翡翠の騎士たち

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  32  

 アーサーは慎重にぬかるんだ山道を歩いた。
 時折道を踏み外しそうになりながらも、狼の先導もあってどうにか先へ進む。
「町へ行きたい」
 あの洞穴から出てアーサーが言うと、狼はややためらうように尻尾を振っていたが、案内役をしてくれた。
 三足だというのに、あの狼は驚くほど器用に、速く移動できる。アーサーの方がもたついている時は、じっと立ち止まって追いつくまでその場で待った。
 飼い慣らされた動物ならともかく、野生の狼に人語が分かり、このように関係が築けるとは。
「俺が言うのも何だが、魔法使いとはおかしな生き物なのかもしれないな」
 だから普通の人間は怯え、遠ざけ、自らの目の前から消そうとする。
 狼という獰猛な動物と心を通わせる。こんな芸当が自分にできるとは夢にも思っていなかった。
 アーサーの独り言に、狼はこちらを向いて首を傾げてみせた。
「気にするな。緊張しているんだ。……これでもな」
 アーサーが今まで片付けてきたのは、大方が魔法を使って依頼主の敵対者を脅すような類の仕事だ。
 こんな国家の大事に至るようなことはなく、芝居をする必要もなかった。
 これからしようとしていることを考えると、じっとりと掌に汗が滲んでくる。
 見上げれば、太陽がかなり高い位置まで昇っている。
 早くしなければ、アーサーが事を起こす前にクロノアの方が見つかってしまいかねない。
 焦りを心中に押し殺しながらしばらく険しい道なき道を進む。
 草が生い茂り、少し平らな地面が多く見受けられるようになってきた時だった。
 先導していた狼が、急にぴたりと動きを止め、首を沈めた。低く唸り、全身の毛を逆立てている。
 どうしたのだろう、とアーサーが近づくと、ぎらりと光る目がこちらを見た。
 注意を促すように、前方に向かって首を振って見せる。前方というよりは、その下にある山道に対して警戒しているようだった。
 アーサーは腹這いになり、下草に身を隠してそっと下の様子を伺う。
「いたか?」
「いいや、見つからん」
 小さく交わす声が聞こえ、はっ、とアーサーは息を呑んだ。
 金属の鎧に身を包んだ騎士たちが数人、馬の背に乗り会話していた。こんな険しい山道でも、慣れている者は馬で乗ってこられるらしい。
 馬とは別に、従者と思しき数人が隊伍を組んでいた。彼らは手に槍、腰には刀を差し、中には弓を持っている者もいる。
 狼は今にも飛び出していきそうなぎらぎらと光る目で、彼らを睥睨していた。
 不穏な気配というものは、やはり野生の勘で分かるのかもしれない。
「どこかの洞穴にでも隠れているのではないか」
「我々も穴はかなりの数見回った。だが、この辺りは狼がたくさんいる。下手につつき回すのもな。――賊も、昨晩の内に食われているのではないか」
「食い散らかされた証拠でもあればいいのだが。死んだにしても確固たる証拠がなければ帰城してはならんとは、手厳しい」
「全くだ。それに、生きているなら生かしたまま連れてこいとは――賊ならばその場で斬って捨ててしまえばよいのに」
「男爵様の命令だ、しょうがあるまい。拷問にでもかけて聞き出すことがあるのかもしれん」
 死ぬよりひどい苦痛を与えられる――拷問。楽には死なせてもらえず、苦痛で精神を摩耗させて情報を引き出す方法。
 やはり相手方からその可能性を聞くとぞっとする。
(いや、別に殺されるか、拷問にかけられると決まったわけではない)
 ハンフリーというあの魔法使いも昨晩城で言っていた、君の身の安全は保証する、と。
 あれが絶対という訳ではないだろうが、謀反の中枢にいる人物の言葉だ。ある程度は信用しても大丈夫なはずだ。
「すまないが」
 アーサーは下の道にいる騎士たちに気付かれないよう、小さく狼に向かって話かけた。
「俺の腕を噛んでもらえるか?」
 これくらいやらないと信頼はしてもらえないだろう。
 狼は戸惑ったように唸りを潜めてアーサーを見上げる。
「噛んで、吠えてくれ。俺がお前に襲われたという状況が欲しい」
 狼は何がしたいのかよく分からない、というように騎士たちのいる道とアーサーを見比べる。
「噛んで吠えたら、お前は全力で逃げろ。あいつらに狩られてしまうからな」
 狼の頭に手を置き、アーサーは少しだけ微笑んだ。
「世話になった」
 これが別れの挨拶だと気付いたのだろう、狼は吠える代わりにべろりとアーサーの頬を舐めた。
 ざらついた舌の感覚と獣の濃い臭いがアーサーに近づき、離れる。
 それから、ぱくりと口を開けた。
 鋭い歯がずらりと並んでいる光景を見てさすがに後悔したが、今さら引けない。深呼吸してから左腕を差し出した。
 狼の姿がぶれた。そう思った次の瞬間、左腕に灼熱の痛みが走る。
 思わず出た叫び声は、決して芝居などではない。顔が激しく歪み、咄嗟に左腕を振り払いそうになる。
 意思の力を総動員して、動きそうな腕の動きを押しとどめた。それでも足りず、右手で左手首を掴み、必死に堪える。
 アーサーの声を聞きつけたのだろう、下の道が俄然騒がしくなった。
「今のは何だ!」
「行くぞ!」
 狼の口がアーサーから離れた。
 牙によって抉られた箇所から血が出て、服の袖を汚していく。想像以上の出血量だ。
 口元をアーサーの血に濡らしながら、狼は高く吠えた。
 森の中で聞けば身の危険を感じるその吠え声に、騎士たちも驚いたのだろう、一段と音を立ててやって来る。
 痛みに朦朧としながらも、アーサーは行け、と狼を見据えて口を動かす。
 せめて笑おうとしたが、痛みがそうさせてはくれなかった。
 声にはならない声を聞いてくれたのか、狼は最後に一声、激励のような吠え声を残して身を翻した。
 三本足の割には器用に体を運び、視界の端へと移動していく。
 間断なく押し寄せる腕の痛みが、世界を歪ませた。
「狼だ!」
「待て、あれは!」
 アーサーと狼に気付いたのだろう、駆けつけてきた騎士たちの声が聞こえる。
 一人が、うつ伏せているアーサーの背を掴み、乱暴に起き上がらせた。
 押さえつけていた左腕が緩み、圧迫状態から解き放たれた傷口が鼓動に痛む。
「うっ……!」
 思わず漏れた呻き声など聞いてはいないのだろう、アーサーの瞳を覗き込んでいた騎士は喜色を顔面に浮かべた。
「銀髪に蒼の瞳、間違いない。お前だろう、昨晩オリムの城に侵入したという賊は!」
「は……な、んのことか……分からない……な」
 切れ切れの答えを喉奥から絞り出す。
 兜の隙間から見える騎士の表情が、それと分かる程に歪んだ。怒りと苛立ちに煮えた目をした騎士は、感情を行動に乗せた。
「貴様、とぼける気か!」
 狼に噛まれ怪我を負った左腕を、訓練を受けた騎士の手が容赦なく捻る。
「――――――っ!」
 口から声にならない悲鳴が出て、苦痛が腕から首筋へと駆け上った。
「認めるか?」
 嘲笑うような声に、返答もできない。
 ぎりぎりと万力で絞めつけられているような痛みに顔を引きつらせながら、アーサーは何とか頷いた。
 騎士は締め上げていた力を緩め、体勢はそのままに訊いてきた。
 いつの間にかぐるりを歩兵だけでなく騎士にも囲まれている。ある者は馬上で、ある者は鞍を降りてアーサーを見下ろしていた。
「仲間がいたはずだ。どこへ行った」
「……知ら、ない」
 荒い息の中で言い返すと、騎士の手にまた力がこもった。こもり切る前に、アーサーは続きを吐き出す。
「本当に知らない、はぐれてしまった」
 アーサーを捕らえた男は高圧的に、冷ややかに言った。
「庇っているのではないだろうな」
「俺も騙されて仕事に誘われたんだ。――誰が庇うか」
 前半は本当なので、遠慮も良心の呵責もなく言えた。
 騎士たちは顔を見合わせている。
「どうする」
「とりあえずこの男を城へ連れて行くべきだろう」
「二手に別れよう。俺たちはこの男を城へ連れて行く。お前たち一隊はこの付近を捜索しろ。連れを庇っている可能性もある」
「うむ、了解した」
 騎士と歩兵の半分程度が、狼が去った方向とはやや角度のずれた進路を取った。
 狼がいるような場所に踏み込むのは危険だからだろう。彼らは魔法使いが狼と心を通わせられることを知らない。
 これで時間が稼げる。
 クロノアが鳥を飛ばせば、きっと彼には助けが来るはずだ。
 しかし、問題は自分の方だった。
 不意に、自分を捕らえていた腕の力がなくなった。弱まったのではなく、離されたのだ。
「小汚い賊めが」
 そんな罵り声が聞こえたかと思うと、後頭部から首筋にかけて衝撃が走った。
 吐き気と眩暈を同時に催したような強烈な不快感が押し寄せて、それきりアーサーの意識は途絶えた。




 クロノアは、洞穴の中で横たわっていた。
 日の光が当たる所からは見えないよう、かなり後方に下がっての休息だ。
 しかし、眠気は襲ってこない。
 体は疲労しているが、火傷の痛みと、無理やり塞いだ傷が疼いて眠るどころではなかった。
「あの馬鹿が」
 もう何度目になるか、クロノアは暴言を吐き出す。
 アーサーには自分に付き合って死ぬ義理はない、だから町の城壁でお前のわがままに付き合うためではないと言われ、納得したのに。
 あの時ガノンが来なければ、クロノアはこう言うつもりだった。
 ――もっとも、もし今一人になって、お前だけでも逃げられるならそうしろ。お前を巻き込んだのはこの俺だ。逃げるなら朝になって、俺たちが死んでから混乱に乗じて逃げろ。
「あの馬鹿が……!」
 内心の苛立ちを再び口にした時、クロノアの耳が異音を捕らえた。
 獣が駆けてくる足音だ。通常よりも足音の間隔が短い。
 あの三足の狼だ。
 そうと分かると、一旦取りかけた警戒体勢を解いて楽な姿勢になった。追っ手でなければ、さほど警戒する必要はない。
 ややあって、狼が入り口に顔を出す。
 何やら迷ったようにうろうろとその辺を歩き回った後、クロノアの元にやって来た。
「どうした?」
 狼にそう訊くのと、口元に赤いものがこびりついているのに気付くのは同時だった。
 思わず起き上がって、狼に手を伸ばす。
「お前!」
 叱られるのを恐れる子供のように、狼はその手から逃れた。
 その様子に、跳ね起きた勢いで傷が引きつって痛むのにも関わらず、クロノアは追求した。
「あいつを噛んだのか」
 狼は目が合うのを避けているような状態だ。
 狼に怒る気はない。だが、噛まれた本人の方にはさらに怒りが湧いてきた。
 そこまでしなければ竜騎士たちも信用しないだろうと考えたのは分かる。
「あの馬鹿――今度会ったらただじゃおかねえ」
 助けられておいて怒りが湧くというのも妙なものだが、事実クロノアは怒っていた。
 アーサーは魔法使いで人より特殊な力が使えるとはいえ、ただの神官だ。
 同年代の野良仕事に慣れている男たちと比較しても弱いだろう。騎士相手となればなおさらだ。
 あれほど死にたくないと駄々をこねておいて、土壇場になってそれを覆すとはどういうことだ。
 本人が目の前にいたら盛大に文句を言っているだろうが、今はできない。
 クロノアは全身を巡る怒りを堪えながら、じりじりと夜が来るのを待ち続けた。  
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