闇色遺聞

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  13  

 洛西から見た京の町は、確かに国一と言われる栄え様だった。
 桂包と呼ばれる長い白布を頭に巻いた女たちが、藁の輪を緩衝材にして頭に魚の入った桶を乗せ、商売に精を出している。
 その内の一人がこちらへ顔を向けた。
「修験者殿、お連れ様にお一ついかが」
 修験者に生臭を奨めるのかと思ったが、女が差し出したのは琥珀色の物体だった。
 鮎の匂いに混じって、甘ったるいそれが鼻をつく。
「飴だな」
 隣にいたノラの顔がぱっと輝いた。
 食い物に関しては、こと彼女の嗅覚は素早い。幼少期に飢え死にしかかったせいなのか、生来の食い気なのか。
 そんなことをちらりと考え、景秀はうつむいた。
 妖怪としての自分を誇示するために人を大勢殺したのに、ノラは怯えるでも呆れるでもなく怒っただけだった。一時の激情が終われば平然として、まるで何事もなかったかのように過ごしている。
 今もそうだ。こちらを気遣うよりも通せるだけの我儘を通そうと笑う童のようだ。
 自分の行動は何も成さなかったのか、と思う。これでは知り合いに預けたところで本人は納得するか自信がない。
 景秀を悩ませている当のノラは、今にも垂涎しそうな様子でそんな景秀の裾を引く。
「うまそうだな!」
「それよりうまいものを食わせてやるから、早く来い」
 ノラの好奇心と食欲に付き合っていたら京の辻々で立ち止まらなければならない。
 景秀は駄々をこねる幼子を引き離すように飴売りの桂女からノラを遠ざける。
「うまいもの? うまいものと言ったな? 絶対だな? 女か、景秀のことだから馴染みの女が妓楼に一人か二人いて、うまい飯を食わせてくれるのだな。な、そうだろう」
 目をきらきらさせてこんなことを言われては、肩を落とすしかなかった。
 もう心配するだけ馬鹿らしい。
 こいつは食っていける術があれば生きていけるのではないか、食わせてもらえれば誰でもいいのではないか、きっとそうに違いない。ならば自分が捨てたところで問題はない。
 半ば自棄のように結論づけて景秀は口を開いた。
「残念ながら女ではない」
「ああ、飯を奢ってくれる人はいるのか。なら、いい」
 ノラはにぃっ、と唇を持ち上げた。
 西から入って市中へと分け入る。その間もノラは、初めて目にする大量の人の往来と様々な物品に目を奪われ、置いて行かないようにするのが一苦労だった。ノラの腹が空ききる前に目的地につかなければ、何を買わされるか分かったものではない。
 早足で歩いた甲斐があって目的の屋敷はすぐに見つかったが、あえて表ではなく裏側から回る。
 ここは代々御用絵師を勤める男の私邸だった。
 彼は、一人で庭を眺めていた。齢は五十三歳、人間五十年と唄われたこの時代から見れば老いた男である。剃髪している彼は絵筆を片手に、じっとりと何かを考え抜くような視線を庭の松に投げかけている。
「画家と言うのは、相も変わらず気難しいらしい。一体何を考えているのだ、源七」
「お主が訪ねて来るとはな。気難しいのはお主も同じだろう。何ぞ御用かな、人にあらざる山伏殿。それから、今は源七ではない。松栄しょうえいという」
 松栄と名乗った男は、声をかけても振り返りもしない。
 気を悪くした風もなく、景秀は言い放った。
「近くまで寄ったついでだ。馳走してくれ」
 施せ、とここまで傲岸に言う山伏もいないだろう。俗欲から離脱するために修行する者の言い草ではなく、さすがにこれには松栄も苦笑しながら後ろを向いた。
 兜巾に不動明王を象った装束、間違いなく山伏の格好をした景秀を見て懐かしさを目に滲ませ、次いでくっついてきた女の姿にその目を丸くする。
「何だ、嫁御でも娶ったのか?」
 途端、久しぶりに会った山伏は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「このように手のかかる嫁御ならば要らぬ」
「ひどいぞ景秀。ノラはノラで役に立っているだろう」
 口を尖らせる女と、渋面の景秀。
 松栄は面白そうに二人を見比べた。
「そちらは?」
「拾い物だ」
 ぞんざいに説明し、景秀は錫杖でさぞ肩が凝ったというように叩く。
 似非山伏でも法具の扱いにはもっと気を使うものだが、ただの似非山伏でないことを松栄はよく知っていた。
「ふむ、そうか。ではお主たちには部屋を用意させよう。何日逗留する」
「決まっておらん。気の向くままだ」
 その答えを予期していたように、松栄は一笑した。下男を呼ぶためだろう、踵を返して去っていく。
 それを見送って、ノラは景秀に尋ねる。
「あれは誰だ、景秀」
「狩野源七。今の名は松栄と言っていたな」
「狩野。御用絵師か」
「今は何をしているのか知らんが、あれでも巨大画家集団の親玉だ」
「随分覇気のない親玉だ」
 正直な感想に、景秀は鼻を鳴らした。
「存外と、したたかな奴だぞ」
「へえ?」
「あやつの上も下も突出しているから、絶対的な存在には成り得んがな。一つのものが長く続くためには、ああいう男が不可欠だ」
「つまり、代々富裕だということか。さぞ富んでいるんだろうな」
 都合のいい部分だけ抽出して聞き出すノラの図太さには、呆れを通り越して感心する。
 ノラの声に憂いや貧困層の出身であることを自嘲するような響きは全くない。むしろぎらぎらと即物的な目が光っていた。
 その意図を汲んで、景秀はうむ、と頷く。
「まあ、うまい飯が食えるのは間違いないだろうな」
「期待している」
 獣の足跡を見つけた空腹の猟師さながらにノラの目が光る。
 ノラの期待は、もちろん叶えられた。


 狩野直信、通称を源七、今は松栄と号するその五十路男は、非凡を望んだ。
 彼は狩野家の三男に生まれ、巨大すぎる父の背を見て育った。通常なら家長の座は長兄のものだが、兄二人の早世、松栄の子永徳の類まれなる画才故に、中次ぎのようにして家を継いだ。
 大将を気取れたのは父が死んで息子の永徳が一族を率いるまでの僅かな間。
 父という立場を突きつけて当主の座に居座り続けなかったのは、松栄が分をわきまえているからだった。自分では、この先の狩野派を大きくしていくことはできない。
 養わなければならない徒弟、その家族、狩野派が持つ誇りや栄誉、それらを松栄の代で潰してしまうわけにはいかなかった。
 永徳で良かった、と松栄は心の底から思う。
 気宇雄大な息子の絵とは違い、松栄の筆は大きな空間を前にすると尻すぼみになった。細筆も息子のそれには及ばず、美しくはあるものの自分の絵は時流とは別の方向にある。
 画人としての誇りは、時代という巨大な壁の前に屈服した。
 真っ先に永徳の才を見抜いた父の目は確かであったと痛感すると共に、息子の影に霞む自分が疎ましい。
 息子の背負うものが大きくなればなるほど、狩野派という名が重くなればなるほど、胸中には複雑なものばかりが生まれる。
 己が描くものが決して悪いとは思わない。しかし不幸にも人並みに存在した自尊心は、一度も立ったことのない頂点の味を噛みしめたいとこの年になっても足掻いている。
 叶うはずのない夢に吐息して、松栄は硯を用意した。
 老いさらばえた自分にできることは、精々息子と各地の橋渡しをすることくらいだ。
 宮中や公家、時の権力者たちに狩野派の名を売り込んでおかねばならない。時代は息子に味方した。ならばそれを盛りたてるのが親の役目だ。そのためには、折々の挨拶が欠かせない。
 硯に墨を立てたところで、ふとその手がとまった。
 しなければならないのは分かっているが、どうも気が乗らない。
 一度は手にした墨をしまい、松栄は絵筆と刷毛を取り出した。部屋の隅にある囲炉裏に土鍋をかけ、水を入れる。膠を折って鍋に投入しながら湯煎して、その傍らで乳鉢の中のミョウバンを細かく砕いていく。
 ドウサと呼ばれる紙の滲み止めを作るためだ。
 湯になったら鍋を火から降ろし、さらさらとしたミョウバンを少しずつ鍋の中に溶かしていく。
 時々指につけて舌先で確認し、ぴりりと痺れる感覚がすれば適量が入った合図だ。松栄が一人納得して頷いた時だった。
 不意に後ろからくすくすと笑う声が聞こえた。
 驚いて振り返ると、縁側であの鴉天狗の連れが笑っている。人ならぬ山伏に連れてこられたせいか、松栄には彼女が怪談に出てくる得体の知れない登場人物のように思えた。
「おや、これは驚いた」
「申し訳ない、庭を散歩していたら少し見えたもので」
 ノラと名乗っていた少女は、おかしそうにまだ笑っている。
「絵なのに、料理みたいにするんだと思うと面白かった。絵でもそんな風に味見をするのか」
「いかにも。絵というのは描くのも大変だが、それまでの下味も充分に作らなければいけない」
「少し見せてもらってもいいかな」
「景秀の連れならば歓迎だ」
 縁側を伝ってするりと上がりこんできた所作は人の子というよりも狐めいていて、松栄は、はて彼女は一体何の妖怪だろうかと内心首を捻った。
「煮ていたこれは、一体何に使うんだ?」
「これはドウサという。絹や紙の上に滲み止めとして使う。水墨画などは生紙を使うが、他は大体ドウサを使うな。これを布で漉せば完成だ」
「紙にもナマがあったり、布で漉したりするのか。ますます料理みたいだな」
 ノラは松栄の手元を覗き込んで目を丸くする。
「すごいな、爪の間まで絵の具の匂いがしみついている」
「生まれて以来使っていればそうなる。絵師の手だ」
 松栄の人生の縮図と言っていい絵師の手を見つめ、ノラはにっこりした。
「景秀があなたを好きなのが分かる気がする」
「ほう?」
「普段は人間に正体を明かすことなんてないのに。よっぽど好かれてるんだなあ。羨ましい」
 拗ねた幼子のような口ぶりに、息子の昔を思い出す。
 小さい頃から大人びていた永徳が親の自分に我儘を言ったのは、両手で数える程しか覚えがない。
「逆に言わせてもらえば、あの景秀が共に旅するとは滅多にないと思うのだがな」
「うふふ、強引にくっついてきたからな。景秀は優しいから、ノラみたいな人間でも簡単に捨てられないんだ」
「人間……?」
 てっきり妖怪だと思っていた松栄は、驚いてまじまじと目の前の少女を見つめた。
 顔の造作は愛らしく、利発そうなのは見て取れる。それでもあの山伏と共にいただけあって、どこか浮世離れした雰囲気が漂っていた。
「そうか、お嬢さんは人間か。あやかしだとばかり思っていた」
 言いながら、松栄は刷毛に濾過したドウサをつける。
 紙に手早くドウサを塗っていく作業に、ノラは興味津々だった。
 一心不乱に手元を見ている彼女の姿に、ふと心が疼いた。
「やってみるか?」
「いいのか? 画家なのに」
 これは商売ではないのかと気を回してくる彼女に、松栄は商業用でもないのに筆をとった自分を改めて思い出し、苦く笑った。
「手慰みだ、気にするな」
 ノラは刷毛を受け取ると、見様見真似で紙の上にドウサを引いていく。
「もう少し力を入れてもいい。――そう、そうだ。ドウサをしっかり塗っておかなければ、絵の具のつきが悪くなる。乾いたら、裏面を向けてもう一度やる。刷毛目をずらすのがコツだ」
 紙の表面を乾かしながら、松栄はノラに説明をしてやる。
「雨の日にドウサを引いてはならない。乾きが遅いと、ドウサがきかなくなる」
「絵の具は、どんなものを使うんだ?」
「これだな。色々ある。例えばこの朱は、一口に言っても黄口朱、赤口朱、鎌倉朱など様々だ。場合によって使い分ける。他にはお主から見て右から、辰砂、本藍、金泥、銀泥、水晶末、瑪瑙末、雲母、岩黒、藤黄――ああ、そちらの群青や緑青は高価だからな。手慰みには使わない」
 説明しながらも、手は休めない。
 実際に顔料をとって膠と混ぜあわせ、水をゆっくり足していく。
「一時に入れてはならぬ。水と膠が別れてしまうからな。さあ、そろそろ乾いただろう、裏面を」
 ドウサを引かせ、裏面が乾いてから、表面に再び塗布する。
 その間に細々とした筆の説明や線の引き方などをノラに教える。
 ノラに筆をとらせてみると、存外その手は滑らかに動き、物覚えもいい。
 筆をとって、一度教えただけの名前をつらつらと口に出す。
「これが削用、これが彩色。この面相は――」
「こちらが鼬面相、こちらが白玉面相。この場合は鼬面相を使った方がよかろう」
 素人に筆をとらせて絵を描いてみよと言われても、大方の人間は大人子供問わず躊躇する。娯楽で筆を取れるような人間は限られているからだ。
 ノラは明らかにそういった娯楽慣れしていない人間であるが、実に楽しそうに筆を走らせている。
 紙の上に描いたのは、一匹の鳶だった。
 ノラが黒い輪郭線の中に茶色を乗せると、風を切って飛んでいく一羽の鳶が紙面に現れた。
 無論狩野派の長が描いたものには比ぶべくもないが、素人にしておくのがもったいない逸材だ。
 松栄は半ば狼狽しながら口を開いた。想像以上の出来に、先達としての矜持がやや揺らぐ。
「これは、見事な鳶だな。よく描けている」
「景秀の周りには鳶が一番集まるから。――ノラに筆を教えて良かったのか?」
「構わんよ。お主は景秀の連れだ」
 技法が商売敵に伝わるという危険性を、松栄はまるで考えなかった。素人にほんの少し手ほどきをしたところで伝わるようなものでもないが、それ以上に景秀が連れてきた人間だからというのもあった。
 全幅の信頼を置くわけではないが、あの鴉天狗はそういう世俗とは隔たった生き物だと松栄は長い付き合いでよく知っていた。
 ノラは首を傾げて問うてくる。
「景秀とは、付き合いが長いのか?」
「ああ。もう何十年前になるか。酒瓶を片手に近所を散歩していてな。外の景色を眺めながら飲むつもりだった。雲もない十五夜であったのに、気づけば辺りが真っ暗になっていた。行く道も帰る道も分からず右往左往しておった時に、ふと遠くに灯りが見えた」
 それ以外に頼る標を持たず、若き松栄はひたすら光を目指して進んだ。
 行けども行けども少しも距離が縮まる気がしなかった。それでも戻ろうと思えなかったのは、その火明だけが希望のように思えたからだ。
 足が棒のようになるまで歩き、ようやく長い石段を見つけて登りつめた先にあったのは、天にも届かんという巨大な朱塗りの鳥居だった。
「鳥居?」
「あの世とこの世の境よ。あやつは、その鳥居に座って笛を吹いていた」
 一度死にかけたという比喩表現ではないだろう。
 人の世界に隣り合わせながら容易に踏み入れない世界。あやかしたちが生まれ、死んだ時に還る場所だ。
 この男はそこへ行って、帰ってきたのだとノラは驚く。
「神隠しに遭いかけたんだな。よく帰ってこれたものだ」
「我ながらそう思う。その時は自身の身の上よりも、鳥居でどんちゃん騒ぎをしている連中に心を奪われたな。あやつが鳥居の上で笛を吹き、狐たちが踊っていた。お伽草子を見たようで、絵筆を持っていないことをあの時程後悔したことはない」
「根っからの画家だな。自分の生き死によりも、絵に描く方が先なのか。多分そういう一本気なところを景秀も気に入ったんだろう」
「どうだかな。物珍しかっただけかもしれん。呆然と鳥居を見ていた俺に『宴に混ざりたければ心臓を差し出せ』などとのたまったからな」
「はは、それでどうしたんだ」
「心臓ならばやれぬが酒ならくれてやるというと、宴に混ぜてくれたぞ。その後は狐のおなごに道を教えてもらって家に帰った。気づけば朝になっていてな。朝帰りとは何事かと父上に怒られた。しかし、あやかしに混じって宴とは天下人でもできぬ豪勢な宴であったな」
 思い出して遠い目をする松栄に、ノラは大人びた微笑を向ける。
「そうか。きっと景秀も楽しかったんだろうな」
「そうかな?」
「そうだ。でなきゃ今まで友達付き合いが続く訳がない」
 ノラはぴょこんと立ち上がると、縁側へ裸足で歩いて行く。
「長居させてもらったな。お邪魔した」
 体重を感じさせない物の怪じみた動作で、ノラは草履をつっかけて庭を横切っていく。自室へと帰るのだろう。
 松栄はふわふわと時期はずれの蛍が飛ぶように軽やかに去っていく後ろ姿を見えなくなるまで目で追っていた。
 闇夜に溶け消えたノラを見てどこか化かされた気分になりながら、手元に残された絵をためつすがめつ眺める。
「惜しい」
 一言が漏れた。
 偽らざる本心であった。
 女が筆を取ることがない訳ではない。良家の子女などは教養の一環として手習いをするし、絵も描く。狩野派の中にも、女だてらに画家として家の盛り立てを手伝う者もいる。
 ノラがいくつになるのかは知らないが、もし狩野の家に生まれていれば松栄の膝下で育てたことだろう。
 乾かしながらノラの絵を凝視する松栄に、背後から声がかかった。
「惜しいか」
 今度は縁側からではない、家の廊下側からだ。
 ぎょっとして振り返ると、山伏姿の鴉天狗がいる。
「景秀、脅かすな」
「お前から見て、あいつの才は惜しいか」
 普段なら軽口の一つも叩くあやかしは、やけに真剣な顔のまま答えを促した。
 松栄は惑いながらも頷く。
「ああ。お主の連れでなければここに留まるよう口説いているところだぞ」
「それはよかった」
 にこりともせず答えた景秀にますます違和感が深まる。
「よかったとはどういう意味だ」
「ノラはここに置いていく。惜しいと思うなら、思う存分才能を伸ばしてやれ」
「何?」
 松栄の眉が跳ねた。
 あの少女は料簡済みなのだろうか。確かに女一人を養うくらい松栄にとっては何ということはないが、先達の一人としてノラの才能を伸ばしてみたくもあるが、ノラの気持ちを無視した上でとなると話は変わってくる。
「あいつはここに置いていく」
「何故だ。喧嘩をしたというのではあるまいな」
「どうということはない。アレは俺が拾ったものだ。いつかは捨ててやらねばならん」
「分かるように言え」
 苛立って声を荒らげた松栄とは対照的に、景秀は波一つ立たない水面のように静かだった。
「俺はあやかしだ。あいつは人間だ。このままではあいつは人間を忘れる。置いていくのに、他にどんな理由がある」
 松栄の脳裏に、人の重さを感じさせない動きと雰囲気を持ったノラの姿が浮かぶ。
 確かにノラは人間離れしているが、だからといって捨てるというのは無慈悲な選択に思えた。
「しかし」
「俺はあいつをここに捨てていく。あいつを捨てた人間たちと同じに。あいつに運があれば、お前が拾ってくれるだろうと考えた。それだけだ。好きにするがいい。あれは人の意表を突く才能を持っている、それだけはよく覚えておくことだな」
 背を向け、ふと景秀は呟くように言った。
「あれは生きていくためなら下女のようなことでもやるだろう。与えるのは筆でなくともよいかもしれんな」
 遠ざかっていく足音とその言葉に、松栄は憤りを覚えた。
 鴉天狗という隔たった存在であるのは、あの鳥居の宴を見て知っている。
 人には及びもつかない世界の主であるというのもよく分かっている。
 それが、松栄には我慢ならなかった。
 人間は矮小でしかない、耐えられないと最初から諦めている景秀の気持ちも、彼女を置いていくのが才能故ではなく本当に人間として生かすためというただそれだけの理由なのも。画人として、一人の人間として、この鴉天狗に一矢報いてやりたくなった。
 その時、ふ、と笑いがこぼれたのは、せめてもの意地か、あるいは本当に依怙地な鴉天狗がおかしかったからか。
 その直後には一転して、松栄は腹から声を出していた。
「後悔するぞ、景秀っ」
 罵倒が老いた喉から飛び出て、一番驚いたのは松栄自身だった。この老体にそんな元気が残っているとは思わなかった。
 食い逃げを見つかった小僧のように、景秀は不安げに立ち止まる。
 それでも振り返らない山伏の装束に、松栄は張り上げた声を叩きつけた。
「あれは画人になる、わしが画人にしてみせる。わしには見えても描けなかった世界を、あの娘は描ける。下女などにはさせんぞ。景秀、お主はもはやあの娘にとって赤の他人だ」
 彼を慕っている娘をあっさり見捨てた景秀に対する強がりや報復ではなかった。狩野派の表舞台には出られないだろうが、彼女の手は下働きで終わらせるには余りにもったいない。
 心底の叫びに、松栄もろともノラとの決別を意識したのだろう景秀が、床を軋ませて歩いて行く。
 松栄はなおも吠えた。
「百年だ! 百年後にお前に後悔させてやる。狩野の名は百歳残る。後悔させてやるぞ、景秀。その時に思い知るがいい。怖いのだろう、怖いから逃げるのだろう! 簡単に人間を見限りおって、その程度か、あやかし!」
 不安定な足音が、廊下の隅を曲って消える。
 急激に喉の乾きを覚え、松栄は膝をついた。
 大声に不審を抱いたのだろう下男がやってきて、廊下の端で膝をつく。景秀が姿を消した方向から現れた彼は、ちんまりと膝を揃えて頭を下げた。
「いかがなさいました」
「そちらに客人が行かなんだか」
「いえ、見ておりませぬ」
 妖怪らしく、最後は玄関から出ていくなどという真似はしたくなかったのだろう。霞のように消えてしまった。
 長く疲労の息を吐き出し、松栄は力なく呟いた。
「……よい、下がれ」
 はい、と下男は一礼して廊下から姿を消す。
 これから絵筆と刷毛の後始末をしなければならない。ドウサが染み込んだ刷毛を握り、松栄は縁側から空を見上げた。
 あの鴉天狗は今この空のどこかを飛んでいるのだろうか。
 永訣の夜に、奇しくも出会いの日と同じ十五夜の月が浮かんでいた。  
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