翡翠の騎士たち

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  20  

 燐光が闇を裂いた。
 クロノアの首筋に向かって、真っ直ぐ剣が落ちる。
 アーサーの緊迫した叫びに、一拍遅れてクロノアが気づく。
 その切っ先が首の皮に触れる刹那、ゴードンに当てていた刃先を返して体を捻った。
 剣の面と面がぶつかり合う。
 クロノアは月光に照らされたその男を見て、思わず名を呼んだ。
「ベイフォード卿……!?」
「先程はどうも、ルーウィス卿。おかげで一張羅に染みができてしまった」
 ジャック・ラトレルはわざとらしい笑みを浮かべている。
 その笑みが張り付いた頬から首元は、インクで真っ黒に染まっていた。
 だが、その苛烈な色を乗せた瞳は無傷だ。紅く禍々しい光を放つそれを見つめるクロノアに、後方からさらなる攻撃が襲いかかる。
 先程アーサーに浴びせかけたのよりも鋭い、風の刃がクロノアの背を切り裂こうと飛来した。
 今度こそ斬られる。
 アーサーは間違いなくそう思った。
 止めなければ。反射的に考えるが、そんなことができるはずもない。
 あの男と自分では、格が違いすぎた。
 その瞬間、動いたのはユーリーでもアーサーでもなかった。
 クロノアだった。
 ラトレルとの拮抗を緩め、まるでその場で舞うように剣を振るった。
 大きく後ろへと薙いだ剣は、狭い通路の中で石壁に当たって音をたてる。たてた時には既に、鋭いかまいたちは跡形もなく消え失せていた。
「……な」
 思わず小さな声が漏れた。
 馬鹿な。今、一体クロノアは何をした。
 消失させた? あの凶刃の風を、あの一瞬で?
(何も……見えなかった?)
 魔法によって作り出されたものは、さらに強大な魔法によって止めるしかない。
 今目の前で行われた事は――それこそ、魔法としか思えない。だが、クロノアが魔法使いのはずがない。そうであれば、いくら何でも傍にいて気づかないはずがない――。
 思考が思考を許したのは瞬くよりも短い時間だった。
 言葉として頭の中に浮上する前に、状況は速度を増して現実にのしかかる。
 ゴードンは風が効かなかったと見るや、すぐさま手を動かした。
 だが、その手が振り切られる前に、ユーリーが短剣をゴードンに向けて突き出した。
 胸部を狙った一撃必殺のその技を、ゴードンはたたらを踏んで紙一重で交わす。
「く……!」
 ユーリーの一撃は、ゴードンの服を浅く裂いただけに留まった。
 それを視界の隅に捕らえ、クロノアは再びラトレルと対峙する。
 二度、三度、刃を交える音と切っ先が壁を掻く音が連続した。狭い廊下で振り回すには、長剣はこれ以上なく不利な武器だ。
 その中で仲間を傷つけず、自分も傷つけず、相手だけに傷を負わせる。そんなことは不可能に近い。
 ラトレルもクロノアも、渋面を作る。
 しかも、
「おい、こちらで音がしたぞ!」
 その遠くから響く声を聞いて、アーサーは背筋を粟立てた。
 見張りに、音を聞きつけられたらしい。
 ユーリーはまずい、という焦りの表情を浮かべた。クロノアは息を呑んだ。ゴードンは表情を動かさない。ラトレルは口角を上げた。そして、アーサーは、
「月の光、大地の精霊、風の踊り子。歌え、笑え、紡げ、語れ。踊り狂って花を咲かせろ。我が名はアーサー・アーヴィング。魔法を行使し、司る者なり!」
 吠えた。
 こんな所で、何も分からないまま死んでたまるか。
 最善の策は、逃げる事だ。
 できうる限りの早口で、詠唱する。
「歌うは第三の歌――」
 先を予測したゴードンが、止めようと動く。だが、ユーリーも素早く反応し、アーサーを背に庇ったまま、ゴードンの首や胸、腹を狙って斬りかかった。
「――廃墟の王宮、空白の玉座に居るは髑髏、哀れな骸に――」
 ラトレルが舌打ちして剣を振りかぶる。だが、クロノアがそれをさせない。
 何度目か、鋼同士がぶつかり合い火花が散った。
「断罪の聖水を!」
 最後の言葉が唱えられた瞬間、腐敗を意味する魔法が完成した。
 目も眩むような光が石壁のつなぎ目というつなぎ目を走り抜け、次いで鈍い震動が地を這う。
 しまった、とばかりにラトレルは即座に身を翻し、クロノアは舌打ち混じりに自分の剣を床に突き立てた。ゴードンも動こうとするが、ユーリーに狙われていた分、動きが遅く間に合わない。
「何事だ!?」
 不運にもその時に駆けつけてしまった衛兵たちの目の前で、床と壁が崩壊して底が抜けた。無数の砂埃と煙をたてて陥没する。
 不思議にもクロノアが剣を突き立てた場所だけは没せず、まるでクロノアを守るかのように壁から突き出したまま、不恰好ながらも足場を保っていた。
 沸き立った煙に咳き込む警備兵たちを差し置いて、クロノアはその剣を引き抜いて、自ら陥没したその場に飛び降りる。
「アーサー、ユーリー!」
 返ってきたのは呻き声が二つ、すぐ左側と足元の瓦礫の下から。
「……お前な、自分でやった術で自分が埋まってどうすんだ!」
 クロノアがかろうじて見えていた手を掴んで引きずり出すと、銀髪を埃まみれにしたアーサーが落下の痛みと埃に咳き込みながら姿を現した。どうやら落ちたのは男爵の衣服などをしまった衣装部屋だったらしく、おかげで打ち所が悪くて死ぬということは免れたようだ。
 衝撃で壊れた棚を踏み台に、クロノアは名前を呼ぶ。
「ユーリー、無事か!」
「……はっ、何とか」
 さすがにどこかを打ったか、痛みを堪えるような声である。
「脱出するぞ!」
 まだ強かに打ちつけた背が猛烈な痛みを訴えていたが、アーサーは喉に絡んだ咳と埃を吐き出しながら、頷く。
 やった本人であるアーサー自身、ここまで効くとは思っていなかった。
 互いの姿も満足に視認できないほどの土煙が立ち込める中、三人は窓から差し込んでくる月光を頼りに出口を目指す。
 幸いにも、衝撃で扉が開かなくなるということはなかった。
 石くれの中には一緒に落ちたゴードンが埋もれているはずだったが、それには構わずに扉をくぐる。
 上階にいる警備兵のあわてふためく声を尻目に、クロノアが先頭に立ち、あらかじめ頭に叩き込んでおいた城からの脱走経路を辿った。
 脇腹や背が、腕や足を動かす度に痛んだが、口にする暇もない。
 警備兵たちの呼び子を鳴らす鋭い音が、夜の帳を裂いて駆け抜ける。
 もうすぐ何十人もの衛兵が不審者をあぶり出しにやって来るはずだ。
 その前に、どうにかして城門を突破し、町へ降り、さらに町の門を抜けなければいけない。
「くそっ」
 クロノアが小さく、毒づく声が聞こえた。
 真夜中だけあって静かだったのが、呼び子に応えて一気に騒がしくなる。
 静けさと闇に埋没することはもはや不可能だった。
 できるだけ急いで使用人たちの通用口に向かう。息が切れ、ただですら間断なく痛みを訴えかけてくる脇腹が差し込むように痛んだ。
 ようやく到着したのは、いわば裏門とでも呼ぶべき場所だが、辿り着くとやはり見張りが立っていた。
 クロノアは迷う素振りすら見せずにその勢いのまま見張りたちの前に姿を現した。
 どの道、小細工を弄している時間はない。
「誰だ!」
 数人の見張りが、剣を携えたクロノアたちの姿を認めて色めき立つ。
 クロノアは無言で、真正面から彼らの中に飛び込んだ。
 あわてて、彼らが手にしていた槍を構えたときには遅かった。
 その槍ごと、見張りの手が宙に飛んだ。
「あああああああっ!」
 悲鳴が響き、夜空に噴水の如く赤い血飛沫が舞い上がった。
 空を円弧の形で切り、ぼたっ、と音を立ててアーサーの足元にそれは落ちた。
 斬られて間もない、切断面が見えている手首。槍の自重で地面に落ち転がったそれをまともに見てしまったアーサーは、せり上がってくる嘔吐感をこらえて咄嗟に口元を手の甲で塞いだ。
 腕ごと叩き斬られた衛兵の絶叫を背景に、しかしクロノアは一瞬たりともためらったりはしない。
 その衛兵が地面に崩れ落ちるより先に、一際大柄な男の顎目がけて剣の柄を振り上げた。
 鈍器で殴打したような鈍い音と共に、その大柄な兵が地に伏す。顎を砕いた力に、周囲が息を呑んだ。
「ユーリー!」
 クロノアの声に応えるように、地面に転がったその男の腰から、ユーリーが鞘ごと剣を引き抜く。
「どけえっ!」
 王宮の親衛隊に所属する戦士の吠え声に、斬りかかろうとしていた衛兵たちは、明らかに気勢を削がれた。
 傍目にも僅かにたじろいだのが見て取れた。
「邪魔だっ」
 今度はクロノアが、一番手近にいた兵に当て身を食らわせて叫ぶ。
 腹に直撃を受けたその見張りは、はるか後方に吹き飛んだ。
 休む間もなく、他の兵が大上段に剣を構えた。
 背に振り下ろされるその剣は、クロノアを捕らえることはない。ユーリーが、想像の範疇外の素早さで間合いを詰め、その男の膝を斬る。
 また、血が飛んだ。
 その濃厚な臭気に、アーサーは酔いそうになるのをどうにか堪える。
 神の威光で蓋をされた神院では長らく感じることのなかった、人間の本質的な臭いだった。十六年前の、あのときを否が応でも思い出す。
 首筋に熱いものが逆流する。
 ひたひたと胸の奥から這い登るようにして、嫌な酸味が口腔を刺激した。
「――……う」
 小さく呻いた瞬間、背後から歪んだ気配が立ち昇った。
 一番無防備で、一番気配が薄く、一番戦いに不慣れだったアーサーに向けて、何の容赦も慈悲もない一撃が襲う。
 振り返って見えたのは、先程クロノアに顎を砕かれ、口の端から血泡を吹きこぼしながらも、剣を振り上げている巨躯の男。
 気づいて、しまった、と頭が考えたときには遅い。
 回避の手段も攻撃の方法もできない、そんな距離に必殺の刃が迫る。
 誰かの絶叫が聞こえたような気がした。
 そして、ぐるりと世界が半回転した。
 ――ぱたっ、ぱたっ、ぱたっ、と血が地面に染みこむ音が間近で響いた。
 心臓が、凍りついたように動かない。
 アーサーは、目を見開いて、
「――よぉ。無事か」
 肩口を剣先に抉られて、信じられない量の血を流しているクロノアを見つめた。
 白い着衣があっという間に血を吸って、重い色に染まっていく。
 利き腕の根元をやられて、剣を取り落としもしない。しかし、肩口からあふれ出た血は腕を伝い、指先を伝い、剣を伝って地面に吸われている。
「お……前……っ」
 何かを言おうとしたが、声にならない。
 今までこみ上げていたものが一気に胃の腑へと叩き落される。
 月が空に高く、間近には血の気が失せたクロノアの顔がある。
 突き飛ばされた、と理解したのはその瞬間だった。
 ――庇われた。
 何故、と思うよりも早く、もう一度巨漢が刀を構えるのが目に入った。
 アーサーは直感でクロノアの腕を引き寄せる。
 直後、二人して無様に転んだが、間一髪で男の剣が地面に食い込むのが横倒しの視界に見えた。
 クロノアが動くより早く、闇を切って鋭い短剣が男の眉間に突き刺さった。
 投擲したユーリーは、顔を真っ青にして駆け寄ってきた。
「ヴァレッテ様!」
 今の男で見張りは最後のようだった。
 後は戦闘不能の怪我人ばかりが残っている。
 驚いたことにこの人数をたった一人の死者だけで済ませてしまったらしい。
 それを確認して、クロノアは立ち上がり、剣を収め――地面に片膝をついた。
「クロノア……!」
 何か声をかけなければ、何か言わなければ、そう思うのに何一つうまく言葉にならない。
 空転する思考に終止符を打ったのは、クロノアの声だった。
「……立てるか、アーサー」
 そう言われて、まだ自分が地面に転がっていたことにようやく気づく。
 あわてて立ち上がったアーサーに、クロノアは厳しい視線を背後に向けて言う。
「……まずいな」
 その先を追い、アーサーは絶句する。
 煌々と篝火が焚かれ、松明を手にした番兵たちが迫ってきているのが遠目に見えた。
 その数、およそ数十。
「ゆっくりしてる時間はねえな。走るぞ」
 そう言って顔を上げたときには、クロノアの表情は騎士のそれになっていた。
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