翡翠の騎士たち

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  22  

 アーサーが自分の思いに浸っていられたのは、ほんの僅かな時間だった。
 クロノアの切羽詰った声が、そんな暇はないと言外に示していた。
「――ユーリーは、ガノンとここに残れ。ダニエラ、顔は見せていないな?」
「はい、いつも通りフードを下ろしておりましたので」
「なら、宿屋の連中も顔ははっきり見ていないはずだ。ダニエラ――」
 クロノアは、ダニエラと視線を合わせ、一言一句を区切るように発音する。
「――敵は、ハンフリー・ゴードンだ。手を抜くなよ」
 その言葉を聞いて、ダニエラの表情が変わった。
 驚き、悲嘆し、そして、耐え忍ぶように目を伏せた後は、驚くほど清々しく面を上げる。
「了解いたしました」
 一つ、クロノアは頷く。ダニエラと眼差しが交錯し、二人だけにしか分からない何かを視線で交し合った。
「――本来ならユーリーの持つ情報を知りたいところだが、その暇はない。今回の目的は一つ。ベルナール男爵が謀反を起こしたと確実に国側に伝えることだ。手段は二つ。俺がスペンサー公爵領にまで辿り着き軍を動かすか、ユーリーがディートリヒ辺境伯の居城に駆け込んで知らせるか。あるいはその両方が一番望ましい」
 そこで一旦、クロノアは言葉を切った。
 叛乱ということになれば、大規模な軍隊を相手取る。対抗するには、この人数はあまりにも少ない。
「だが、この町は既に恐らく出入り口を封鎖されている。横は平原、前は太い川に遮られていて易々と渡れず、どこを取っても絶好の見晴らし。――だったら、身を隠す場所は後ろの山の中しかない」
 その言葉には、ガノンが顔色を変えた。
 真夜中の森に、怪我を負った状態で入っていくなど自殺行為だ。
 後ろには追っ手を背負い、前方には急峻な道と人を食らう獣。
 まず間違いなく、一番きつい行程になる。
「なりません、危険です。もし行かれるのならば、私もお供いたします」
「却下だ。もう既に危険は迫っている。――山へ向かうなら、俺の方が逃げ延びる可能性が高い。お前はユーリーの護衛をしろ」
 そこで、とクロノアは傷口から手を放し、顔を上げた。
「ダニエラと俺とアーサーで、町の隔壁を壊し直接山の方へ向かう。ダニエラと俺たちは別行動をとって、二手に分かれたように見せかける」
「……っ」
 アーサーが、組んだ腕を握る手に力をこめた。
「ユーリーとガノン、二人は夜明けを待って正式に門をくぐれ。顔を見せろと言われたら、適当に理由をつけて誤魔化せ。何が何でもディートリヒ辺境伯の元に辿り着け。もしも不可能な場合は、スペンサー公爵家だ。他の近隣領主がベルナール男爵に迎合していないとも限らない。絶対にその二家以外には助けを求めるな」
「……は」
「――了解いたしました」
 ガノンは無表情で、ユーリーはまだ苦悩の表情で、それでも頷く。
「俺たちの方は、できるだけ人目につきやすいように、派手に隔壁を壊して逃げる。――アーサー、できるな?」
「……ああ」
 先程の要領でいけば、三人がくぐれるだけの大きさの穴を、町を守る壁に空けるくらいは造作もない。
 アーサーは言葉少なに頷き、唇を真一文字に引き結んだ。




「釈然としない、という顔をしていますね」
 ダニエラがアーサーにそっと声をかけたのは、路地裏に出た直後のことだった。
  どの部分を壊せば最も逃げ延びられる確率が高いか、クロノアが視察に出ている。
 自分が、とダニエラが申し出たが、反論を受け付けず出て行ってしまった。
 暗く、月の光も遮られる裏の道、足元には虫や鼠が這い回る、そんな場所での会話だった。
「……あんたも、あいつの仲間なんだろう」
「クロノア様の、という意味でしょうか」
「……ああ」
 ダニエラは、嫣然と微笑んだ。ユーリーと衣装を変え、男装をしていてもその美しさに変わりはない。長い焦げ茶色の髪を裂いた布で括りつけている。腰にはユーリーが奪った、オリム城の衛兵の剣がある。柔らかい笑みに、その剣は見るからに不似合いで馴染んでいなかった。
 後ろ姿ならばともかく、真正面から覗き込まれては男装の女性だとすぐに分かってしまうだろうし、質素とは言え薄い布地で作られたその格好は、山歩きにはどう見ても不便だ。
 薄暗い山の中、こんな格好で放り出され、しかも追っ手をつけられる。
 そんな重苦など微塵も感じていないかのように、ダニエラは笑う。
「いいえ。私では、到底お仲間にはなれません。道具がいいところです」
「――それで、あんたは満足なのか」
 自然、声音が下がったアーサーに、しかしダニエラは頷く。
「はい。先程も申し上げましたが、私の命など、吹けば飛ぶような軽いもの。それを、あの方は拾い上げてくださいました。死ぬ程度でお返しできるならば、安いものです」
 眉根を寄せて振り返ったアーサーは、思ったよりも近くにあったダニエラの表情を覗き込む。
「何故だ? あいつも、国の人間だろう? 公爵家の――末弟だと」
 よりによって、国の中枢に近い人間で、神殿騎士団の一員。
 もう、きっとそれは間違いのない事実なのだろう。
 懐かしそうに語っていた父親のことや語り部のことを嘘だとは思いたくないが、本人に聞いてしまえばもう後戻りができなくなるような予感がしていた。
 信じてみたい、そう思うこと自体が、かつて神殿騎士団によって闇に屠られた皆へ仇をなすようで胸が苦しい。
 気持ちばかりが空回り、何一つうまくまとまらない。
 苦いものを乗せて言い淀んだアーサーだったが、ダニエラはあっさりと首肯を返した。
「ええ、あの方はスペンサー公爵弟でいらっしゃいます。ですが……」
 今度はダニエラの言葉が滞った。
 ややあって、伏せていた目を上げてアーサーを見る。
「アーサー。本当の黒幕というものは、どういうものかご存知ですか」
 ダニエラの言いたいことが掴めず、アーサーは眉をひそめた。
「本当の黒幕とは、決して表には姿を現さず、いつも影で糸を引いているものです。ゲームの駒を操ることはあっても、その駒には成りえない。勝負の展開に不要、邪魔だと分かれば容赦なく駒を盤上から引きずり下ろす、それが本当の黒幕です。――そういう人がいることを、あなたは知っていますか」
「……何が言いたい」
「この国にせよ、どの国にせよ、そういう者はいくらでも存在します。その者たちは、駒が泣こうと喚こうと、決して容赦はしません。そうでなければ、そこにいる権利はありません。ですが、あの方は――そうはなさいませんでした」
 ダニエラが何かを思い出したように、ほんの少し眉を動かし、口角を緩く持ち上げる。
「駒を操る立場にあるはずの人ですのに、あの方は絶対に自分も駒となり戦います。それは普通の人に見える戦いではありません。危険も増します。愚かなことだと笑うものがいることも知っています。しかし――私たちは、確かにそれに救われたのです」
 アーサーは、その顔を見下ろして、小さく呟く。
「……俺は、あんたのように、そんなにあいつを信じることはできない」
「そうでしょうね。私も昔はそうでした」
 その言葉を聞いて、アーサーはふと尋ねてみたくなった。
 ダニエラは、ここまで自己献身ができるようになるまで、どのような道のりを歩んできたのだろう。
「……あんたの昔を、訊いてもいいか」
 尋ねたアーサーに、ダニエラは笑う。
「構いませんが、面白くも何ともありませんよ」
 足元で小さい鼠が、物をねだるように鳴いた。
 それを見下ろして、ダニエラは語る。
「……昔から、私はこういう場所で生きてきました。一体何が原因だったのか、それすらも覚えていません。おそらくは戦災に巻き込まれたのでしょう。物心のついたときには、親もなく、保護者もなく、暗い路地裏で同じような境遇の者たちと生活していました。病に倒れて仲間が死ねばその装束を剥ぎ取って売り、体を売って幾許かのお金を得て飢えを凌ぎ、理不尽な暴力、寒さ暑さに命を奪われる、それが私たちの日常でした」
 安易に踏み出した足が、落とし穴にはまったような感覚だった。
 今さらやめろと言うこともできず、アーサーはただ沈黙する。
 ダニエラの物腰と言葉遣い、クロノアと接している、ただそれだけで、ダニエラもクロノアと同じような生活を甘受していたと決め付けていた自分がいた。
「……都市を乱す害悪として、町の衛兵たちに追われることもしばしばでした。そういう時は見つかりにくい山や林に身を潜めて……でも、それでは生活はしていけません。ですから、生きていくために――本当に何でもやりました。おかげさまで、今それが役に立っています」
 具体的に口にしないのは、憚られるような内容だからか、アーサーに気を遣ってか。
 気丈に微笑んでみせるダニエラに、また胸の奥が疼くのを感じる。
「そんな生き方から引き上げてくださったのは、クロノア様でした。神様は今でも信じられません。人が他人を心の底から信じるなど、夢物語なのかもしれません。ですが、どうせ騙されるなら、私は神に騙されるより、クロノア様に騙していただきたいのです」
 そう言わせる何かが、クロノアには確かにある。
 それはこの短い時間でアーサー自身が感じている。
 だが――。
「あいつは……一体、何なんだ」
 靄に覆われた胸中を占める一言を、アーサーは吐き出す。
 ダニエラは少しばかり意地悪い笑顔で、迷うアーサーに告げた。
「自分で訊いてみてはいかがです? ――それと、一つ忠告しておきますが」
 語調が変わったことに訝しげな表情を向けると、ダニエラは茶目っ気のある微笑で応えた。
「過去を尋ねる女は、想い女だけにした方がよろしいです。そうでなければ、この先勘違いされますよ?」
 薄く笑った目に釣り込まれて、アーサーもほんの少しだけ、小さく唇の端を緩める。
「……気をつけよう」
 しかし、そんな馴れ合いの空気も一瞬のことだった。
 ふわり、と足音も気配もさせず、クロノアが舞い戻った。
 巻いた布の上に赤黒い色が滲んでいるが、怪我を負っていることなど微塵も感じさせない動きである。
 闇の色を宿した目が、二人に注がれる。
「見つけた。行くぞ」
 短い言葉に、ダニエラが立ち上がる。
 その背中は、驚くほどに小さく、華奢だった。
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