闇色遺聞

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  17  

「ええい、やめろ。喧嘩なら他所でやれ、他所で」
 どこから降りたのか、いつからいたのか、精悍な顔つきの男が呆れたように京輔と村主の間に割って入った。
 見覚えのある容貌に、京輔は名を呼ぶ。
「景秀さん!」
 涼しい顔立ちを呆れに染めて、鴉天狗は二人の吸血鬼を見遣る。
「まるで児戯のような喧嘩だな。仮にも鬼が二匹揃って何をやっている」
「元はといえば長船の姉さんのせいだろ」
 頬をふくらませた京輔は反射的に文句を言ってから、恵の手首を握り裕貴と引き離している女性を視界に入れてぎょっとした。
 裕貴は突如目の前に降って湧いた存在に目を丸くしている。手の中に白地に墨で描かれた札を持ったまま、硬直して長船とこちら側の状況を見比べていた。
「おや、坊。なんぞ言うたかえ」
 蠱惑的な香りを漂わせる長船の微笑に、京輔は思わず及び腰になる。
「い、いえ、何も……」
 見逃してくれたのか、笑ったまま長船は恵を見据えた。
「すまぬが、依り代から変わってくれぬかの。話がしたい」
 ぱしっ、と音がした。恵が長船の手を振り払ったのだ。
 目が恵の依怙地なものから、瞳孔が収縮した鋭いものへと変貌する。狐だ。
「――今更何だ、長船。人の世などに迎合しおって」
「変わったのう。主は昔、さほど人を憎んではおらなんだのに」
「あのようなことをされて、憎まずにいられるか!」
「そなたの連れ合いが人に殺されたのは、まことに残念だった」
 旧知同士の話し合いに部外者としておとなしく控えていた京輔は、話の展開に唾を飲み込む。
 野次馬根性めいたものが発動されながらも、気の毒にという思いが胸を塞いだ。
「誠に、残念であった」
 長船の発する一音一音には、弔いと真情が込められていた。
 ずしりと腹の底に重たい石が沈む。
 恵に憑いた狐の伴侶が死んだことは、どういう事情があったか分からないが京輔たちにとって他人事ではない。
 人に殺され闇に還った異形は数知れない。
 長船の心からの言葉に、唐突に恵の体から力が抜けた。
「……あの方は、優しかったぞ。長船」
「知っておる。誰がそなたの結納の手伝いをしたと思うておる」
「元は数多の川と眷属を統べる神であったのに、人の手で川の形が変わり、汚され、それでも、笑っていたぞ、あの方は」
「そうか」
「神として守ってきたことも忘れられ、信仰心もなくなり、痩せ細りながらも、最後まで川を頼む、できるだけ清らに、と仰って」
 恵の唇がわなないた。
「長船。何故だ。私は、狐狸として生まれながら神の妻になった。狐のままであったなら人間共に直接復讐できただろうに、神の妻になったばかりに肉体を失い、この様だ。何もできぬ。私には何もない。あの方が守ろうとしたものも守れなかった」
 殺されたというのはそういうことか。
 土地の神は、信仰心を失えば忘れ去られ、ついには存在も消える。神という存在でありながら、絶対的な力を持っているにも関わらずその変遷は激しい。
 時の流れに抗えず消えていく神体が幾つあっただろう。この狐はそれをよしとはしなかった。暴虐なまでに全てを押し流す時を、その流れを創り出した人間を憎んだ。
 恵の目から、涙があふれ出た。
 ひっ、ひっ、と短くしゃくり上げながら肩をか細く震わせている様は、神の成り損ないでも狐でもない、温かい命を持った存在がそこにあった。
「――だから、石本さんに取り憑いたの……」
 裕貴が思わずといったように呟き、涙で滲んだ顔のまま恵が少しだけ笑う。
「この者が呼び寄せてくれたのは僥倖だった。私がしたいことを何も妨げなかったからな。あやかしでありながら、私のように無力なものなど、消えた方がいい」
 この狐を動かしていたのは、強烈な自己嫌悪と過去に大事な人を救えなかった無力さなのだろう。それが歪み、枠をねじ曲げ、取り憑くに至った。
 どんなものも存在しているだけでいい、という慰めは、存在を消された夫を持つ狐の前では重すぎた。
 さめざめと泣きながら、恵は景秀を睨むように、それでいて哀願するように見つめた。
「知っておるか、鴉天狗」
「何をだ」
「小娘が誰に生かされたかということだ。あの方は、一人として忘れなんだぞ。川は時に人の命を奪う程に荒れ狂う。神とてそれをなくすことは不可能。だからこそ、出来る限り助けたいとあの方は言われた。その行く末も気にしておった。幼い子供はなおさらの」
「……なるほど。あの縁は偶然ではなかったということか」
 景秀が片頬に、懐古の表情を浮かべる。それは微笑みというよりも今はなきものを偲ぶ追悼に見えた。
 恵は景秀の言葉を聞いているのかどうなのか、溜まりに溜まった胸中の泥を吐き出し続ける。
「だから、その箱を、な。壊してやろうと思ったのよ。名にし負う妖怪の悪党が、人間の小娘が遺したものに執心などと笑わせる。そう思ってな」
 えっ、と京輔は目を見開く。自然、目線は抱えた桐箱に行った。
「これ、長船の姉さんのじゃねえの?」
「すまんのう、坊。それは私のではなくこの馬鹿のものじゃ」
「誰が馬鹿だ」
 景秀が堪りかねたように口を挟む。長船は白い目で見返した。
「四百年も文をもらうのが遅れた男など、おなごからすればただの阿呆じゃ」
「あれは、あの桔梗紋が悪い。あの時代の狩野派の作品は大体あやつのせいで火中に散じた。残っているとは思わぬだろうが」
「ほ、言い訳、言い訳」
 茶化すように唇を持ち上げ、長船は恵を通してかつての仲間に語りかけた。
「どうじゃ、神社に来る度に只酒をかっくらっていたあの鴉天狗も、随分丸くなったものじゃろう。――人は変わる。つられて世も変わる。ならば我らが変わるのも必定ぞ」
 真剣な言霊が、胸を打つ。
 真っ直ぐでありながら穏やかに、長船は恵を見つめた。
「もうよい。もうよいのだ。そなたはよくやった。少々最後の帳尻合わせをしくじったがな」
「長船」
「先にいけ。もういい加減、肩肘を張るのにも疲れたろう」
 そこで初めて、恵に憑いた狐は朗らかに笑った。
「何――肩肘を張ろうにも、狐には張るだけの肩も肘もないわ」
「道理じゃな」
 こぼした冗談に、長船と恵は顔を見合わせてくつくつと笑う。ひとしきり笑った後、疲れたように狐が口を開いた。
「我らは死んだところで土塊に還るだけだ。それでも、私は先にいっていいのだろうか」
 独りを恐れるように、狐の瞳が揺らぐ。
「何。我らは皆死ねば同じところに行く。人には極楽だ天国だと他にも色々あるようじゃがな。だからこそ、我らは必ず死して会うことになろうよ。その時に言葉を交わせるようなものではなくとも、そこが我らの還り着く場所だ。あやかしに生まれた以上、肌が知っていよう」
 長船が白檀の扇子を広げてからりと笑った。
「何、私がそちらに行くまで精々五百年といったところだろう。さほど長くはない、気を長うして待っていてくれ」
 狐はくすっと笑ったようだった。
「本当に、昔からお前にはかなわない……」
 長船も懐かしむように笑んで狐に応え、一歩下がった。
 無言で裕貴の方を見る。
 裕貴は確認するかのように長船と恵を見比べたが、どちらも言葉すら発しない。
 決心したように頷き、裕貴は霊符を恵の額にかざし、今度こそ触れさせた。
 ふっ、と恵の顔が完全なる無表情になる。
 そろそろ人間に戻りかけている京輔の目に、華奢な恵の体から白い霊気が立ち昇るのが微かに見えた。
 粒子で縁取られた輪郭と面立ちは、天女のように美しい。その天女が一度こちらを見て、笑ったような気がした。
(人、なのか……)
 狐として化けていた頃の姿なのか、川の神の姿となってからなのか、彼女の昔を知らない京輔には分からない。それだけに、人の顔で笑う彼女の微笑が突き刺さった。
 幻影とも本物ともつかない白い狐は、さあっ、と風が吹くような音をたてて消えてしまった。
 恵を除く全員が彼女の頭上を見上げ、本当に吹いた風が、余韻をさらうように流れていく。
 そよぐ風が頬を撫で、終わった、という感慨が京輔の胸を浸した。
 途端に頭にひらめいたのが、村主に破壊された諸々の護身具だ。合計一万円近い出費だ。犯人が分かった以上、やはり埋め合わせをしてもらうのが妥当か。
 その辺の事情を追求してやろうと村主の方を向くが、運が悪かったらしい。
 憑かれていたものが消えて、体を支える力が萎えたように石本恵の体が揺らいだ。
「恵っ」
 村主は走って誰よりも早く、彼女を抱きとめる。
「恵、大丈夫か」
「……馬鹿みたい」
 恵は村主に礼も言わず、虚ろに呟いた。
 狐が流した涙の跡が頬を汚していても、全く気にしていない。
「私、これでただの人間じゃない。あなたたちみたいに、『どこか』へ還るって信じてる妖怪でもないじゃない」
 妖怪には皆、母なる闇への帰属意識がある。誰に教えられなくても、死んだ後は妖怪を生み出した闇へと還ると知っている。
 人間である恵には、それがない。
 勉強でも居場所を作れず、友達も作れず、オカルトに手を出してまで欲しがった足場が、妖怪にはある。
 きっと恵にはそれが妬ましいのだろう。
「軽蔑したでしょ。私、あなたのこと利用するだけ利用して、返事もせずに、これだよ。ひどいね」
 他人事のように言う恵を支えたまま、村主は首を振る。
「俺たちが還る場所は闇の中だ。だから、何も残せない。死んだ後の場所も、生きている時も大抵居場所なんて考えない。恵がそうやって人間らしく、居場所を求めているのを見るの、好きだ。再確認したよ。俺はそういう、恵が好きだ」
 村主は京輔に背を向けて恵と会話している。
 顔は見えないが、きっと少しは紅潮した頬をしていることだろう。
「――だから、改めて、また考えてくれないか。友達からなんて慎ましいこと言えないけど、できれば俺、そういう恵の傍にいたい」
 聞いているこちらが赤くなるようなストレートさだ。
 景秀などはあからさまに首筋が痒そうな顔をしている。
「青いのう」
 狐といえど女だからだろうか、長船がにやにやと二人の様子を眺めていた。
 恵は村主にしか聞こえないような小さな声で何かを呟く。
 もう人間に戻った耳は内容を捉えることがなかったが、二人の態度を見ている限り悪い方向には発展しないのではないかと思えた。
 色々終わったな、と今度こそ肩の力を抜いた京輔に、いつの間にか傍まで来ていた裕貴が声をかけてくる。
「お疲れ様。迷惑かけちゃったわね」
「俺が好きでやったことだし」
 言ってから一万円という文字が頭を掠めたのは内緒である。こんな格好をつけた以上村主に請求するのも野暮だ。
 諦めるしかないかと気落ちする京輔を、裕貴が下から覗き込んでくる。
「あなたも、死んだら消えるの?」
「さあ、どうだろ。死んだことないから分からないな。死体は普通に残るとは思うけど」
 だが、妖怪は幽霊にはならない。
 妖怪の怨念が残ることはあっても、それはもうあやかしとは呼べない。呪いそのものになってしまえば、生き物としてカテゴリーに入れることはできないからだ。
 死んだら未練が残って、自分もあの狐のようになるのだろうか。
 漠然とした不安に、二人の間に沈黙の帳が降りる。
「余計な心配はいらんだろう。お前とその女は強いつながりを持った。お互いに、何かあれば異変を感じるだろう」
 景秀が重苦しいその幕を裂いた。意味が分からず、二人して首を傾げる。
「女がお前に血を与えただろう。既に契約は済んだ。鬼と血を交わした。幸いにもその女は陰陽師だ、良かったな」
「ちょ、ちょっと待って景秀さん、どういうこと?」
「坊、知らんのかえ? 誓いという言葉は、血交いに通じる。坊は半分鬼じゃが、その鬼に血を与えるということは、そうさな、この場合は――使い魔かの?」
 面白そうに長船が話に入ってきて、可愛らしく小首を傾げた。景秀がその後を引き継ぐ。
「普通は逆の説話が多いがな。狐に血を舐められて同族になった人の話など山ほど転がっておる」
「何、仏道を極めようとする僧が天狗になった話など塵芥のようにあろうが」
「それと血は関係なかろう」
 年嵩の妖怪二人が自分の種族について揉めているが、京輔はそれどころではなかった。
「じゃ、じゃあ何? 俺、裕貴ちゃんの使い魔!?」
「札で呼び出して絶対服従させるような使い魔ではないがの。ま、そこまで堅苦しく考えず、夜遊び友達ができた、くらいに考えておいたらどうじゃ」
 ころころ鈴のような声を転がす狐に、京輔は目眩を覚えた。これが年の功だろうか。しかし、例え同じ年月を生きていてもこの狐には敵わない気がする。
 裕貴はどういう反応をしているか気になり横目で見ると、険しく眉を寄せていた。
 予想外の事態に困惑しつつも、彼女の目はいつも通り強い光を失わない。
 そういうとこも好きなんだよなあ、という村主にも負けないのろけは心にしまう。彼女は恵と違ってスルーではなく、拳で応えてくるからだ。
 やっぱり自分ではダメか、と意気消沈する京輔の耳が、裕貴の言葉を捕捉した。
「優しいという字に、希望の希」
 唐突に何を言い出したかと、京輔はぽかんと口を開けた。
「ゆ、裕貴ちゃん……?」
「そう、優希。変えたのは、字だけよ。読み方は一緒」
 そこに至ってようやく、京輔は意味を理解した。
 電光が脳内を走り抜け、あの時の自分の言葉が再生される。
 ――もし、君が俺のこと好きになってくれたら、名前で呼んでもいいかな。君の、女の子の名前で。
「――いい、の?」
 もっと気の利いたことを言いたかったのに、舌がもつれる。何と言っていいのか分からず、唇が形作ったのは情けない息だった。
 急激に赤く染まる頬を動かし、優希は眉根に皺を寄せる。
「妖怪はダメだけど、使い魔相手にダメとは言われていないわ」
 音にならない声が漏れて、京輔は言葉を失った。感激と喜びと信じがたさが突き上げて、行動に変わる。
 無言で歩み寄り、抱きしめる。腕の中に確かな温もりと鼓動を感じた。
 抱きしめられた彼女はほんの数秒硬直した後――。
「痛いっ!」
 今しがた両想いになったはずの男の腹に、思い切り拳を突き立てた。
「何すんだよ!」
「そういうのは順序踏んでちゃんとするもんでしょ!」
 真っ赤な顔で怒る陰陽師の彼女は、ひどく可愛いらしい。
 叱られても、京輔はにやにやと笑う自分を止めることができなかった。
「何で笑うの」
「いや、嬉しくて、つい。ていうかこの勢いで訊いちゃうけど、割と最初からいいと思ってくれてたよね? だって迷ってくれてたもんね、最初。何が理由?」
「か――顔が好みだったのよ!」
「……えっ、そこ!? ちょ、ちょっとあんまりじゃない!?」
「あ、あんただって似たようなものでしょう! だって、告白されるまで私、話した覚えほとんどないわよ!」
「俺は優希ちゃんの中身が好きなの!」
 やいのやいのと、本人たちにとっては真面目で不毛な議論を続けている二人の横を、鴉天狗と狐が通り抜けた。
 未だ持ったままで会話に注意が逸れている京輔の手から桐箱を抜き取り、鴉天狗はため息をついた。
 彼はとられたことに気付かないくらい痴話喧嘩を繰り広げている。
「可愛らしいのう」
「俺にはただやかましいだけだがな」
「人と妖怪も分かり合うことがあるといういい証明ではないか」
「――そうだな」
 自分へのあてこすりなのは分かっていながら、景秀は真顔で頷く。自分は逃げ出した。彼らは、逃げなかった。それが正しいのか間違っているのかは、当人たち以外判別できない。
 ようやく手の中に戻ってきた――初めから景秀のものではなかったが、戻ってきたというのが正しい心情だった。その桐箱を、景秀はじっと見つめた。
 逃げ出してすぐ、景秀は独り旅に出た。この四百年、長船と共に旅をすることもあれば、独りで旅をすることもあった。
 膨大な時間が流れて、見つけ出した過去の欠片が手の中にある。
 彼女がどんな人生を辿ったか、詳細は分からない。だが、これは自分に宛てられたものだと鴉天狗は知っていた。
 桐箱を裏返すと、時を経てくすんだ色の、滲んだ字が書かれている。黒々とした墨で書かれたのは、もう何百年前になるのだろうか。
 ――友へ 野良の子より
 その横には年号が、元亀二年と記されている。一人で筆を持つことを許されたのはいつか知らないが、彼女は分かりやすいように自分たちが別れた時の年を書いてくれたのだろう。
「懐かしいか。それとも怖いか」
 長船の問いかけに、景秀は片頬を持ち上げた。
「両方よ。あの娘は、人の意表をつく天賦の才能を持っていたからな」
「ふふ、そのような娘ならば、是非とも生前に会ってみたかった」
「やめろ、俺の胃に穴が開く」
「おや、鴉天狗には胃という器官があるのかえ」
 けらけらと狐らしい笑声をたてる長船に呆れながらも、景秀は紐の封を解いた。
 蓋に手をかけた時ためらったのは一瞬、その刹那の中で膨大な思いと風景が体を吹き流れ、景秀は呼吸して厳かに箱を開ける。
 中に入っていたものを見つめ、四百年前はなかった人工の光の下でそれを広げた。
 そこに託された思いを裏も表も読みつくし、景秀は沈黙して蓋を閉じる。
 鴉天狗の頬には、かつて独りの子供を拾った時と同じような微笑が浮かんでいた。
 答えを促す狐の視線を受けて、景秀はかつてと真逆のことを呟く。
「――敵わんな、人間の強さには」
 まだ二組の妖怪と人間の組み合わせが言葉を交わし合っている中、鴉天狗は箱に入った想いが経てきた静寂を味わうように、目を閉じた。  
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