闇色遺聞

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  08  

 授業を終えて家に帰った京輔は姉に電話をかけ、長船が来てからの色恋沙汰を省いた洗いざらい話してみた。
 認めるのは悔しいが、こういうことにかけては姉の方が頭の回りもいいし、経験もある。
 何より、冷静な第三者としての意見を聞きたかった。
『安心なさい、それはお姉さまじゃないわ。そもそも、お姉さまなら絶対にそんなヘマはしない。犯人だとしたら、このタイミングは怪しすぎる。私たちが疑うことくらい分かっているはずよ。あたしには妖怪の知り合いも多いんだし』
「ま、そうだよなあ」
 それは分かっていたが、確信するには自分一人では自信がなかった。
 同意を得てほっとする京輔に、姉は面白そうに続ける。
『しかし、うちの家系図を把握している家があるとはねえ。この町に住み始めたのはお祖父ちゃんからだったと思うけど、さすが陰陽師といったところかしら。あたしたちみたいな吸血鬼でも把握しちゃうなんて』
「それだけどさ、姉貴。相良はどうして、拳銃なんか持ってたりするんだろうな。陰陽師って言ったら普通札とか式神だろ? そりゃ、護身用としては最適だろうけど」
『さあねえ。あたし陰陽師じゃないし、詳しく知りもしないからねえ。本人に聞いてご覧なさいよ』
 もっともな意見を述べた後、急に姉の声が打って変わったものになった。
『それにしてもねえ、ふうん。面倒くさがりで、結構ドライなあんたが、ねえ? んふふ』
「ん?」
『好きなんでしょー。その相良さんとやら』
 完全に年下をからかう経験豊富な人間の上から目線になっている。
 ぴっ、と京輔は雛鳥が大蛇に見つかった時のような音を喉から漏らした。どうにか取り繕おうとしても、声が上ずる。元来、京輔は嘘がつけない性質なのだ。
「そんな訳ねえだろ」
『やっぱりそうなんだあ! ロミオとジュリエットね!』
「下んねー! ロミジュリとか今時流行んねーし、ロミオみたいに最初別の女好きだったのに一瞬で気が変わる浮気性じゃねえし、心中なんかより……あっ」
 なんかより、という単語を発したせいで自分の首を絞めたと気づいたのは、口に出してからだった。
 はっ、という軽い呆れた息と共に、さぞにやにや笑っているのだろう姉の声が聞こえる。
『カマかけやすいわねえ、あんた。それ、もしかして相良さんとやらもカマかけだったんじゃないのー?』
「――いや、そんなはずは」
 言われて必死で思い返してみる。告白するまで、二人の間にこれといって接触はなかった。ただのクラスメイトだ。
 しかし考えてみれば、自分が裕貴を意識するようになってから目で追っていたのを裕貴自身は知らないだろうし、その逆もあり得たかもしれない。
『ま、何にせよ妖怪は悪だから殲滅する、なんて過激派陰陽師じゃなくて良かったわね。そういう物分りが悪い奴は結構いるから気をつけるのよ。ひょっとしたら、今回の事件の犯人もそれかもね。小さい奴しか狙わないのは、小さい奴しか殺せない、さして力のない奴だから、とか』
「推測だよな」
『当然よ、あたし今そこから県一つ跨いでるんですからね。何も分からないし、何も手助けできない』
「弟がひょっとしたら命の危機にさらされるかもしれないのに、冷たいな、姉貴」
『パトロールしてあげようって言い出したのは京輔、あんたよ。男なら、女を守るって言った言葉に嘘はつかないことね』
「つかねえよ。何かあったら命に代えてでも守るっての」
『お馬鹿。そんなことして残された女が喜ぶとでも思ってるの? 中には操立ててくれる子もいるかもしれないけど、時間が経ったら、あんな人もいたわね、私のために命捨ててくれてごめんね、で、終わりよ。次のいい男が現れて彼女をかっさらっていくに決まってるでしょ』
 裕貴と同性である姉の指摘は、京輔の想像力を刺激して心をつついた。
 それは嫌だ。
 こちらを振り向いてくれなくても、そういう残り方をされるのは非常に不本意だ。
「前言撤回。やっぱり、俺、ちゃんと生きて裕貴ちゃん守るわ」
『そうしなさい。あんたが死んだら、あたしたち家族だって怒るからね。それじゃ』
 悲しむと言わないのが姉らしい。
 そこには笑いながら、京輔はパトロールの時間まで数少ない材料から仮想の敵に思慮を巡らせた。
 やがて時計が待ち合わせ時刻三十分前を指した。
 どういう格好にしようか迷ったが、きな臭い話が絡むこともあり、動きやすい普段着を選択する。何かあった時のために携帯電話をポケットに突っ込み、長船からの預かり物をショルダーバッグに入れて家を出た。これは目が届く範囲にあった方が安心だろう。
 学校からさほど遠くない所にある児童公園で、普段は小さな子供たちと母親たちの憩いの場になっているが、午後七時の今はほとんどひとけがない。町の反対側にジムと温水完備のプール、外にはグラウンドを所有する新しい市立公園が出来てから、そちらに人が流れている。一人か二人、ジョギングする人間の姿を見かけるだけだ。
 念のため五分前に着くように来たのだが、裕貴は既に公園のブランコに座って待っていた。あわてて京輔はブランコの場所まで走り寄る。近くにある電灯の一つが壊れて、チカチカと音を立てていた。
 何となしにブランコに座って、電灯の陰影を受けている裕貴は実に絵になっている。
 足音で気づいたか、すい、と涼しい両眼がこちらに向いた。
 正直に思ったことを告げたら怒られるのだろうなと直感した京輔は、全く別のことを言った。
「ごめん、お待たせ!」
「待ってないわ、今来たところだから。それにあなたも早いわよ。待ち合わせは七時でしょう」
「まあね。でも女の子待たせるといけないし、梅雨明けて日が伸びたとはいえ物騒だし。それにパトロールって言っても、何するわけ?」
「普通に見回りよ。今まで妖怪の死骸が見つかった地点の付近を重点的にね」
「大丈夫?」
「大丈夫よ、ちゃんと銃も持ってきたし」
 そう言って、パーカーを開けて見せる。右胸の部分にホルスターがつけられ、鈍く光る銃が入っているのが見えた。
「それって、思い切り銃刀法違反だよな」
「警察に訴えてみる? それともこれをネタに私を脅迫する?」
 全く動揺もせず、裕貴はそう言って京輔を見上げた。京輔は苦笑して両手をあげる。
「冗談。そんな卑怯な手使って付き合おうとは思ってないよ。俺、付き合うならちゃんと遠慮とかそういうのなしで付き合いたいタイプだし」
「へえ」
 少し意外そうに、裕貴は目を見開く。
「あなたも、見た目通りの高校生じゃないのね。まあ、この銃突きつけた時からそれは分かってたけど」
「裕貴ちゃ――相良も普通の高校生じゃないよな。そういうとこ、俺たち相性いいと思わない?」
「さあね」
 なけなしの気概を振り絞ってアタックしてみるも、つれない返事を吐いて彼女はブランコの台座から腰を上げて歩き出す。
 京輔はその後に続きながら世間話のように続けた。
「妖怪って、妖怪のどんな死骸が見つかったの?」
「それはどういう意味?」
「いや、共通点とかあるのかな、ってさ。ほら、食い物としてどっかの妖怪が食ったとか、人間に退治されたとか、そういうのがあったら解決も早いんじゃないかなと思って」
 質問に答える裕貴の顔は、唇から出る言葉と同じく淡白で心情が窺い知れない。
「今まで殺された妖怪の数は五匹。今のところ化け鼠ばかり。他の共通点は、強いて言えば夜に殺されたんだろうってことくらい」
「鼠ねえ。相手が化け猫だったら納得するけど、血を吸う化け猫なんていんのかな。いや、それ以前に猫ってホントはあんまり鼠を食わないとか聞いたことあるし」
 そもそも、鼠たちはどんな妖怪だったのだろうか。
 妖怪というのは基本的に、普通の人間には目にすることができない。霊力や見鬼と呼ぶのか、潜在的に見る才能がある人間も昔に比べて大分少なくなってきているらしい。
 どれだけ弱体化しても、異界の住人であるあやかしが隠形の術の一つも心得ていないとは思えない。もし鼠を殺した相手が人間だとしたら、霊力に長けた者だったか、もしくは殺された妖怪自体が人に近くなりすぎていて、化性としての本能を捨てている者であったかのどちらかだ。
 だが、化け鼠という呼称からも後者の可能性は低いように思えた。
「鼠って、普通の鼠の形してたんだよな? 人間の形してるけど実は化けてる鼠でしたとかいうんじゃなくて」
「ええ。でも差し当たってその辺りは重要じゃないわ。要は、やっているのが誰か、何かを見極めて、確実に処分を下すことよ」
 さらりと恐ろしいことを言う裕貴に、京輔は肩をすくめただけだった。
「ゆ……相良ってさ、どうしてこんな調査するわけ? 俺もテレビとか映画の知識くらいしかねーけどさ、陰陽師って依頼されて妖怪を退治するのが仕事じゃなかったっけ」
「そうね、妖怪が妖怪同士で食い合うなら私は何も介入しないつもりだけど。これが人間に被害が及んだら、普通の人は手の出しようがないでしょう。だったら、それを未然に防ぐのも陰陽師の仕事よ」
 裕貴は誇らしげに胸を逸らす。見ていて気持ちのいいくらいに立派な信念だった。しかし、その次に京輔を振り返ったときの目線は鋭い。
「だから、もしあなたが人間に害をなすようなことがあったら容赦なく排除するからそのつもりで」
「俺はそんなのしないって。てか裕貴ちゃ――じゃなくて相良」
「……何かもう、面倒くさいから名前呼びでいいわ。見た目より害なさそうだし」
「マジ!? 後半が若干引っかかるけど気になんねー! やった!」
 ぱっ、と顔を輝かせる京輔に、裕貴は顔を背けた。
 呆れているのか照れ隠しなのかは知らないが、敵の砦がやや防御を緩めている。チャンスだ。
「あ、じゃあ俺のことも名前で呼んでくれてかまわねーし、むしろ大歓迎!」
「……考えとくわ」
 ため息をつかれたが、それは別にいいと言われなかっただけ一歩前進だ。呆れられて後退しているのでないことを祈りたい。
 途端にうきうきと浮ついた態度になった京輔に、裕貴は再度吐息する。
「あなたね、これ、一応あなたのお仲間に関わることだって分かってる? 妖怪が死んでるっていうのに、感慨持たないわけ? それとも、吸血鬼同士じゃないと別になんとも思わない?」
「うーん。親しい人とかが事故にあったり、事件に巻き込まれてたりしたらそれは何とかしたいと思うけどな。今だって、裕貴ちゃんが危ないことに首突っ込みそうになってるから助けたいと思ってる」
 京輔はそこで自分の想い人に目線を落とした。
 裕貴の身長は頭一つ分、京輔よりも低い。
「変なことかな?」
「変じゃないわ。私も同じよ。妖怪がこの世界に存在していることを知らない人は多い。科学主義の世の中じゃ仕方ないし、当然のことでもあるわ。だからこそ、私たちみたいな職業の人間が、少しはいる必要があるのよ」
「裕貴ちゃんは、しっかりしてるなあ」
 それは心から出た、感嘆の声だった。
「やっぱり家が陰陽師で、そういうの昔から考えてたの?」
「いいえ」
 裕貴はきっぱりと否定した。
 話はそこで終わるかと思ったが、意外にも裕貴は自分のことを語ってくれた。無味乾燥なパトロールに異常を見つけるまでの暇潰しのつもりなのかもしれないが、京輔にとってはありがたい。
「家は確かにそうだったけど、私がこの職業志したの、三年前だもの」
「三年前!」
 陰陽師というものは、てっきり生まれたからにはその道に入るのが当然のような一家だとばかり思っていた。
 もっとも、よく考えれば吸血鬼の自分も普通に義務教育を終えて高等学校に通っているわけだし、陰陽師もよくファンタジーで描かれるより自由なのかもしれない。
「あなたはどうだったの? 吸血鬼って生まれた時から知ってそういう風に行動してたの?」
「いや。俺も裕貴ちゃんと同じだよ。俺が知ったのは五年くらい前かな。俺は、知らなかった。自分が吸血鬼だってことも、家族がそうだってことも。知った時は荒れたなあ。自分は化け物なのか、家族は化け物なのか、そればっかりずっと考えてた」
 柄にも無くしんみりとした話になってしまったが、京輔はついぞ思い返したことのないあの時期を振り返って、端麗な顔に笑いを忍ばせた。
「結局、生き物にはいっぱい種類があるんだから、吸血鬼がいたっておかしくないだろって思うようになってね。ただ、その後は後で人間として生きるか吸血鬼として生きるかなんて馬鹿なこと色々思い悩んだけど。本当に色々、知り合いには迷惑かけたよ」
「どっちを取ったの?」
「どっちも」
 何気なく発した一言に、京輔は自分の所在を確認した気分になり、もう一度小さく呟く。
「どっちも取ったよ」
 空を見上げながら歩けば、夏にしてはかなり見えている星の数々が、小さく夜空を彩っている。
「俺は、裕貴ちゃんと違って、血を甘いと感じるし、多分普通の人間と違ってそういう器官なり、脳の箇所なりが存在してるんだと思う。解剖されたことないから知らないけどね。だからって、血を吸って人間殺して生きようかって話にはならないね。俺は、人間でもあって、吸血鬼でもあるんだから」
 例えそのせいで裕貴にふられても、それは揺るがない。吸血鬼でなかったならという仮定は頭を掠めるが、あくまで現実を離れた空想だった。
「案外強いのね」
「軟弱な男に見えた?」
 確かにちょっとばかり細いが、筋肉はついているつもりだ。
 正直な物言いに苦笑すれば、同じように微笑んでいる切れ長の目がこちらを見た。
「メンタルのことよ」
「強かったら悩んでないよ。裕貴ちゃんこそ、強そうだけど」
 自分とは違って、悩むにしても随分崇高な悩みをしていそうだ。
「まさか。私より兄の方がよっぽど強いわ」
「あれ、裕貴ちゃんお兄さんいるの?」
 脳内で貴様に妹はやらん、と厳つい男に睥睨される自分を想像し、考えてしまった自分にも、想像の中であっさり負けた自分にも意気消沈する。
 勝手に肩を落とす京輔を不思議そうに見ながら、裕貴はあっさり言った。
「いたわね。兄が家を出たから、私の名前が『裕貴』になったもの」
「――は?」
 意味がいまいち呑み込めない。視線でその先を問うと、裕貴は続きをいとも簡単に口にした。
「私ね、三年前まで名前違ったのよ。裕貴はね、家を継ぐ時女のような名前じゃ不便だからって父が変えた名前。その時までは、いつかお嫁にいくんだから女の子らしくお行儀よくしなさいって言われてたけど、兄が家を出た日を境に変わったわね。跡取りらしく振る舞えって、武道をやらされた」
 何でもないことのように、気にしていないように、裕貴は自分の過去を口にする。いっそ清々しい表情をする裕貴とは対照的に、話を聞くにつれて京輔の口の中には苦いものが広がっていった。
「兄は陰陽師としての才能があったわ。私なんかと違って、こんなものに頼らなくて良かった」
 裕貴はそっと、少女らしい膨らみの右に手をやる。
 その下には、大の男にも妖怪にも効くであろう、少女には不似合いな武器があった。
「何で……。女の子の名前のままでも、良かったんじゃねーの」
 呻くような京輔の抗議は、裕貴の淡々とした声音に封じられる。
「昔の名前は女の子らしかったけど、陰陽師ってやっぱり昔ながらのお得意様が多いのよ。お得意様だけあって、昔ながらのしきたりとかには厳しいの。この武器をくれたのも、そのお得意様よ」
 長年陰陽師を必要とするということは、それだけ、古くから恨まれたり祟られたりしているということだ。金は持っているかもしれないが、ろくな手合いではないだろう。
 段々眉間に皺が寄ってくるのを感じた京輔は、むかむかと暴れる感情を抑えながら問う。
「君はそれでいいのかよ?」
 あえて裕貴と呼ばなかったことに気づいてか、わざわざ歩みを止めて京輔を見返してきた。
「お父さんは家族だろうけど、君はお兄さんじゃない。君は君だろ。嫌じゃなかったのかよ、名前まで変えられて」
 言いながら、段々眉間に皺が寄っていくのを感じる。
 見たこともないが、身勝手な裕貴の父親にも、家を出た裕貴の兄にも、そしてそれを唯々諾々と受け入れたかのように見える裕貴にも腹が立った。
 腹を立てる筋合いがないのは分かっているが、第三者であって彼女は自分の恋人でもなんでもないが、放っておけなかった。
 ほとんど睨むようにして裕貴を見るが、彼女は意外にも怒らなかった。
「……面白い人ね、あなた」
 それだけ言うと、ついと視線を京輔から外して、いつも通りのきびきびした口調になった。
「私が嫌いなものを強制されてやるような性格だと思う? 実際に自分が陰陽師になるって問題に直面して戸惑いはしたけど、死ぬ程嫌いなら私は兄と同じように家を飛び出してるわ」
 嘘ではないだろう。
 陰陽師という職業に矜持を持っているのも、何も知らず犠牲になってしまう人たちを助けたいと思うのも、恐らくは彼女の本心だ。
 けれど、絶対にそれだけではない。
 屋上で目を逸したのは何故だ。ごめんね、というあの台詞は何だ。
 君が好きだと告げた時、確かに裕貴は動揺していたと思う。困ったように目を伏せて、照れたように頬を桃に染めて、梅雨が開けたらと蚊の鳴くような声で答えた。
 その時、回路が次々に開いて、点と線がつながった。
 脳髄に電流が走り、一つの仮説を打ち立てる。
 彼女は何故自分にすぐさま返事をしなかったのか。ただ一言男とは付き合わないのだと言えば済む話なのに、どうして期間を設けたのか。
 何故、彼女は自分の家の倉にあった妖怪を記した家系図を紐解いたのだろう。
 態度、行動、言葉、一つ一つがそう考えれば腑に落ちる。
 ――ひょっとして、彼女は最初自分に好意を持ってくれていたのではないか。
 これはあくまで仮説だ。一度口にしてしまえば、危うい均衡で保たれた今の関係が崩れてしまうかもしれないという恐れが接着剤になり、京輔の唇を開かせなかった。
 言おうとしてはその美しい横顔に見入り、息を詰めては言えない言葉の代わりに吐き出して顔を背けた。
 その後は町のひとけがない場所を見回りながら、気まずくぽつりぽつりと、必要最低限の会話をするだけだった。
 結局異常は何も見つからず、一通りぐるりと町を回ってから、京輔は裕貴に質問する。
「町中全部見回ったわけじゃないけど、いいの?」
「いいのよ。今日のは一体どういう状況で襲われたかの確認も兼ねてるから。明日からもう少し早く集合しましょう」
 明日もあると知って、彼女が自分を寄せ付けない程気分を害した訳ではないと感じて安堵の息を吐く。
「また明日もお願いね、綾倉くん」
 吐いた安堵の息が、霧散して消えた。
 それだけ言って背を向けた彼女に、ここしかないと男の直感が告げた。
「なあ」
 呼びかけに、裕貴は顔だけを僅かにこちらに向けた。
「もし、君が俺のこと好きになってくれたら、名前で呼んでもいいかな。君の、女の子の名前で」
 長い睫毛に縁取られた目が、驚いたように見開かれる。
 気分を害してしまう可能性もあった。彼女自身が言ったように、覚悟の上で捨て去った名前だとすれば、それはただ煩わしいだけの提案になるだろう。
 瞬きもしない、こちらの魂胆を見透かすように鋭い視線が京輔を射る。
 呼吸を忘れる何秒かが過ぎて、不意に裕貴は目を逸した。
「考えておくわ……綾倉くん」
 ぴんと伸ばした背筋が規則正しい靴音と共に遠ざかっていくのを見ながら、京輔はもやもやした気持ちを誤魔化すように呟いた。
「……京輔でいいのに」  
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