闇色遺聞

BACK | INDEX | NEXT

  10  

 長船から「イケナイもの」を預かって早くも四日が経った。
 預かりものが何を巻き起こすか分からない不安と、そんなものをずっと持ち歩かなければならないストレス、長船への若干の不信感に、ここ数日慢性的な寝不足を抱えている。
 自然と出そうになった欠伸をどうにか飲み込む。空気を無理やり押し込まれた喉が、おかしな音を立てた。
 気づいた教師がちらりと鋭い視線を投げかけていて、京輔は板書する振りをする。
 眠すぎて授業の半分も頭に入ってこない。
 喉奥に空気の塊を送り返す作業を繰り返す京輔に、隣席の村主がにやにや笑いながら囁きかけてきた。
「眠そうだな、綾倉」
「おう」
「ん? お前、何かすごく甘ったるい匂いがするな、何だこれ、香水?」
「そんな洒落た趣味はねーよ。ちょっとパンチのきいた菓子作りをしただけだ。……そんなに匂うか?」
「バレンタインデーの女子みたいな匂いがする」
「どんな匂いだよ」
 村主の例え方に思わず笑いながら、京輔は自分から漂っているらしい自覚のない匂いを嗅ごうと手の甲を鼻に近づけた。作った本人だから慣れてしまって分からないのだろう。何の香りもしない。
 昨夜はとある理由で女子顔負けの菓子作りに勤しんでいたが、まさか指摘されるとは思わなかった。村主とは反対側にいる隣席の生徒は何も反応しないから、村主の鼻が利くだけかもしれないが。
 他愛のないやり取りを疑う様子もなく、村主はにやにやと京輔のノートに目を落とした。
「綾倉の趣味が菓子作りとは意外だなぁ。てかお前ノートすごいことになってんぞ」
「ん?」
 寝ぼけ眼でノートを見下ろすと、シャーペンの先が芸術的な線を描いていた。
「わあー……ピカソみてえ」
 京輔があまりにも棒読みで呟いたからだろうか、村主がぶはっ、と吹き出した。途端に鋭い声が教卓から飛んでくる。
「こらそこ二人! 授業中だぞ」
「すいません!」
「何で俺まで」
 教師の叱責に村主があわてて背筋を伸ばし、京輔は原因となった彼を横目で睨んだ。まだ笑みの余韻が収まらない顔の前で片手を立てて、「すまん」と謝ってくる。
 誠意がないと責めてやろうかと思ったが、同じく傷心、もとい失恋同盟を結んでいる仲間の情けをかけ、やめておいた。
 教師からもらった小言のせいで完全に目が覚めた京輔は、意味を成さない前衛的な文字を消しながら意識を回帰させる。
 ――狐の匂い。
 京輔には感じ取れない狐の匂いが、殺された妖怪たちの傍に残っている。
 殺されたのは全て小さな化け鼠、時間帯はひとけのない夜。殺された死体は血がなく干からびたミイラのようになっている。
 パトロールをしたこの四日の間に見つかった妖怪の死体はない。
 裕貴がいることを脅威と思っているのか、それともただの偶然か。
 石本恵が速記並みのスピードで板書しているのを視界の端に捉えながら、京輔は事件についてゆっくりと考えていた。
 何も長船が狐の匂いの主だとは限らない。長船ならば、食うものに鼠を選ぶ程困ってもいないだろう。
 そこで京輔ははた、と消しゴムを使う手を止めた。
 血が残っていない状況と、京輔が真っ先に疑われたことからてっきり「食われた」という先入観を持ってしまったが、本当だろうか。
 この世に存在する妖怪全てを知っているわけではないが、妖怪が妖怪を食らうよりも、その辺の動物を襲った方が早いのではないだろうか。腹が減っているなら、人間の家もそこらにごろごろあるのだから盗みに入ればいい。
 空腹のあまり、という説は考えにくいだろう。
 となると、血を吸わなければ満足できないもの――それこそ吸血鬼か、殺すこと自体が目的だったのか。
 無差別? とノートに記入してから、京輔はその上に線を重ねる。
 目的がないのなら、鼠ばかりが襲われるのが腑に落ちない。
 鼠が五匹、吸血の痕、狐の匂い。ここには何か、共通する項目があるのだろうか。
(一番分かりやすいのは、吸血でしか生きていけない狐が最近この辺りに引っ越してきて、狩りを始めたってとこだな)
 そうであってくれれば裕貴が気を揉む必要もないし、餌場を求めているだけなのだろうからすぐにどこかへ行ってくれるだろう。
 食われる妖怪にとってはたまったものではないが、家のプランターに住みついている芋虫を小鳥がついばんでいくようなものだ。命のやり取りというのは、どこにでもある。
 ドライと言われるかもしれない考え方をしながら、京輔は「犯人の可能性、吸血鬼?」と記して手を止めた。
 ――これで万が一、うちの家族が犯人だったらどうしよう……。
 この近辺に住んでいる吸血鬼は自分たちしか知らない。京輔自身が犯人でないのはよくわかっているが、家族の全行動まで把握している訳ではない。
(どうかうちの家族が血迷った真似をしてませんように)
 父や母や姉を思い返しながらそうでないことを都合よく神に願って、最前列にいる裕貴の方を見る。
 裕貴は連夜のパトロールなど感じさせない姿勢の良さで、恵にも勝る速さでノートをとっていた。
 感嘆の息を漏らして自分のノートに目を落とした後、「吸血鬼?」という疑問符つきの単語を乱暴に消し、京輔は真面目に黒板の内容を写し始めた。
 結局考えたところで、今分かることは少ない。日常生活を行うべき、という結論に辿りついた。
 心を入れ替えたおかげか、以後教師の機嫌が悪くなることはなく、無事に授業は終了した。
 次は昼休みということで、チャイムと同時に教室の空気が緩む。
「よくやる……」
 授業終了の合図と共に教師が扉をくぐり、ノートを持ちながら教室を飛び出していった恵を見て京輔は呟いた。恐らくは分からないところを聞きに行ったのだろう。あれだけ熱心に聞いていて恐らく予習復習もしているのに分からない箇所があるのかと思うと、逆に勉強への意欲を削がれる気がする。恵でダメなら、自分では敵わないと思ってしまうからだ。
「すげえよな。俺、真似できねえ。放課後だって家に直帰だよ。センコーに尋ねるなんてしねえもんな」
 村主が京輔と同じものを見て、羨むというよりは憧れるような声音で言った。
 そういうところが好きなのかと口にしかけて、村主からは直接情報を聞いていなかったことを思い出してチャックをかけた。
 あまり人の恋愛に突っ込むのも野暮だろう。薮蛇に自分の恋愛について訊かれることにもなりかねない。
 大半の女子たちが机をくっつけて弁当の準備を始めるのとは対照的に、裕貴は一人黙々と食べている。
 昼食に誘おうかとも思ったが、裕貴はこのスタイルが好きらしい。孤立している訳ではないが、どこか一歩置いている。
 ――一緒に食えたら楽しいだろうに。
 もっともその場合、楽しいのは自分だけかもしれないが。
 少し気落ちしながら、京輔は自分も昼食にするため鞄から財布を取り出そうとした。
 弁当を作ってくれる母や姉がいない今、三食全て既製品を買っている。そんなことは関係なく昼は学食派ではあるが、家の味がしないものを食べ続けるのにそろそろ舌が苦痛を訴え始めてきた。
(俺はどれだけ家の味に慣れてるんだか)
 それだけ家や家族が居心地のいいものだと、こんな時に実感するとは思わなかった。
「綾倉、行くぞー」
 常日頃何となく共に昼を食べるクラスメイトたちに呼ばれ、京輔は席を立った。
 丁度恵が戻ってきたようで、ノートを片手に、入り口を塞ぐ彼らの隙間から教室に入ってくるのが見える。
「あ、悪ぃ! 今――」
 視線がクラスメイトたちに移り、手元から離れた。
 手の甲が机上に置いた鞄にぶつかり、財布を取り出そうと開けておいた口から中身が零れ落ちる。
(やばッ……!)
 意識が危機を訴えた。鞄には長船から預かった桐箱が入っている。見られたらまずい。
 焦る京輔には為す術もなく、中に入ったノートと教科書がばらまかれ、派手な音を立てて床に広がった。それに驚いた何人かが振り返るのを視界の端で捉える。
 反射的に手を伸ばし、箱はどうにかキャッチできた。激しく手首を机にぶつけたが、よしとしよう。心の中で、自分の神経に最大の賛辞を送る。
 桐箱は半分鞄から出かかったところを掴んだため、周りの目には触れなかったようだ。そのまま手に隠し持ちながら、鞄の中へとゆっくり押し戻す。音に驚いた皆が、落ちた教科書類に目を遣っていたのが幸いした。
 京輔のうっかりに驚きつつこちらを見てくる昼飯仲間と、凝視してくる恵に愛想笑いをして、震えそうな手でテキストを拾い上げる。
 ――見られてないよな? 大丈夫だよな?
 問いかける訳にもいかないので確証が得られず、靄のような不安だけが広がった。
「おいおい、大丈夫かよ?」
「悪ぃ、手が引っかかった。サンキュー」
 村主が一緒に拾い上げてくれるのも、まともに目をあわせられない。一番近くにいた村主には見られたかもしれない。この中では一番可能性が高い。
 気になっていた裕貴の方は、ちらりと見てきただけですぐさま弁当のおかずを咀嚼している。
 安堵と気を落とす感覚を同時に味わいながら、京輔は四角い紙の束を揃えて鞄に戻した。その時桐箱を覆い隠すのは忘れない。
 財布を掴み、京輔は教室から逃げ出した。  
BACK | INDEX | NEXT
Copyright (c) 2012〜 三毛猫 All rights reserved.
inserted by FC2 system