雪白の花

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  117  

 霧積晏の脳裏には、一つの言葉しかなかった。
 ――殺される。
 体を恐怖が満たし、一点のこと以外考えられなくなる。怖い。怖い。怖い。
 肩で息をし、恐怖の根源から逃げて行く少年は、不自然に体幹を不自然に傾がせている。
 生気がない作り物のような灰色の世界を、自分たちが生きてきた世界とは違う世界を、彼は駆ける。
 脂汗の浮いた苦痛の表情で、左手で庇うように握り締めている右肘から下の部分は――まるで一瞬で全てが干上がったかのように、骨と皮ばかりになっていた。
(くそ、どこか、どこか、逃げる所、逃げるとこ……)
 思考を遮る、よく通る声が晏の背筋を凍らせた。
「霧積くーん。どこですかー?」
 鬼ごっこの時にふざけて子供を探し回る大人のものにも似た、朗らかさがあった。だが、発せられた声からは完全に正気が抜け落ちている。
 そして、この鬼に捕まれば確実に死ぬ。
 走る靴音も、一呼吸も、右腕の痛みを堪えるくぐもった声さえ、聞きつけられれば終わる。
 こちらの方が若いとはいえ、相手は特殊技能局の局長、現場に出ることこそ少ないものの、未だ前線で戦っていた時の風格は失っていない。元々は対〈万軍〉、対異人種用に編成された班の一員として、特攻を担っていたと聞く。
 今いるこの《非現実世界》で、ギリギリ能力を使って戦える程度の晏とでは、彼我の距離はあまりにも遠い。
 ゴミが転がるどこかのビルの路地裏で息を殺しながら、晏は恐怖を振り払うのに必死だった。
 十八にしてはくぐり抜けてきた修羅場の数も多い晏だが、だからこそ、自分の勝ち目が薄いことはよく知っている。
《門》入出管理記録の中、不自然に何度も出入りしている人間の名前があった。
 久保彩人。
 特殊技能局の局長であり、滅多なことでは現場に入らないはずの彼が、何故。
「何か」があるのか。これが、進藤烈が晏に伝えたかったことなのか。
 それを考えた刹那、データを閲覧していたモニターが壊され、晏は確信した。
 ――少なくとも、久保彩人は何かを隠している。
〈万軍〉と〈交錯する道〉の接点に関するものか、総合統括長の命令か、または別の思惑があるのか。問題は、その何かを追及している暇などなく、交渉の余地など完全にないということだった。
 この世界に逃げ込む際に、右腕を掴まれただけでこの始末だ。間違いなく、相手は晏を殺す気でいる。
 だから、反撃が可能な僅かな可能性に賭けた。普通の世界では拳銃で反撃する程度、久保彩人はそんな当たり前の攻撃など受け付けてくれない。彼の恐ろしさ、強さは、同期である高階から聞き及んでいる。
「さっさと楽になっちまった方がいいぜー? 今なら出血大サービス。一瞬で殺してやるから」
 その方が楽になれるのは分かっていた。先程から、行先を失った血液が破裂しそうに血の管を脈打たせている。血が通わない。一体どういう原理なのか、晏の右腕は「枯れ」てしまったのだ。
 じわじわとなぶり殺されるよりは確かに楽だろうが、簡単に自分の生を諦められるほど、霧積晏は絶望してはいなかった。
 しかし希望も全く見えてはこない。焦る晏に拍車をかけるため、隠れている路地から程近い大通りを一人で闊歩する久保が声を張り上げる。
「鬼が怖くて出てこれねえか? じゃあ面白いこと教えてやるよ。ここでお前が死ななけりゃ、もう一人、大変な目にあっちまうかもなあ。えーと……よし、よし……そう、芳隆、だっけ?」
 わざとらしい揶揄の口調に、理性を押さえていた栓が弾け飛んだのを感じた。
 呼ばれたのはもう一人の兄と慕う従兄弟、こんな世界に足を突っこんだ自分たちの分まで絶対に、絶対に幸せになってもらわなければならない人間。
 芳隆の名前を出された以上、それが嘘でも本当でも、確かめなければいけない。久保彩人に敵わなくても、晏が止めなければいけない。
(ああ、くそっ……!)
 ごめん、と誰に向かってか、晏は呟く。
 自分を産んでくれた母、父に向けてであったか、真相を晏にならと教えてくれた進藤烈にだったか、危ないからとただの少年としての晏を心配してくれた芳隆にだったか、真相の片鱗すら届かなかった自分を信頼してくれていた高階芳明にだったか。それは、晏自身にすら分からない。
 神などに祈る気は断じてないが、何かに祈るように目を固く瞑って、決意の眼差しを開いた。
「……我が血よ!」
 体の神経が燃えるような感覚と共に、デュナミスが発動する。腹の底からこみ上げてくる熱が外気に触れて、世界を陽炎のように揺らがせた。
 声を聞きつけて、久保がこちらに近づいてくる靴音がした。狂気をのせた顔と目があった瞬間、声のない声が選択肢を叫ぶ。
 ――ズラス
   ――ゴミ ――ウシロ ――マエ
(蹴倒せ!)
 ほんの少しだけ起こる事象をずらす能力で、晏は一番目の選択肢を掴みとった。路地裏に足を踏み入れた瞬間、風もないのにビルに寄りかかっていた棒きれがころりと久保の足元に転がった。
「おっ?」
 目を見開き、予想もしなかった妨害に足を取られて姿勢を崩す久保。
 狙ったのはその一瞬。慣れない左腕で、それでも俊敏にホルスターから愛銃チーターを抜き取り、引き金を引いた。
 轟音が弾けて、大きく久保の体が跳ねる。
「……っは、びっくりした!」
 放たれた鉛弾は、久保の体を貫通することなく、彼が咄嗟に目の前に差し出した手のひらで受け止められていた。握った指を久保がほどく度に、バラバラと弾の残骸がこぼれ落ちる。
 弾丸の勢いを殺せない至近距離の狙撃を、一体彼がどうやって受け止めたのか、それはもう晏の疑問ではなかった。
 勝算の低い賭けに失敗した以上、もうできることは一つしかない。
 晏は右腕がしおれているせいで不自然になるバランス感覚を持て余しながら、脱兎の如く逃げ出した。
「……ふーん」
 逃げる獲物を目で追いながら、膝をついていた久保は立ち上がり、苦笑する。
 愚直に追いかける手もあるが、あの獲物が相討ちを覚悟していた場合、少し面倒なことになる。ゼロ距離で撃たれてはさすがに深手をおってしまう。それは久保の意図するところではなかった。
「ま、じっくりとやりましょうかね」
 あの少年はきっと自決用の一発を残しておくタイプではない。それを期待しながら、殺戮を楽しむために、久保は裾の土を払って足取りも軽く走りだした。



「一体、何を分かっている?」
 不穏な言葉を笑みと共に浮かべた総合統括長に、高階は尋ねた。
「君のことをだ。君は感情屋で、大事なものは履き違えられないということを知っている」
「……何が言いたい」
 敬語をかなぐり捨てた高階に佐伯が色をなして何か言おうとするのを、素早く九条が手で押し留めた。
「お前みたいな最低な人間に、俺のことなんて何も分かってほしくはないな、王様」
「最低か。そうかもしれないな。だが、文明の一つを守るためにはやむない処置だ」
「必要悪だとでも言いたいのか」
「お前は今までそうやって、守ってこなかったか、高階。復讐といいつつ、その怖気に耐えられたのは守らなければならない自分たちの大義名分を信じていたからだろう? 霧積を巻き込めたのも、その盾があったからだろう。中身が違うものに変わるだけだ。直に慣れる」
 どうだかな、と内心で高階は吐き捨てた。
 扉の傍で立ったまま聞いていた九条を見れば、見事なまでの無表情だ。何も感じていないはずはない、無感情の下には激情が荒れ狂っているだろう。
 その九条が、動かない仮面にヒビを入れた。無表情が怪訝に変わり、眉根が寄せられる。
 寄りかかっていた扉から離れ耳をそばだてる様子は、敵の接近を警戒する獣のようだ。実際彼の心境もそれに近いかもしれない。
 数秒して、九条が警戒した理由が分かった。人払いをした個室に近づいてくる足音だ。闊歩といっていい、ためらいのないリズムを刻んで近づいてくる。
「気にするな、用事を言いつけたから報告に来たのだろう。ちなみに彼は機密内容を知らないからそのつもりで」
 ただ一人、悠然と構えたまま総合統括長が言う。直後、ドアが開いて意外な人物が入ってきた。
「はい、王様、無事任務完了でございますよっと」
 ふざけた物言いながらも、全身にはまだ闘気がみなぎっている。迂闊に触れれば暴発しかねない危うさを漂わせたまま、久保彩人は部屋の扉を閉めた。
「何ですか、空気が重いですね。まあいいですけど」
 長身の背に何かを隠し、久保は九条の隣に並び立つ。
 久保の姿を確認し、総合統括長は口を開いた。
「高階。お前には一人、実弟がいたな」
 唐突につきつけられた事実に、高階の警戒と不安のメーターが跳ね上がった。何故ここで芳隆のことが出てくる。
「それが……どうした」
「一人いれば、充分だとは思わないか?」
 何が、と問う暇などなかった。
 総合統括長の視線を受けて、隠していたものを久保が高階の眼前に放り投げた。
 三人の目の前に投げ落とされたそれが何か、真っ先に理解したのは九条だったのだろう。滅多に顔色を変えない彼が、激昂する。
「久保王司……!」
 咎め立てに、久保は喉を震わせて笑う。
「俺はただ命令に従っただけだぜ? 何も知らない俺に言うより、命令した当人に言った方がよくないかねえ、九条。言えれば――の、話だけど」
「あんた……!」
 背後の応酬を、高階は別次元のことのように聞いていた。
 耳に入るが、言葉が言語としての意味をなさず、素通りしていく。
 高階の目の前に投げ出されたもの、それは、引きちぎられた青い布にくるまれた、細長いモノだった。布はところどころ裂けて黒ずんでいるが、その青さに見覚えはないか。
 その青色は、いつも、従兄弟が、弟同然の少年が着ていた、あの。
 その布からはみ出たものは、まるで――枯れた人間の手のようには見えないか。
 気づいた瞬間、感情が爆発した。
 喉から出たのは、獣じみた悲鳴と、怨嗟の絶叫だった。
 自分でも意識しない内に、口は異端の力を呼ぶ言葉を唱えていた。
 平然と笑っている、この男を殺す。高階の頭の中にはそれしかなかった。晏が無事であるという希望などなかった。久保が脅しに腕だけ切り取ってきたとは考えられない。そう咄嗟に思考できるだけの付き合いを、積み重ねてきてしまった。
「高階さん! 高階さん……!」
 何故か前に進めない。そう意識してからようやく、背後から羽交い絞めにされ、九条が必死に自分を押さえ込んでいるのを知る。
「離せっ! 九条、離せ! こいつを殺す! 殺してやる!」
「だめです! 堪えて下さい! あなたには、もう一人弟がいるでしょう!」
 九条の吠え声に、血管が切れるかと思うほど握りしめていた拳が、はっ、と緩んだ。
 ――芳隆……。
 その名を呼んで、ついで、母の顔が思い浮かんだ。〈交錯する道〉ならば、やる。今は外国に住んでいる母をも探し出し、必要とあれば人質にとることなどためらいもしない。
 心臓の震えが全身に伝播して、高階は膝をつく。まともな平衡感覚を保っていられるわけがなかった。九条が遠慮がちに拘束をといて、完全に高階は床に座り込んだ。
 ――晏。晏。晏!
 口に出せない名前を、高階は心の中で狂ったように繰り返す。
 大事な弟だ。最も守らなければならない人間だ。それなのに……!
 復讐に巻き込んだのは自分だ。精神的に未熟だった自分が、敬愛した叔父と叔母の真相を晏に押し付けてしまった。もし二人が死んだ時、何も知らせなければ、晏はきっと――。
 熱が瞼に滲んだ時、嘲笑が頭上から降ってきた。
「聞くも涙、話すも涙だったぜ。手掴んだら自分で撃ってへし折るんだもんな。しかもその弾道でガスに引火させて俺巻き込もうとしやがった。危うく死ぬところだったよ」
 へらへらと笑っていた口角が、次の一言を発するために引き締まった。
「結局、お前が死なせたかなあ、高階」
 高階は意図しなかったが、まるで跪かせたかのような位置に久保が立っている。
 見下ろす久保の両眼には、冷え冷えとした余人を寄せ付けない光が暗く灯っていた。
「てめえ……っ!」
 噛み切るほどに唇を歯で押さえなければ、今にも知ったことを全部大声でばらしてしまいそうだった。
 久保の前身を知らない高階ではない。下積み時代に、本当に彼が家族のように慕っていた人間たちがいることを知っている。彼らの死は無駄だったと声高に突きつければ、さぞかし顔色が変わることだろう。
 だがそれは許されない。口外しないための、この腕だ。晏の死だ。
 苦しく荒い深呼吸を何度も繰り返し、高階は床に拳を叩きつけた。
 ささくれが皮膚を削り、血の細い帯が指を伝う。その痛みで、より一層体の震えは増した。
 それでも、この男に膝をつくわけにはいかない。
 まだ怒りと恐怖が収斂しない体を無理やり立ち上がらせ、弟を殺した男を視線だけで殺せそうなほど強く睨み据える。
 何か恨みを吐き捨ててやろうと思ったのに、何も言葉が出なかった。
 頭が真っ白になり、浮かんでくるのは年少の弟の顔ばかり。
「高階。……君は、休んだ方がよさそうだ。自室にさがった方がいい」
 総合統括長が、実質出て行けという命令を口にする。
 高階は、奥歯を必死で噛み締め、何も言わずに踵を返した。
「――久保、君もだ。任務ご苦労」
「いいえ。また何かございましたらお呼びください」
 殺気を向けられてなお、泰然と久保は笑っていた。
 高階を追って、久保は扉を出る。人払いのされている廊下は、ひとけがなく閑散としていた。
 高階は、地を這うような声で久保の名を呼ぶ。
「……久保、お前は、俺が殺す。絶対だ」
「へえ。そりゃ嬉しいねえ。できるもんならやってみな」
 手が出たのは反射だっただろう。
 高階は久保の胸ぐらを掴み、反対の手で固めた拳を振り上げ、殴りかかる寸前で実弟の顔がちらつき、一度息ごと止まった殴打の動きは、呼吸の再開と共に口惜しげにゆっくりと落ちた。
 射殺しそうな眼光のまま、高階は胸元を掴んだ手を突き飛ばすように離す。
 よろめいた久保は、両手で黒いコートの皺をはたいて直し、相変わらず哀れむように高みから笑うように、こちらを見ている。何も言わずに去るには悔しすぎ、高階は喉から声を絞り出した。
「とんだ道化だ、俺も、お前も」
 妥協ぎりぎりの言葉だった。
 どうして命令を受けたと責めれば、この男は命令だからと答えるだろう。高階が求めているのは、そんなものではなかった。
 真相を暴露してしまえば、弟たちの命はない。
 高階に言えた限界の台詞に、久保は予想外の反応を示した。
 いつも通りに狂的な笑みで軽くいなすと思っていたのに、すっと表情が冷えこんだ。蔑むように目を細め、憎悪に唇が歪む。
「道化――道化ねえ。そりゃ言い得て妙だわ、高階。は、ははっ」
 乾いた笑い。喉の奥で声をたてる鬼のような表情に、高階は見覚えがあった。
 時折、牧野がこんな顔をしていた。彼のことを聞いた高階には、今ならその理由が分かる気がする。
 これは、絶望を越えてしまった人間の行き着く顔だ。
 何故久保がこんな顔を――?
 降って湧いた疑問に、久保が答えるはずもない。ただ、絶対零度の声音を返すだけだった。恐ろしいほど真剣な顔で、狂気だけが目に光っている。
「まだだ、高階。まだ踊り足りねえよ。こんなもんじゃお前も足りねえだろ? ……堕ちてこい、早く。何もかも失って、その意味を知って、恨んで、憎んで、もっと壊れろ。お前はまだ、壊れられるはずだぜ」
 地獄のような表情と戦慄を残し、久保彩人は黒いコートをひるがえして去っていく。
 高階は、その背中を追うことができなかった。
 ――何もかも失って、その意味を知って。
 一体、久保は何を目的としている……?  
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