闇色遺聞

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  18  

 安土に類を見ない城が築かれた後、その城の主が死に、城自体も家臣の反逆によって焼け落ちて十年になる。
 安土城に存在した襖やその他細々とした絵を手がけたのは永徳で、丹精込めた一大傑作であった。それが火中に沈んだと聞いた時の彼の脱力ぶりは痛々しかった。
 親として、一人の画人として、運命と諭すより他なかった苦渋。
 松栄は、布団に横たわって縁側から頬を撫でる風を受けながら、その時のことを思い出して独りごちた。
「もう、十年になるか」
「織田殿の御首は未だに見つかっておりませんが」
 強い夏の日差しを背で遮り団扇で風を送りながら、弟子がそれに応えるように呟いた。
 松栄は会話しようという気力もなく、胸中に湧き起こった感情を考えることなく口にする。
 彼が右大臣という地位だったのは、もう遥か昔の話になってしまった。
「織田右府殿か、懐かしい名だ」
「今は関白の世でございますからね」
「この国での大きな戦はなくなったがな……海を越えて戦をしに行くとは、関白殿も物好きなお方だ。また、世は荒れるやもしれぬ。元亀の頃のようにな」
 重ねた年の数だけある思い出が、体の奥から湧いては消えた。
 一つ一つを噛み締めることすら億劫な我が身を振り返り、松栄は笑った。
「老いたのう。元亀の頃もわしは老いたと思うていたが、今はなお老いた」
「まだこれからでございましょう、御師」
「七十を過ぎれば、もうこの世の酸いも甘いも噛み分けた。心残りはない――と言いたいところだがな」
 松栄はそこで咳き込み、佇む弟子を見上げた。
 逆光で顔はよく見えない。それでも彼女がどんな表情をしているのかはよく分かった。
「元亀といえば、あの日、わしは百歳の後に後悔させてやると景秀に言ったが。お主は、どう思っていたのかの」
 弟子は、ゆるりと団扇を回し、笑いを零したようだった。相変わらず、その表情は逆光で窺えない。
「景秀は優しくて臆病だから、しょうがなかったんだ。ノラは、御師みたいに恨んではいない」
 丁寧な師匠への言葉遣いを投げ捨て、娘時分の頃とまるで変わらない口調を差し上らせて弟子は言う。それはこの女弟子と松栄との間だけで通じる、昔を偲ぶ暗号のようなものだった。
「恨む、か。確かに、最初はそうだったな。景秀はわしにお主を、才能故でもなく、お主をただの人間にするためだけに押し付けたからの」
「押し付けたはひどい。ノラはノラで役に立ったはずなのになあ」
 いつぞや聞いた言い回しだ。
 思い出して双方押し殺した笑い声が、他に誰もいない部屋に密やかに流れる。
 恨むという程の強い憎しみなど最初からなかったことを、二人ともよく知っていた。
「だが、しかし、奴は来るかな。安土の絵にお主が手がけたものも入っていたと知ったら、もうお主の作品は残っていないと早合点するかもしれぬ」
「困ったことに、景秀はそういうところがあるからなあ。絶対ないとは言い切れないというか、やりかねない」
 思わず団扇であおぐ手をとめて、弟子は真剣に考え込んだ。
「そうなった時のための、それなのだろう? 完成したのか」
 弟子は団扇をそっと畳に置いて、隣にある桐箱から巻物を取り出した。
 松栄は枯れて細くなった手でそれを受け取る。
「御師。少し昔話をしてもいいだろうか」
 床から起きて巻物を広げようとしていた松栄を、助け起こしながら言った弟子の言霊が拘束した。手は開こうとした瞬間のまま静謐を保っている。
 同じ目線の高さになった弟子の顔を見て、松栄は頷いた。
 この弟子が鴉天狗と袂を分かってから二十年近くなるが、その年月が通り過ぎたとは到底思えない若々しさが彼女にはあった。陽の光の下で見る彼女は、三十路をとうに超えた女には見えない。唯一重ねてきた苦労を主張するのは、松栄のそれとよく似た、匂いの染み付いた指先だけだった。
「ノラにはな、ある時まで名前がなかった。ノラという名前は景秀につけてもらったものではない」
 弟子は一度、狩野派に入門した時に名前を変えた。れっきとした人間の名前だ。松栄がそれまでの名前では生活に障りが出るだろうと変えさせた名前だ。
 ノラという名は景秀につけられたのだろうと今の今まで思っていた松栄は、驚きを沈黙に変えて続きを促す。
「ノラは奴婢だった。いくらでも代わりがいて、物心ついた時には親もきょうだいも、誰もいなかった。頼る大人の代わりに、ノラには主人しかいなかった」
 在りし日の松栄が背負っていた狩野派の重みとは違う重石がある生活だっただろう。
 守ってくれる存在も、守るべき存在もなかった。
 珍しいことではない。住む土地が戦で負ければ領民は接収されるのが常の世情だった。年端も行かない一人の子供が折れるには充分すぎただろう。
 しかし、ノラは折れなかった。
 その瞳は、今なお苛烈な色に燃えている。松栄は、こちらを向いていないその炎から目を逸らせない。
「名前などつけてもらえずに、物のように生きてきた。それでもいいと思っていた。そんな日、村に神託が下った。『人柱として、奴婢を川に沈めよ。さすれば氾濫は収まろう』と」
 初めて聞く身の上話は、老体の骨身に凍みる。
 手にした巻物が、描き手の人生を主張するように重さを増した。
 弟子は松栄の様子をその目で捉えているのかいないのか、紅も引かぬのに美しい唇が弧を描く。
「昔は口減らしのためだと思っていたけれど、案外本当に神託だったのかもしれない。景秀に出会って、今はそう思うようになった。神というものが本当にあの村にいたならば、ノラに生きよと言うてくれたのかもしれない。沈められて岩が縄を切ってくれなければ、ノラは一生奴婢のままだった」
 弟子は遠い目で、自分の過去を見つめている。
 松栄は今更に、掌中が筆を握りたいと疼くのを感じた。握っても描けないのは景秀と出会ってよく分かっていたが、それは魂に染み付いた性だった。
 松栄の筆は幻想を描くには生身の人間過ぎ、人間として型を継承するには御伽草子のような幻を求めすぎた。
 弟子はその中間を行く。幻のような鴉天狗と共に生きた彼女だからこそ、描けるものがあったのだ。
 そうなると知っていて、神は彼女を選んだのだろうか。
 ――未練がないとは、我ながらよう言うた。
 閻魔大王が嬉々として二枚舌を抜きにくるに違いない。
 痛ましい彼女の過去は続く。
「人柱として選ばれた時、思った。名前が欲しい。このまま極楽に行けるのか地獄に行くのかは知らないけれど、名前がなければ尋ねられても名乗れない。閻魔帳にすら名前が載っていないなら、自分はどこにも行けず一人ぼっちだ。ひどいじゃないか。そう思った。だから、巫女様に名付け親になってもらったんだ。今思えば我儘だったかな」
 小さな、胸の痛くなるような我儘だった。
 こんな願いを、我儘と呼ぶ事の方がよほど我儘じみて聞こえる。
「そうしたら、ノラだ、と言った。どうせすぐ死んでしまうような野良の子なのだから、それで充分と言っていた。変な名前だと思った。でもノラは、嬉しかった」
「何故だ。死ねと言われたと同義だぞ」
「分かっている。でも、初めて人から何かをもらった。おかげで、地獄の閻魔様でも極楽のお釈迦様でもないけれど、景秀に会った時に名乗ることができた。ノラは、ノラだと。あれ程嬉しかったことは未だにないんだ、御師」
 弟子は、そっと松栄の手に触れた。
「新しい名前をくれた御師にも感謝をしている。あれは、人でない人としての名前だった。景秀は人になってくれと願ってノラを捨ててくれた。景秀は、他人を殺してまでノラを妖怪にはしたくなかったんだ。いつか話しただろう? 山伏の群れに襲われた時だ。あの優しい鴉天狗は、人というものの弱さを愛してくれていたんだ」
 弟子はその手に力を込めた。
 震える指先に、泣いているのか、と思った松栄は視線を上げて絶句する。
 弟子の顔には、不適な笑みが浮かんでいた。指先の小さな律動は、笑いで揺れる肩から伝播してきた結果だった。
「なるほど、それもいいだろう。景秀らしい。だが、人間は強い。それをあの鴉天狗に二人で思い知らせてやろう、御師。ノラは、もうこの絵の中にしかいない。――御師、見てみてくれ。これが、御師が鴉天狗に捨てられたところを拾い育ててくれた、人間の絵だ」
 ――あれは人の意表を突く才能を持っている、それだけはよく覚えておくことだな。
 景秀の言葉が今更に思い出され、松栄はくっ、と笑いを零した。
 どこまでも太く顔を上げて進むその生き様に爽快感すら覚えながら、弟子の手に導かれるように松栄は巻物を広げた。
 そこに描かれたものと、添えられた一文。
 じっくりと見て、出てきたのは短い言葉だった。
「なるほど」
 それだけ言って、松栄は満足そうに目を閉じた。
 言葉に出来ない思いをそれ以上何も言わずとも、弟子には伝わったはずだった。
「これは、公家のお得意様に預けよう。御師の名前を出せば、向こうも断れまい。何、御師。大丈夫だ。私は神に救われた奴婢だからな。きっとあの鴉天狗の元に届くとも」
 松栄のものだと言えば、公家は寄贈されたと思うだろう。
 狩野派の作品を寄贈されて嫌と思う公家はいまい。何より、物を残すならば城よりも寺よりも公家に預けるのが一番いい方法だ。
 城は焼ける、寺も焼ける、しかし公家は、貴種は珍重される。その彼らがさらに珍重するのが芸術だ。
「鴉天狗が来れば渡すようにと、公家に言うのか。ふふ、滑稽だな。景秀はその時どうするか見物だ」
「何百年も遅れたりしてな。ふふ、下手をしたら時の権力者に渡っているかもしれないな」
「くく、そうなったら押し入り強盗せねばならぬな、景秀は」
「鴉天狗がお縄につくのか、傑作だな」
 自分たちは確実に存在しないその未来を想像し、二人は肩を揺すって大笑いする。
 松栄の手の中には、一軸の掛け軸があった。
 縦に広げた掛け軸の本紙には、不思議な光景が展開されている。
 貧しい服装の童が一人、卒塔婆の近くで倒れている。隣には死の象徴であるような濁流と、今にも童を押し潰さんとするように尖った岩が描かれていた。
 童はそれでも楽しそうに、死の淵から手を伸ばす。
 その目線の先は鬱蒼と茂った木に覆い隠された枝の中。見落としてしまいそうなほど小さく、ちらりと枝葉の間から鴉色の羽根が覗いていた。
 絵の上部、わざと計算して作られた隙間に、万感の思いを込めて漢詩が書かれている。

 一壺濁酒喜相逢     一壺のにごり酒持って逢えば
 古今多少事       過ぎた昔のことなどは
 都付笑談中       全て笑い話になるものだ

 ノラは自分で書いたそれを読み、胸中でどこか遠い空の下にいる鴉天狗に快哉を叫んだ。

 ――私は生きたぞ、景秀!  
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