闇色遺聞

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  01  

 綾倉京輔あやくらきょうすけは、拳銃を胸元に突きつけられるという異常な状況下で、ある意味とても平凡な答えを耳にした。
「ごめんなさい、あなたとは付き合えないわ」
 梅雨明けの空が眩しく、早朝練習のかけ声がグラウンドからこの屋上まで響いてくる。フェンス越しには一階分背の低い、こちらと対になる校舎が見えていた。向かい側の屋上にある常設プールでは、水泳部の面々が最近急激に高くなった気温の中で練習に励んでいた。
 実にのどかで平和な学校生活の風景の中、京輔のいるここだけが異常な空気を発生させている。
 失恋。
 簡単に言えばそういうことだ。よくある話で、クラスメイトの女の子の一人を好きになり、告白し、返事をもらえるからということで屋上に来てみればこれ。
 そこだけ見れば清く正しい青春の一ページだが、どう考えても胸元に当たった硬質な感触がおかしい。
「あの、さあ」
 口を開けば、意中の相手であり、たった今交際をお断りされたクラスメイトの女子、相良裕貴さがらゆうきがこちらを見つめ返してくる。
 切れ長の目を彩る睫毛は長く、健康的な色の肌によく映えている。真っ直ぐに伸びた背中は美しく、見目形の良さだけでは出ない凛とした空気を放っていた。風が吹いて、肩まで伸びた彼女の髪を揺らしている。
 京輔でなくても可愛らしい、美しい、異性であれば彼女にしてみたいと思う人間が多数な容貌だ。
 しなやかな腕はバレーボールのような健全なスポーツをする時に使われたり、美しいラインを描く指先は本のページを繰るような作業に勤しんだりするべきであって、断じてごついフォルムの拳銃を握ったり引き金を引いたりするためではないはずだ。
 美少女に拳銃という組み合わせが、この平和な日本では徹底的に不似合いだった。
「これ、どういうこと」
「どういうもこういうも、返事よ」
「それは分かるんだけど、いや、本当はあんまり分かりたくないんだけど――これ、何?」
 京輔はたじろぎながらも、胸に突きつけられた黒光りする物体を見下ろす。
 玩具ではない固さ、ブレザーの制服越しにある圧迫感が、冷や汗を額から押し出す。丁度心臓の位置に当てられている拳銃の先をまじまじと見つめながら、京輔は何故こんなことになったのかと天を仰ぎたくなった。
 どう考えても告白の返事には物騒すぎる。
 実は彼女はマフィアの娘だったのでは、という妄想が駆け巡った。いや、日本ならマフィアよりもヤクザだろうか。
「裕貴ちゃん、黙ってられちゃ分かんねーんだけど……」
「気安く名前を呼ばないで」
 裕貴はぴしゃりと言葉を叩きつける。
 怒らせたか、とひやりとしつつ、京輔は降参のポーズを取った。まかり間違って発砲でもされては敵わない。
「じゃあ、相良。えーっと、これ、拳銃?」
「そうよ」
 美少女が、自分の目の前で銃を構えている。まるでドラマのワンシーンのように現実感がない。ふぁいおー、ふぁいおー、とここまで届く陸上部員たちの声だけがリアルさを主張してきて目眩を起こしそうだった。
 裕貴の持ち慣れた手つきや鋭い目、震えてもいない指先から、彼女がその凶器を扱って長いのだろうことはすぐ分かる。
 下手に逆らうのはまずい。
 理性的にそう判断しながらも、京輔は頭の片隅で、この心臓の高鳴りは緊張状態によるものか好きな女子を目の前にしてのものかと、ちらりと考えた。
 その程度の余裕は、かろうじて残っていた。
「何で拳銃?」
「あなたが吸血鬼だから」
 異常な空間に、非日常の単語が飛び出す。
 吸血鬼。
 拳銃を突きつけられた方がまだ現実的な、実にオカルティックな呼称だ。
 それは恐らく世界の中で最もポピュラーな怪物。ヴァンパイア、ドラキュラ、血吸い鬼、磯女、様々な呼び名はあれど意味するところは一つ。血を喰らい、人に仇なす化け物だ。
 京輔は表情筋を引きつらせた。見物人がいれば、電波な少女に驚き距離を置こうとしているように見えたかもしれない。
「い……っ、嫌だなぁ、相良。何言ってんの?」
 無理やり作った笑みが顔の表面を上滑りし、滑稽なピエロを作り出した。
 制定シャツに覆われた体から、どっと汗が吹き出す。
 心臓が先ほどより激しく鼓動するが、これは間違いなく緊張の方だ。銃で直接脅されるよりも遥かに怖い。
 ――いや、まさか、そんな。
 茶化すようにぱたぱたと手を動かし、京輔は頭上いっぱいに広がる快晴を指した。
「ほら、俺日光に当たっても溶けたりしないぜ?」
「元来、吸血鬼っていうのは日光を浴びて灰になるような種族じゃないらしいわね。中にはそういう吸血鬼もいるのかもしれないけど、少なくともあなたは違うわね」
「相良、冗談きついぜ」
「冗談で銃を向ける人がいる?」
 説得力がある。京輔は押し黙るしかなかった。冗談でも拳銃を振りかざす人間はいるだろうが、相良裕貴は間違ってもトリガーハッピーではない。
 冗談でないのなら、吸血鬼ではないと納得してもらうしかない。
「俺、牙なんてないよ」
「犬歯が少し尖ってるわね」
「い、今時、本当にそんな非科学的なこと信じてるわけ?」
 京輔はあわてて頬が痙攣する笑顔を引っ込めた。笑っていると歯列が見える。
 非科学的という文句に、裕貴は目を細めた。目が泳いでいたのは、何かためらっていたのだろうか。僅かな沈黙の間ですら、銃弾で心臓を貫かれそうな京輔には気が気でない。
「吸血鬼なんているわけないだろ? そんなの、マジで信じて――」
「うちの倉に、帳面があるの」
 京輔が常にない早口で喋り始めたのを、裕貴は強い口調で遮った。
「あなたのお祖父さんのことが書かれていたわ。この町に引っ越してきたの、お祖父さんの代からよね。随分長いわ」
 興信所で素性を調べられた人間の気持ちがよく分かる。自分から話したわけではないのに家族のことが知れているのは気持ちがいいものではない。
「倉? 帳面?」
 飼われたてのオウムのように、引っかかった言葉だけを単調に繰り返す。思考回路がパンクしてしまったようだ。
 混乱してまともな思考ができない京輔の耳に、裕貴の声が飛び込んでくる。
「私の家、代々この土地で陰陽師やってるのよ」
「お、陰陽師……?」
 京輔は目を見開いた。
 吉左右を占い、ファンタジーの世界では式神を飛ばして戦う。悪い妖怪を相手取り、幾度と無く映画や小説の題材になっている実在した職業。
 時代と共にその意味する言葉やものは変わったが、本質は変わらない。
 宇宙創成を科学で解き明かそうとする時代には、吸血鬼も陰陽師もひどく不似合いだ。
「嘘だろ」
 嘘と決めつけたのではない、むしろ信憑性が高いと思ったからこそ、口を突いて否定が出てきた。そうであって欲しい京輔の願望に、裕貴は不快そうに顔を歪める。
「私の家は陰陽師よ。血筋も高貴なものじゃないし、無位無官の身だから、歴史上言われる陰陽師とはその辺が違うけれど。わかりやすいように便宜上名乗ってるって感じね」
 本当の陰陽師とはどんなものか、京輔はよく知らない。ただ漫画に出てくるヒーロー的な立ち位置で、札を飛ばして邪悪なものをやっつけるくらいのイメージしかない。
 だから陰陽師という職業への衝撃よりも、突きつけられたままの拳銃の方が気になった。
「分かったから、これどけてくれない、かな」
 慎重に、機嫌を損ねないよう言ったつもりだったが、裕貴は柳眉を逆立てた。
「分かってない!」
「うわ!」
 語調が激しくなると共にぐいっと押し付けられた銃口に、思わずのけぞりそうになった。
 その銃と同じくらい硬く、甘さの欠片もない言葉が、裕貴の唇から紡がれる。
「もしあなたが吸血鬼じゃないなら、否定して。……十、九、八、七」
 突然始まったカウントダウンに、心臓が冷たい血を体に送り出した。
 数字がゼロになるまでに何も言わなければ、吸血鬼であると認めたも同然になる。
 ここで否定すれば、裕貴は再考してくれるだろうか。彼女は甘い嘘の方がいいだろうか。カウントダウンなど素知らぬ顔をして茶化せばいいか。
 しかし、そのどれも、自分が望むものではない。恐らく、彼女が望むものでもないだろう。
 美しいとすら思う真剣な瞳で、彼女は自分に真実を要求してきている。
「六、五、四」
 じりじり縮まる秒数に、焦りと打算が頭を駆け巡る。
 嘘でもいいから言ってしまえという自分と、嘘をついてどうなると叱咤する自分がせめぎ合う。そこに好きな人に嘘を言いたくはないという別の感情が入り込む。
 考える力を、着実に減る数が奪っていく。
「三」
 嘘か。
「二」
 真か。
「い――」
 裕貴は最後まで数えることができなかった。
「ごめんっ!」
 京輔の大声に、裕貴は目を見開く。
 京輔は一呼吸置いて、告げた。
「俺は……! 俺は、裕貴ちゃんの言う通り、吸血鬼だよ。――吸血鬼、なんだ」  
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