翡翠の騎士たち

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  19  

 スペンサー公爵家。
 三国併合以前の、クラナリアの建国当初から存在している貴族の一つで、王家の血を分け与えられた一族にのみ許される「公」を称している。
 肥沃な領地を持つ、上流階級でも指折りの大家だ。
 世事には疎いアーサーでも知っている。
 ただの貴族と同列に並べてはならない、王族すらも言動をはばかるような重鎮。
 そのスペンサー公爵の末弟。押しも押されもせぬ大貴族のはずだった。
 アーサーの身分ならば、一生目通りする事すら許されない。
「あの、男が……?」
 どう考えても、そうは見えない。
 そう考えれば納得はいく。
 アーサーは同時にそう思った。
 礼儀正しい作法、旅芸人の枠に留まらない教養。男の言葉を信じるならば、ダニエラやユーリーの敬虔な態度にも納得がいく。
 だが、礼儀正しく育った貴族の男に、あんな傭兵の真似事ができるとは思えない。
 旅芸人の一座で育ったという話も、父親の話も、真実味がありすぎる。
 どちらが本当なのか、アーサーは判断するのをやめた。
 この疑問に答えられるのは、クロノアだけだ。
 少なくともこの男より、クロノアの言葉の方を信じたい気持ちがある。
「……だとしたら、何だ」
「あの方は、君を欺いていたのだぞ。先程も聞いただろう。この国は」
「だからどうした。――お前の指図は受けない。何が嘘か、決めるのは俺だ」
 優男の外見からは似合わない気炎を吐くアーサーに、男は苦い笑いを浮かべた。
「……若いな。そうして人を信じていられるのは美徳だが。惜しいほどに、若い」
 ふっ、と男が手を振っただけに見えた。
 一瞬の判断が明暗を分けた。
 何か来ると直感したアーサーが、体を床に沈めた。
 落ちるようなその動きの上を、一陣の鋭い風が薙ぐ。
 次の瞬間、石の壁が砕けるありえない音が聞こえた。
 ぎょっとして転がりながら音の方向を見上げると、鎌で切りつけられたかのように頑強な石壁が抉れている。
 あんなものを食らったら、一発で胴体と首が切り離される。
 冗談ではない。
(呪文もなしにあんなものを……!)
 目の前の男は、アーサーよりはるかに格上だ。
 嫌でもそれを実感せざるを得ない。
 握りこんだ紙がじっとりと手汗に濡れる。
 そんなアーサーの葛藤を知ってか、男は笑う。
「今のは小手調べだ。次は本当に腕がその体から離れるぞ」
 その言葉でようやく、アーサーは今の攻撃が一撃必殺を狙ったものではなく、ただ自分の力を誇示するため、アーサーに苦痛を与えるためだけのものだと気づく。
 始めから、この男にはアーサーを殺す気などない。殺さなくとも障害にはならないという自負が見えた。
 軽く見られた屈辱よりも、その程度でこの威力か、と相手の力量に恐怖する気持ちの方が強く湧き上がる。
「――君は、優秀な魔法使いだ。それはあの門番を破った事を見ても分かる。だが致命的に、経験が足りない」
 アーサーには、他の魔法使いと戦った経験などない。
 対してこの男は、いかにも戦い慣れている。
 既に、結果は見えていた。
 まずい、とアーサーが思うよりも早く、ふ、と男の目線がアーサーから外れた。
 怪訝に思ったのも束の間、
「……そこまでだ、ハンフリー」
 一つしかない通路の出口を塞ぐかのように、剣を吊り下げたクロノアが立っていた。
 アーサーは息を呑み、ユーリーは閉じ込められた部屋の中から歓声に似た叫びを漏らす。
 だが、この場において一番動揺するはずの男だけは、揺るぎもしなかった。
 鈍く光る剣先を視野に入れながら、静かに問う。
「――ベイフォード卿を、倒しておいでになったのですか」
「馬鹿を言え。非公式で密入国とは言え、あれはマークドの竜騎士だ。『私』があの男の命を絶てば、それだけで戦争だ」
 アーサーは目を見開いた。
 そこにいるのは、今までのアーサーが知るクロノアではない。大家の末弟にふさわしい、貴族特有の口調で話す男だ。
 一人の騎士が、アーサーの目の前に立っていた。
 男は、ゆっくりと振り返り、クロノアに言った。何の気負いもなく、アーサーにその背中を見せて。
「そうでしょうね。気絶させておいでになりましたか」
「何でもいい。投降しろ、ハンフリー・ゴードン。親衛隊の一員を拘束、王の許可もなく武器の仲介をした罪は重い」
「お断りいたします。――ルーウィス卿、あなたはお分かりでない。王の命令など、私にはもはや効きません」
 それに、とゴードンは薄く笑う。
「王の勢力圏内ならばともかく、ここは王に弓引く者の集まる城。ここで私を殺し、返り血を浴びたまま逃走を計れるほど、この城の警備は甘くないでしょう」
 クロノアはそれに返答せず、ゴードンの首元に剣先を突きつけた。
 目線を一瞬たりとも離そうとはせず、アーサーに低く言った。
「アーサー。早くユーリーを」
 その声に、アーサーはようやく自分の成すべき事を思い出し、ぐらつく体をどうにか支えて鎖に手をかけた。
 しかし、ユーリーが切羽詰った声で叫び、一瞬その手が止まる。
「ルーウィス卿! 私には構わず、殿下にお知らせを!」
「ふざけるな、お前を救い出すために何故私自身が出てきたと思っている? 大人しく助けられていろ」
 静かだが、容赦のない声音だった。
 ユーリーが竦んだのが、顔が見えなくても分かった。
 アーサーはクロノアにもゴードンにも慄然としたものを感じながら、袋から紙を引っ張り出し、唱える。
「――月の光、大地の精霊、風の踊り子。歌え、笑え、紡げ、語れ。踊り狂って花を咲かせろ。我が名はアーサー・アーヴィング。魔法を行使し、司る者なり」
 血潮が滾るような感覚が、掌を焼く。
 指先に挟んだ紙が、僅かに熱を帯びた。
「歌うは第五の歌、行く手を塞ぐは落石、泥土に埋もれた羊の亡き骸、絶え間ない炎の埋葬を――」
 手に挟んでいた紙が、赤銅色に染まる。
 紙を鎖に貼り付けるように置いて、アーサーはほんの少し後ずさる。その瞬間、紙が燐光に包まれて、鎖が溶ける臭いが充満した。
 どろりと溶けた鉄が床を焦がし、一拍遅れて切れた鎖が重い音を立てて落下する。
「早く!」
 アーサーの促しに従って、ユーリーは扉を開いた。
 慎重に、床の溶けた鎖をまたいで出てくる。
 間近で見れば親衛隊の騎士らしく、均整のとれた体つきをしているが、アーサーよりも頭一つ分、身長が低い。さすがに武器は取り上げられたのか、今は丸腰だった。
 それを見越していたのか、クロノアが相変わらずゴードンを見据えたまま、懐から片手で短剣をユーリーに放り投げた。
「ユーリー、使え。ないよりましだ」
 クロノアが、懐から取り出した小さな短剣をユーリーに放り投げた。
 受け取り、ユーリーは小さいが鋭い剣を鞘から抜き放つ。油断のない目でゴードンにその切っ先を向ける。
「ハンフリー。二、三尋ねておきたい事がある」
「何でしょう? 男爵の企みについて疑問でも?」
「そんな事は大体検討がつく。詳細はユーリーにでも尋ねればいい。訊きたいのは別の事だ。――こんな事に加担した……いや、企てた理由は何だ?」
「……企てる? まるで私が謀反を男爵に唆したかのような言い方ですな」
「そうだろう? あの男爵は血統意識こそ強く、教養もあるが、間違っても単独では謀反など起こそうとはしないだろう。そういう野心の持ち合わせはない男に見える。――最初に話を持ちかけたのはベイフォード卿か、お前か、どちらだ」
「……両方の、利害の一致というやつですよ」
「答える気はなし、か」
 クロノアが太く息を吐き出し、小さく呟いた。
「戻っては、こられないのか」
「……ルーウィス卿」
「こんな形ではなく、『俺』の武力に屈する形ではなく、王宮に戻ってくる気はないのか」
 口調が変わった。自分を誇示する貴族調の言葉でありながら、クロノアらしい――どこか冷めた温かみの漂う、不思議な音で言う。
 怪訝な顔をしたのは、アーサーやユーリーだけではない。ゴードンもそこで初めて、表情を動かした。
「……今なら見逃していただけると?」
「お前なら、そのくらいの切り札は用意しているはずだろう。謀反を帳消しにするほどの何かを、持っているのではないのか」
 アーサーは目を見開く。
 そんなものを持っていれば、クロノアはゴードンを許すしかない。こんな事をしてまでオリムに潜入した以上、本意ではないはずなのに、今の言葉ではそうあって欲しいと願っているようだった。
 クロノアの目は、何かに耐えるような色を乗せていた。
 許すつもりはないと言いながら、謀反の張本人を目の前に、誘拐されたユーリーを目の前に、クロノアは交換条件を持ちかけている。
 絶対的有利な立場にいるわけではない、むしろ時間が経てば経つほどクロノアたちの立場はまずくなる。
 いつ警備の兵が騒ぎを嗅ぎつけてやって来ないとも限らない。
 そんな中、クロノアは本気でこの男と交渉するつもりのようだった。
 何故、とアーサーは思う。ゴードンも、静かに問いを発した。
「――何故、そうまでして私を助けたがります? あなたの部下だったからですか。同胞殺しはただの犯罪と、おっしゃったのはあなた自身のはずですが。その舌の根も乾かぬ内に、情に訴えてまで欲しい情報でもありますか?」
「……お前は仲間を殺した。おそらく、オリムに入った部下たちを葬ったのもお前だろう。それは到底、許される事ではない。俺も、お前を許す事はできない。お前も、そんな事は望んでいないだろう。次に俺と会う時は首を獲りあう覚悟で出て行ったのだろうからな。――だが、その覚悟を踏みにじってなお、俺はお前に賭けてみたい。このまま武器を使えば、静まり返っている水面に石を投げ入れるのと同じ事になる。――また、戦争を繰り返す気か? それを防ぐべき、俺たちの手で?」
 クロノアの言葉は苦い。表情は険しいが、瞳は憂いに沈んでいるように見える。
 紛れもない本心、に見える。
 分からない。
 アーサーは小さく、心の中で呟く。
(こいつが……分からない……)
 一体何故。どうして。敵に情けをかけるのか。
 それとも、助けられずにはいられないお人好しなのか。
 今まで見てきたクロノアの表情と、性格と、今目の前の言動が攪拌されて、色を滲ませる。
 ゴードンは沈黙していたが、ややあって、独り言のように呟いた。
「……仮に、叛乱を帳消しにされるだけの秘密を渡し、交換条件にこの罪を許されても。私は、このまま王宮に戻るつもりはありません」
「何が、原因だ」
「――あなたもお分かりのはずでしょう。この国にいながらにして、私たちは生きる事を許されない。日のあたる場所には出られない」
 僅かな悲哀と、憤りが見えた。
 クロノアは、眉一つ動かさない。
「……だから、叛乱を起こして諸侯に認めさせるのか。そうすれば、お前たちの権利が保証されるとでも?」
「こちらが有利に立てば、王侯貴族とて認めざるを得ないはずです。我々魔法使いが、大手を振って歩けるようになる。それが、私の夢です」
「――無理だ、ハンフリー。お前の言っている事はただの幻想で妄想だ。叛乱を起こし、王や諸侯を相手に優位に立ったから、魔法使いの存在を公に認めさせる? そんな事をすればどうなる、今まで王宮がひた隠しにしてきた闇の歴史を、何も知らない国民たちに流布するというのか? そうなれば一体どんな混乱を招くか、下手をすれば叛乱も王権もあったものではない、王国自体がひっくり返るぞ。それでは本末転倒もいいところだ」
 クロノアは、話に集中していた。
 ユーリーも、二人の会話に気を取られていた。
 だから、その時それに気づいたのはアーサーだけだった。
 ふ、と揺らいだ影が伸びた。
 それはクロノアの背後、振り上げた銀色が、月に光った。
「クロノア――!」
 咄嗟に警告を叫ぶ、その無防備に逸らされた意識に向かって、刃先が振り下ろされた。
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