闇色遺聞
15
裕貴は走っていた。細長い年代物の桐箱は逃走に集中するのに不便で、中身がガタガタと音を立てるのも気に食わない。
公園の塀を越えて抜け出し、裕貴はお荷物に舌打ちした。
まずはこの厄介な桐箱を隠すのが先だ。
ホルスターに拳銃をしまうと、裕貴は一番隠しやすく外敵の侵入を許さない場所――自宅へ向かった。
駅から十分程度の距離だ。京輔が心配だが、仮にも吸血鬼を名乗り自分で囮を引き受けるくらいだ、死ぬような羽目にはならないだろう。
桐箱を抱えて全力疾走している女子高生に、行き交う人々は怪訝な目を向けてきた。
勝手知ったる地元だ、家までの近道を計算しながら一番早いルートを通り抜けようとする。
国道から一本入った所にある住宅街に差し掛かった時、不意に裕貴の眼前が陰った。点在する電灯から落ちる光の一部を黒いシルエットに変えて、何者かが発言した。
「そこの娘。それは何だ」
声と共に、体重を感じさせない動きで垂直に影が落下してくる。
音すら立てずにふわりと地面に降り立ったそれに、裕貴は反射的に後退ってホルスターに手をかけた。
長身の男だ。痩せている上に、全身を黒い服で包んでいるため、余計にそう見える。引き締まった男らしい顔つきはさぞ異性にもてはやされるだろうが、裕貴は眉間に皺を寄せた。
今の動きといい、漂う気配といい、どう見てもただの人間ではない。
「お前、何者?」
銃口を胸に向けて問う裕貴に、男は答えずじっと視線を桐箱に注いでいる。
「それはお前のものではないはず。どうやって手に入れた」
この箱を狙う妖怪というだけで怪しい。中身が何なのかは分からないが、あの狐が狙っていたことを考えても妖怪の手に渡してはいけないと思えた。
傲岸不遜と思える語調で訊いてくる男に、裕貴は問い返す。
「あの狐の仲間なの?」
「なるほど。どうやら、素直に渡す気はないらしい」
いつの間にか、男の手には錫杖が握られていた。
鳴環が揺れて、しゃらしゃらと音を立てる。
裕貴が牽制のために弾丸を射出するのと、男が錫杖の石突をコンクリートに振り下ろすのは同時だった。
男の放った気配に押されたかのように、地面が波打った。
「うっ!?」
まともに立っていられず、裕貴は転ぶ。手をついて受身を取ったものの、衝撃を殺しきれず顔面を少し地面にぶつけた。思わず噛んでしまった口の端から、ぱたぱたと血が零れる。
だが、動ける。
自らにそれを確認した裕貴は、崩れた体を跳ね起こさせた。
攻撃の手は休めたら、負ける。
裕貴は未だに水面の如くゆらゆらと揺れているように感じられる地面を蹴ると、男に飛びかかって銃口を胸に突きつけた。
人間ではない。ならば加減する必要はない。
人間ならば心臓があるその位置に構えると、裕貴はためらいなく引き金を絞った。
乾いた発砲音が住宅街に響き渡る。減音器がついているとは言え、完全に音を殺しきることはできない。
弾丸は回転しながら、確かに男の胸を撃ち抜いた。
ぱっ、と裕貴の眼前を染めたのは鮮烈な赤――ではなく、闇のように黒い羽根。妖怪、錫杖と、黒い羽根。連想ゲームのように浮かんだ単語が、脳内で符号する。
「鴉天狗……!」
「気づくのが遅い、小娘」
確かに体内を射抜いたはずなのに、鴉天狗は全くダメージを見せていない。
ほんの少し不快げによろめいただけで、着弾時に火傷を負った様子もない。鴉天狗ならば当然かもしれない。裕貴は腕に抱えた箱のせいで退魔の札が取り出せないことに、内心舌打ちしていた。
そんな裕貴のことを視界の端に収めながら、埃でも払うかのように胸の辺りを叩き、鴉天狗は言葉を吐く。
「そんな玩具で貫かれたくらいで妖怪が死ぬか。しかし、俺の正体を知らぬとは驚いたな。知らずに盗んだのか」
「盗んだ?」
「お前がその箱をあの坊主から盗んだのだろう?」
「私は知り合いから預かっただけよ」
噛み合わない話に眉をひそめる。盗んだとは随分おかしな言いがかりだ。それとも、京輔が嘘を言っていたのか。
人のなりをした鴉天狗も、齟齬に首を傾げている。
「何をやっておる、景秀」
辺りに疑問符が飛び交う中、また一つ場に影が現れた。
白皙の肌に長い黒髪が美しい女だが、これもまた人間ではないことは簡単に分かった。裕貴が声に反応して見上げた時点で十メートルは地面と差があったのに、すとんと軽く着地したからだ。
「長船」
鴉天狗が呼んだ名前に、裕貴は反応した。
「あなたが、長船?」
「おや、我が名を知っておるのか」
切れ長の目が裕貴に向けられる。同性でも息を呑む程艶やかな色気を含んだ表情に、裕貴は一瞬たじろいだ。
「え、ええ。知り合いが、あなたのことを言っていた」
「綾倉京輔?」
名を当てられ、裕貴はこれが敵ではないことを祈りながら頷く。
「やはりか。それは私が坊に預けたものだ。返してくりゃれ」
日に当たったことがないような白魚の指先が伸ばされ、裕貴はその箱を胸に庇い、やや身を引いた。
本当に彼女が京輔に箱を託したのと同じ妖怪か、まだ決定ではない。
「あなた本人であると、綾倉くん本人から確認が取れたなら」
そしてこの中身が、人間に害を及ぼさないと確信できたなら――。
先は心の中で言うに留めたが、長船は見透かしたように泰然と笑った。
「慎重なのはよいことよの。で、その坊は?」
「綾倉くんは今、公園に」
「公園?」
「何故そんな場所に」
「あなたのことを恨んでいる狐と戦ってる」
それだけで伝わるかどうか危ぶんだが、長船は理解したようで顔から笑みが一気に引いた。
「何? 戦っている、と?」
「ええ」
「一人にしてきたのか」
景秀の口吻には斬りつけるような鋭さがある。
責められる覚えのない裕貴が食ってかかろうとすると、長船が手を伸ばして両者を抑えた。
「待て、景秀。恐らく坊本人が何も言っておらんのじゃろう」
「痩せ我慢か。男の意地だ何だと、張って命を落としては元も子もないだろうに、あの馬鹿め」
「そなたが言えた義理かえ」
本気で呆れている口調の長船には取り合わず、景秀は裕貴に視線を移す。
「その場所はどこだ。案内しろ」
「何故」
「決まっている。あの馬鹿が間違いなく死にかけているからだ」
「綾倉くんは吸血鬼よ、死ぬなんて、そんな」
「吸血鬼は吸血鬼でも、あれはお前たち人間が考えるような妖怪ではない。よく聞け、小娘。あの坊主は、普段はただの人間だ。霊感すらなく、動物的な勘も衰えた、ただの人間だ」
耳元を流れていく風の音が、やけに大きく聞こえた。
現実感がない何秒かが過ぎて、ようやく、裕貴は疑問を口に出す。
「どういう……それはどういうことなの」
「どうもこうもない。何度も言うが、アレはただの人間だ。人の血を吸わなければ吸血鬼としての力が覚醒することもない。隠形の術をこちらが解かねば、あやかしの一つも見えぬただの人間だ。そして、アレは血を吸うような奴ではない。分かったら、さっさと案内を――」
鴉天狗の言葉を聞き終わる前に、裕貴は公園に向かって駆け出していた。
後ろから引き止められたようだが、振り払う。銃をホルスターにしまうだけの理性はどうにか残っていた。
嘘だ。そんなこと、彼は一言も言わなかった。そんなはずはない、嘘であってくれ。
裕貴は全身の力を足に込めて夜の町を疾走した。
胸に抱きかかえた箱が、心臓の音とシンクロして激しくガタガタ鳴る。
――嘘だ。
それでは、彼はただの人間ではないか。裕貴のように対妖怪用として強力な武器も持っていない、普通の高校生ではないか。
彼に何かあったら、自分はどうすればいい。陰陽師になろうと決めたのは、力を振るう妖怪から何もできない人間を守るためなのに。
知らないままに人である彼を死に追いやる手助けをしてしまったのだとしたら、どうすればいい。
自分に好意を持ってくれた人間を――自分が憎からず思っていた者を、突き放してしまったとすれば、裕貴はどうしたらいい。
転びそうになりながら、裕貴はできうる限りの速さで公園へ急行した。
後ろにいた鴉天狗と狐のことを、裕貴は一度も振り返らない。背後から攻撃をくらうという考えは、焦りの前に消え失せていた。
裕貴は公園の中へ、真正面から入る。その際、公園名が記された石の壁に札が貼ってあるのが見えた。これが人払いの結界なのは見て分かったが、剥がしてその効果を取り払う儀式をする暇はない。
飛び込んだ彼女の目が真っ先に捉えたものは、ブランコに腰かけている恵の姿だった。その隣には手持ち無沙汰そうな村主がいる。
まるで待ち合わせた時の自分と京輔のように。
「遅かったな、相良。待ちくたびれたぜ」
「その箱を寄越せ」
裕貴が戻ってくるのを当然のように待っていた彼らの言葉は、途中から耳に入らなかった。
自分の喉が、引きつった呼吸音を繰り返すのが聞こえる。
見回すまでもなく、見つけてしまった。
ほぼ明かりのつかない電灯の下、横たわっている青いブレザーの少年。その体にまとわりついた赤は何だ。ここまで臭ってくる鉄臭さは何だ。
チカッ、と切れかけの電灯が瞬いて顔を照らし出したのを見た瞬間、裕貴は叫んでいた。
「京輔……!」
村主たちが攻撃してくるかもしれなかったが、駆け寄らずにはいられなかった。
膝をついて顔を覗き込み、力なく横たわった肩に触れ、裕貴は指先に力をこめる。
整った造形の顔はべったりと血に濡れ、頬からは血の気が失せ、普段冗談を言っていた口からは未だに新しい鮮血が滴り落ちている。
首元に耳を寄せてかろうじて聞こえる息の音を確かめ、裕貴は叫んだ。
「何でっ、どうして! 何で言わなかったの! あなた、これじゃただの人間じゃない!」
裕貴の腕の中で、か、は、と軽く呼吸が乱れ、胸が不規則に上下する。
うっすらとその目を開けた京輔は、焦点が定まらないまま無理やりに口角を上げてみせた。
「泣か、せて……ご、め……」
意識も朦朧としているだろうに、京輔は手を上げて、裕貴の目元をなぞる。言われて初めて、裕貴は縁から透明な滴が零れ落ちていることに気づいた。
悔しかった。見抜けなかった自分が、守るはずなのに守られた自分が、好きだと言ってくれた彼を止められなかったこの状況が、悔しかった。
血がついた指が触れた頬が赤く染まり、涙がぼかしてマーブル模様を作る。下から見上げている京輔が、少し悲しそうに、口を開いた。
「汚しちゃった、な……ごめん……」
「馬鹿じゃないの! 馬鹿! 馬鹿!」
覚えたのは悲哀ではなく、怒りだった。
こんな時にも格好をつけるのか。好きだからという理由で。それだけの理由で。本当の、ちゃんとした返事もしていないのに。手前勝手な理由で、理由にもならないような理屈で好きという言葉を押しのけたのに。
きつく京輔の肩を握りしめた裕貴に、彼は苦笑のような自嘲のような、それでいてどこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「言った、だろ? 男は、好きな女の子のため、に……何でも、できる馬鹿、だって……」
直後、京輔は盛大に咳き込んだ。塞いだ手から溢れるくらい、大量の血が吐き出される。
裕貴から顔を背けたのは、血がかからないようにするためか。
この期に及んでそんな配慮をする彼に、裕貴は唇を噛み締める。鴉天狗の攻撃で転んだ際にできた傷跡が、ようやく痛みを伴い出した。
「この馬鹿、最初からお前を逃がすために囮になったんだぞ。俺も無駄な殺生したくねえんだ。早く箱渡してくれねえかな。そいつの想いが無駄になる前に」
村主の言葉に、裕貴は憤激とはこういうことかと理解した。腹の底からぐらぐらと、平衡感覚を狂わせるような、世界を歪んで視認するような、形容しがたい熱が立ち昇る。
「無駄に、なる前に?」
裕貴は村主の方を見ようともせず、その台詞を繰り返した。
その台詞では、まるでもうすぐ京輔が死ぬようではないか。
「……させない。死なせない」
裕貴は静かに決意を呟くと、まだえずいて血を吐いている京輔の肩に手をかけた。
唇にできた傷跡を更に深く犬歯で擦ると、細くなっていた血の筋が再び太く流れ出す。その分痛みも増したが、だから何だ。
裕貴は、驚いたようにこちらを向く京輔の手をどけると、自分の唇を、流れる血を、彼のそれに押し付けた。
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