翡翠の騎士たち

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  41  

 その日の夜は、アーサーにとって今までで一番長い夜だった。
 子供の頃はひたすら夜が短かった。天に月が昇るのを見て、眠れない夜を過ごしたものだった。
 昔、心を穏やかにさせてくれていた月は、じりじりとアーサーに刻限を告げていた。どちらかに味方しなければならない。
 一つはある意味アーサーが鳥籠の中でずっと思い描いていた自由を現実にしてくれる。不当に虐げられることなく、不必要に誰かの足音に怯えることもない。その代わりに国に大混乱が起き、価値観が一変する。
 もう一つは、神院の仲間たちとも違う絆でつながった人間たちに味方すること。危険は大きく、見返りはないに等しい。こちらを選んだ場合は、ある種死に値する平穏を得ることができるだろう。本当に死んでしまうかもしれないのが難点だ。
 窓に切り取られた風景の中で、闇がうごめいた。
 夜行性なのか、未だ寝入っていない大きめの鳥が二羽、窓枠に止まってアーサーの顔色を窺うように小首を傾げる。
 ちちち、と軽く嘴から鳴き声を放つと、番なのだろうか、息のあった呼吸で空へと飛んでいく。
 あんな風に鳥になって飛んでいけたらもう何も考えなくて済むのにな、と現実離れした空想が頭を過ぎった。
 髪をくくっていた紐をほどくと、はらりと肩口まで銀色がこぼれた。
 この髪色と目の色さえなければ、アーサーは見世物小屋の下っ端をしていたかもしれない。出自を隠して、こき使われようとも、それに耐えるしかない日々。
(今と大して変わらない、か)
 美服で着飾りたいとは思わない。金糸銀糸で飾った布など、重くてアーサーには着られないだろう。名誉も欲しくはない。身を守るのに必要な以上の権力も財力も欲しくない。
 では、自分は何が欲しいだろうか。
 ――君が何を成したいか。
「そしてそれのためには何をすべきか……」
 口に出しても、空虚な揺らめきになって思いは宙に浮いた。
 クロノアに出会う前は、生き甲斐が欲しかったように思う。復讐であれ、何であれ構わなかった。あの時に復讐を持ちかけられていたら一も二もなく乗ったと竜騎士の前で思ったが、その考えは今でも変わらない。
 久しく使っていなかった自分の感情を揺り動かして起こし、自分の頭で考えて行動した。誰かを命がけで守ったことなど生まれて初めてだ。
 本音を言ってしまえば、アーサーはもう何もしたくはなかった。
 何もせず何も考えず寝台に横たわり、眠って、もう二度と目覚めない状況であればありがたかった。
 考えたくなかった。自分で選び取るというのがどれ程苦痛なのか、改めて思い知った。
 クロノアは選んだ。七歳で親を含めた頼れる大人たち、友人たちごと周囲を消され、十歳でその刀を振るった。
 ゴードンもそうだ。彼がいつ決心したのかは知らないが、不当に虐げられている仲間たちを救うと行動を起こした。
 彼らは、その責任を背負って戦っている。
 アーサーは、戦いたくなどなかった。所詮は数いる魔法使いの内の一人で、ついこの間まで何も知らない側にいて、上からの命令に唯々諾々と従っていた身だ。
 怖かった。自分の選択一つで、王国も隣の国も、大陸中を変えてしまうような重さは到底背負いきれるものではなかった。
 どれくらい、じっと一点を見続けて身動ぎもせずにいただろう。
 月が沈み始める頃になってようやく、アーサーは長く細い息を吐き出した。
 昔の自分が選択できなかった所に、今の自分はいる。逃げ出すしか選択肢がなかった八歳児ではない。
 のろのろと首を動かせば、早くも目覚めてきたのか、昨夜の鳥たちが窓に顔を覗かせている。しばらく見つめていると、二羽は部屋の中に入ってちょんとアーサーの膝や肩に止まった。
 名前も何というのか知らない、青い体毛の鳥たちの背をぼんやりと撫でてやる。
 喉をくるくると鳴らす様子を眺めるともなしに眺めて、アーサーは目を瞑った。
 ゴードンに教えられたことは面白かった。純粋に、学ぶことが楽しいということを思い出させられた。顔も知らない仲間たちにも教えてやりたい。
 遥か太古の時代、魔法使いなどという呼び名がなかった時代、神も人も混然一体であった時は、神と自然は同一であったという。地方に残る様々な儀式から読み取れるその痕跡を、彼らにも知らせてやりたい。
 蔑まれるばかりでなく、無闇に祭り上げられるばかりでなく、全てが自然に流れていた時があったのだと。自分たちはその代理人として、その場に人と共にいたのだと。前で偉そばるでもなく、後ろで縮こまるでもなく、共に。
 寝台に座った姿勢のまま膝を立て、額をつける。
 重苦しい瘴気を吐き出すアーサーに、鳥たちが怯えたようにぱたぱたと飛び去った。
「明晩……」
 既に夜は明けかけている。月が寝入って太陽がぐるりと地平を回れば、すぐさまその時間はやってくる。
 国軍と叛乱軍のどちらが間違っているかの自信も、どちらが正しいかの断定もできない。恐らくは両方とも正解で不正解だ。
 それらを止める第三の方法など、思いつく由もない。どちらかを選ばなければならない。
 クロノアをあの洞穴に置いてきた時は簡単だった。怖くはあったが、他者の選択で自分が左右される気楽さがあった。
 何度目とも知れないため息を吐いた時、くらりと体が傾いだ。さすがにずっと緊張状態では体が持たないのだろう。休めという命令を胸の奥から聞いて、アーサーは寝台に横たわる。
 少し目を瞑ったつもりが、思ったよりもずっと疲労が濃かったようで寝入ってしまった。
 アーサーは浅い夢を幾つも見た。どれもこれも短く、土のにおいがする夢ばかりだった。
 見るだけしか許されなかった村の祭りに参加した時の興奮、用水路を壊してしまった友人を庇った思い出、優秀な息子だと頭を撫でてくれた父の掌、寒い日に抱きしめてくれた母の温もり。
 あの忌まわしい村狩りの記憶などではなく、ただただ懐かしい日々がそこにはあった。
 いつ夢と現の境から目覚めたのかは分からない。
 ぼんやりと霞む思考の隅で、アーサーは父と母を呼んだ。
 もしやろうとしても叶わなかっただろうが、国家転覆すらできる力を彼らは持っていた。
 そして、その中の誰よりも力が強いと言われたアーサーが、ここにいる。
 ――憎くはなかったのだろうか。
 もう知りようがない答えを探して、アーサーは瞼を閉じる。
 他の村や町にも偏屈者の集まりと揶揄され、とんでもない力を持ってしまったと嘆き、それでもアーサーが覚えている父と母は、決して泣き濡れるだけの生活は送っていなかった。
 あの村の誰もが、外との交わりを諦めてはいた。自分たちが他の人間と比べて違う存在なのだと悟っていた。しかし、悲惨なだけの思い出ではない。
 畑を耕し種を蒔き、強い逆風が吹いてもじっと耐え、豊作の歌を高らかに歌い上げていた。
 何故、彼らはそこまで強くいられたのだろう。国家が全て仕組んだと知らなかったからだろうか。
(いや、違う)
 アーサーはゆっくりと目を開け、石造りの天井を見つめた。
「何を成したいか……」
 ゴードンの言葉が浸透していく。
 父や母、村人たちは皆、自分が何を成したいか知っていたのだ。きっと、守りたかったのだ。例えそれがいつ終わるとも知れない姿なき迫害であったとしても、それぞれが見つけた守りたいものを知っていたから耐えられたのだ。
 彼らは皆、何を成したいか知っていた。結果が無残に終わったとしても、過程とは別の話だ。
 素直に、アーサーは彼らが誇らしいと思った。
 華美でも誰かに褒め称えられるわけでもないが、確かに戦った魔法使いたちがいたことを噛み締めて、アーサーはもう一度だけきつく両目を閉じた。
 その眦から薄く涙がこぼれ、高く昇った日の光に反射する。滴がこめかみを伝って滑り落ち、銀色の髪を温かく濡らした。
 アーサーには、守れるものがあるだろうか。
 故郷と、離別と、神院と、旅の短い日々。
 胸に覆いかぶさった感傷が一つ、二つと滴の数を増やし、アーサーは目を開けた。
 霞がかった視界が晴れた時には、既に心は決まっていた。
「何を成すべきか」
 もう一度だけ呟いて、アーサーは寝台から身を起こした。




 ジャック・ラトレルは男爵に貸し与えられた別棟にある部屋の中で、義弟と酒を飲み交わしていた。
 専ら話し手はラトレルであり、コーネリアスは時々愛想よく相槌を打っている。
「何とも贅沢な酒だ。これだけのものを何のためらいもなく出せるとは、男爵殿は戦がどういうものかよく分かっていないご様子だな」
 繊細な硝子の酒盃を掲げ、ラトレルは皮肉の笑みを漏らす。
「まあ、おかげでこのような場所でも酒が飲めるのは感謝しよう」
「全くでございます、義兄上。戦場でこのような美酒が飲めるとは思いませんでした」
 ジャックが漏らした、ふ、と笑ったその音は必ずしもコーネリアスに同調するものではなかったが、義弟本人はそのことに気付かない。
 コーネリアスが調子よくさらに続けようとした時、部屋の扉を叩く音がした。
「どうした」
「ゴードンでございます。ベイフォード卿、少しお時間よろしいでしょうか」
 くぐもった声に、コーネリアスが眉をひそめる。構わずにラトレルは入室するように鷹揚に告げた。
 遠慮がちに入ってきたゴードンはまず二人に向かって一礼し、さらにコーネリアスに何か憚るような会釈をすると、何事かをラトレルに耳打ちした。
「分かった。行こう」
「義兄上?」
 即決したラトレルに、コーネリアスが怪訝な声を出す。
「少し出る。お前は好きにしろ」
 置き去りにされることに不服そうなコーネリアスのことをひとまず放っておき、ラトレルはゴードンと共にオリム城の主棟へ向かった。
 ずらりと騎士が居並ぶ城内では、迂闊なことは言えない。
 ラトレルは唇に笑みを浮かべたまま、無言でゴードンを引き連れて歩いた。
 向かった先は、主棟にある祭壇だった。この町に神院がない代わりに、城内に設けられた簡易の祈り場だ。
 ラトレルが入ると、いかにも神官という俗世離れした顔貌の青年がいた。
 アーサーは振り返り、二人の姿を見ると一礼する。
 無表情で内心を探らせない彼に、ラトレルは笑みをより一層薄くした。
「こんな所に呼び出して、一体何の用だ、神官殿」
「彼一人に話してもよかったのですが、どうせならば私の覚悟を聞いていただきたく」
 表情も声音も、ラトレルが揺さぶった時の彼ではない。迷いは一切消え、目の前に広がる現実を認識した、一人の男の顔をしていた。
「ほう?」
 この場の主導権はラトレルにあるが、本当に聞かせたいのはゴードンの方にだろう。
 ラトレルは、アーサーが立つ祭壇の横まで歩み寄る。
「彼から、これを自由に使えと渡されました」
 アーサーは言い、革で作られた小袋を石造りの祭壇の上に置く。中に入っていた小刀を出し、おもむろにラトレルの前に差し出すと、中が空っぽであることを示すように袋の口を大きく開け、逆さに振ってみせた。
「ベイフォード卿に預かっていただく方が、一番ご信頼いただけるかと」
 魔法使いは木や石に彫刻をほどこし、心を通わせて自分の手足として使う。
 当然、小刀を預けてしまえば彫刻もできず、外との連絡手段を断つことになる。
「お前はそれでいいのか? あの男は命がけでお前を守ろうとしたのだろう?」
 クロノアが城内で彼を庇い深手を負ったことは聞いている。
 相当負い目に思っているはずだが、アーサーは静かに首を振った。
「もちろん、そのことは彼に対する借りです。ですが、私を騙してここまで連れてきたことで相殺されていいと思っています。そもそも、私を連れてこなければ彼はあんな怪我はしなかった」
「まあ、道理だな」
 ラトレルは頷きつつも、アーサーを根底まで見透かすような冷たい視線を送る。
 仲間に入れて裏切られてはたまらない。
 一体どういう心づもりなのか、見通しておく必要がある。
「では何故、お前は我らに協力する? 何もできることはないと言ったのはお前の口だ」
「ええ。ですが、盾ぐらいにはなれるでしょう。ひょっとすれば、あの男の隙をつけるかもしれません」
 急に献身的になったアーサーに、ラトレルは不審な表情を隠しもしない。
「随分と心変わりしたものだな。ゴードンの教えはそこまでお前を変えたか?」
「ご冗談を、ベイフォード卿。私が教えたのは魔法の指導のみ、心構えまで指南した覚えはありません」
 控えめながら、ゴードンもその違和感を訴えてくる。
 疑惑の眼差しに見つめられながらも、アーサーはうろたえなかった。少しばかり遠くを見る表情で切り出す。
「私の母や父は、十六年前の忌まわしい日に、盗賊と神殿騎士団に殺されました。しかし、私の両親や村の人々を殺したのは、直接手にかけた彼らだけではありません。今ある魔法への体制そのものです。過去はどうしようもないですが、もしこれからの未来が変えられるというのなら……私は、選択肢が、欲しい」
 選びとることすらできなかった後悔を力に変えて、銀髪の神官は彫刻のような端整な顔に覚悟を決めた男の表情を滲ませる。
「必要ならばあの男を誘い出す餌にも、あなたたちの盾にもなりましょう。その結果、魔法使いが正当に評価されるというのなら」
 服の袖はたるんでおらず、どこにも物が隠せそうにない。襟首、下裾衣は体にぴったりとした大きさ、これでは伝令を遠くに飛ばすようなものはしまいこめない。
 少なくとも今自分に向けてこの短刀を向けてくることはなさそうだと確認すると、ラトレルは笑った。
「いいだろう。その覚悟、見せてもらおうか」
 掌を向けてラトレルが刀を受け取ると、もう戻れない岐路を振り返るように、アーサーはそっと目を伏せた。  
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