入ったのか、その後も何くれと老人が話しかけてきてくれたが、ノラの耳には入らなかった。注意を引いたのは一言、景秀がほとんど聞こえないくらいの声量で呟いた音だけだった。
「そうか、その手があったか」
 険しい顔で言った割には、その後一切話題にしない景秀を不思議に感じる。
 小首を傾げたノラの頭上を、川蜻蛉が優雅に飛んでいった。  
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