闇色遺聞
02
言ってしまった。やってしまった。
音が波になって自分の耳に届く前に、猛烈な後悔が京輔を襲う。
唇を噛み、どこの誰に向かってか分からない罵倒を心の中で吐いた。
例え裕貴にフラれることになったとしても、嘘はつきたくなかった。自分は、確かに人間の血をすすったことがある、吸血鬼なのだから。
認めてしまった今、自分は裕貴の中でどういう対象として映っているのだろうか。
裕貴は京輔の答えに、今までの勢いを失った小さな声を発した。
「そう、やっぱり。そうよね。そうよね。……とにかく、分かってもらいたいのはあなたとは付き合えないってこと。分かった?」
どこか拗ねているような、苛立っているような、そんな口調と顔だった。
彼女は一度重い息を吐くと、くろがねの矛先を京輔から逸らす。
その瞬間視線が空中で絡み合い、裕貴は痛みに耐えかねるように目を伏せた。
「……ごめんね」
「え?」
聞き取れない程の小さな、謝罪。
違和感を覚えて手を伸ばしかけた京輔だが、指先は空を切り、彼女は既に屋上から校内へと続く階段へ足を向けていた。
何故、彼女は謝ったのだろう。
銃を突きつけて怖がらせたことか。告白を断ったことか。吸血鬼だと無理やり自白させたことか。それとも、京輔には考えもつかない何かだろうか。
後ろ姿を目で追えば、裕貴は上着の下にホルスターをつけていたのか、手の中にあった重々しい銃は消えてなくなっていた。
吸血鬼と陰陽師。
相性が悪い。運がない。
確かに自分はそういうモノだし、彼女も法螺を吹いている訳ではないのだろう。陰陽師である以上、吸血鬼とは関わり合うだけでも禁忌なのかもしれない。
吸血鬼だろうと言われた時の背筋が凍る感覚が、京輔の足を縫い止めた。声をかけることもできない。
人の形をしていようとも、あくまで内実は血を吸う鬼。そういうことを、好意を持った人から言外に言われた気がした。
京輔のためらいとは裏腹に、裕貴はぴんと背筋を伸ばしたまま、黒髪がかかるその背中を扉の中に消した。
鉄の扉が重い軋みを残して閉じる。
途端、夢から覚めたように京輔の体が動き出した。視界から彼女が消えたことで、胸中に巣食っていた黒い靄が吹き飛んだ。ここで動かなければ、永久に相良裕貴という人間に近づく機会がなくなってしまう、そんな焦りがこみ上げた。
――だから何だ。
今までの迷いと、遠慮と、しがらみと、そんな様々なものが一緒くたになってどこかへ飛んでいった。
鬼だとかそれを退治する側だとか、そんなこと、関係あるか。吸血鬼だから、陰陽師だから、だから何だ!
そんな足かせが通用するのは明治のメロドラマまでだ。
屁理屈とも思える理屈付けを自分にして、京輔は足を動かした。
一歩踏み出せば、後は簡単だった。
できる限りの速度で、京輔は消えた裕貴の後を追う。錆の浮いたドアのノブを回し、中へ飛び込んだ。
幸いにも裕貴は踊り場にいるのが見えた。
「相良っ」
呼びかけると、思ったよりも大きく出た声がわんわんと階段に反響する。
びっくりしたようにこちらを見上げてくる可憐な少女に、階段を駆け下り、京輔はきっぱりと自分の気持ちを宣言する。
「それでも、俺は、君が好きだ!」
それまで裕貴の顔に浮かんでいた、京輔が追ってきた驚きと何をしに来たのかという疑念の態度が、すり替えマジックのように真っ赤に変わった。
告白されたことによる羞恥だけではない。黒く綺麗な瞳には、非難が多分に含まれている。
なんてことをした、という感情を読み取った京輔は、そこでようやく踊り場に辿りついた。
そこから見える、階段の下にいる顔見知りの男子クラスメイトの顔。突然の告白劇に、彼はぽかんと口を開けている。
あ、と間抜けた声が自分の喉から漏れ、裕貴がわなないた声を出す。
「あんた、馬鹿じゃないの……!」
先程まであなただったのがあんたに変わっている。
さすがにクラスメイトに見られるのは京輔も気恥ずかしいし、計算外だ。裕貴と同様狼狽してしまい、舌が勝手に動いて本心と冗談が混ぜこぜになった台詞を言う。
「いや、ほら、男は好きな女の子のためには何でもできる馬鹿っていうか……」
「違う、馬鹿! もういい!」
何が違うのかよく分からないが、彼女が非常に怒り心頭なことだけはよく分かった。
裕貴は生まれたての赤ん坊のように赤面しながら、未だ呆然としている男子クラスメイトを押しのけてどこかへ走り去っていってしまった。
脇へやられた男子生徒の方は口を開けたまま、脱兎の如き逃走を見せた裕貴と、手すりにもたれかかってうなだれた京輔を見比べている。
ややあって、面白半分というように声をかけてきた。
「綾倉……何してんの?」
「見れば分かるだろう? ――コクってフラれた」
鉄錆が浮く手すりに頭を預け、放っておけばキノコでも生えそうな湿気を漂わせる京輔に、クラスメイトは苦笑する。
「いや、そりゃ分かるって。何だよ、お前、相良がタイプなの?」
「タイプっていうか、好きなんだよ……。つーか村主、お前のタイミングが悪いっ! 何で屋上なんかに来るんだ、用ねーだろ!」
京輔は野次馬根性を発揮してきた村主という名の友人を睨み据えた。
村主とは隣席のクラスメイトで、宿題がピンチの時に見せ合うくらいには仲がいい。だが、好きな女性のタイプを教え合う程ではない。下の名前も弘樹だったか弘人だったか、よく覚えていない。元々人名を覚えるのが苦手なのもあるだろう。
笑いを堪えている村主を見る内にある可能性に思い至り、京輔ははっと頭を上げた。
つかつかと彼に詰め寄り、小声で脅す。
「お前、このこと他のクラスメイトに言うなよ! 絶対言うなよ! フリじゃねーぞこれは!」
「言わねえよ。フリって……そんな念押さなくてもお前とコントする気ないし、俺数学苦手だし」
今度は京輔が苦笑する番だった。彼には数学の宿題を見せることが多い。お得意様を失いたくないというのは、実に自然な考え方だ。
これで突然クラス中から笑いものにされる刑には処されずに済みそうだ。普通に比べて神経は太い方だとは思うが、好きこのんで後ろ指をさされたいはずもない。
京輔は息を吐いた。途中までは安堵のものが、後半はため息に変わる。
吸血鬼だと告白してしまったことの痛みと、やはりフラれたのだろうかというショックが心臓を裏側からつついてくる。
その様子に、村主は軽く首を傾げた。
「お前さあ、フることは多いんだから、逆もまたしかりだろーがよ。前もほら、B組の前田ちゃんだっけ?」
「お前、何でそんな俺の情報に詳しいの?」
「前田ちゃんが友達連中に愚痴ってたのをたまたま聞いた。『あの面食い、自分がイケメンだからってあたしをフった!』って。お前しばらくB組近づくのやめた方がいいかもな」
「あ、そう。女子って怖いねえ。ちゃんと綺麗に断ったつもりだったんだけどな」
「おい、イケメンは否定しろ」
「ごめんなさいねー、うちの遺伝子が美形なもんで」
京輔はすっとした長い目を細め、にやりと笑った。
嘘ではない。綾倉家は近所でも有名な美形一家で、どうやら京輔は顔を祖父の遺伝子から受け継いだらしい。そっくりだと、祖父の代から付き合いのある人によく言われる。実は吸血鬼の血を引く者は高確率で、人間でいうところの美形にあたる顔を持って生まれてくるのだが、それは村主に言わなくてもいいことだった。
しかし、公然と自分で美形であると言ってしまえるのは、村主が冗談を分かってくれる類の人間だからだ。真人間にこれを言うと、ナルシストと誤解されてしまう。京輔には鏡に視線を送って自分の全身を舐め回すような趣味はない。
村主も苦笑一つですませると、肩をすくめた。
「まあ、向こうも相当な美人だしな、フられるのも分かるわ」
「ああ、裕貴ちゃ――相良ね」
名前を呼ぶなと言われた際についた傷が、じくりと痛みを発する。本人はこの場にいないが、呼んでしまうのはためらわれた。
「相良って理想高いんだな。お前みたいなツラの持ち主でもだめか」
「男は外見じゃねえ! 中身だ!」
「もっともだが、お前に言われるとムカつくな」
一刀両断した村主は、そこで何故か遠い目になった。
「ていうかお前みたいなのでもコクってダメってことあるんだな。てっきり俺はその辺の女、片っ端から口説き落としては捨ててんのかと――」
「もう数学見せねーぞ」
「冗談だよ。そっか、綾倉でもダメか」
村主の言い方に引っかかりを感じて、京輔は片眉を上げた。
「何だよ、村主。まさか、お前も相良が好きとか言うんじゃ」
京輔はどちらかというと優男に分類されるが、村主は精悍な顔つきで、体も引き締まっている。面貌も整っているし、男らしい男として好く女の子も多いはずだ。さっきはイケメンとからかわれたが、逆に村主がそう呼ばれてもおかしくはない。
好みの問題になるが、彼のような男が裕貴のタイプだとしたら――。
こいつだったら障害もないし、と八つ当たりのように考えてしまった京輔は、意識するよりはるかに険悪な目付きで村主を見遣る。
「違う違う! 相良は確かに可愛いけど彼女にしたいとは思わねー! 何かお高くとまってそうなイメージあるし」
大仰に手をぶんぶん振り回し、村主は否定する。そんなに裕貴が嫌なのだろうか。それはそれで腹が立つ。
確かに裕貴は、高校生活が始まって一学期が経とうとしているのに、クラス内でもグループに入らず一人でいるし、カッコよさで有名な先輩に告白されたがにべもなく断ったという噂もある。
京輔も高校に入ってからの付き合いだから、好きだからといって裕貴のことをよく知っているわけではないし、お高くとまっているように見えるのも分かる。それでも、断られた今でも裕貴のことが好きだ。
そんな京輔の胸裡など知らず、村主は落ち込んだ様子で続けた。
「お前みたいなのでもダメなら、俺なんてダメだろうなってことだ。相手は相良じゃないけどな」
どうも本人は京輔の方が理想的なというか、女子受けすると思っているらしい。それは付き合う女子の好み次第なのだが、それよりも、京輔はわざわざ最後に付け足す怪しさに眉をひそめた。
「本当に相良じゃないだろうな?」
「疑うなら英語の宿題今後ナシな」
「はいはい、すいませんでした」
苦手科目が一致していない者同士が隣席というのは実にありがたいな、と京輔はぼんやり考えた。その互恵関係を失うのは惜しい。
「コクって玉砕してみれば? 俺みたいに」
完全に他人事のノリで話せば、村主が横目で睨んできた。高校一年生には見えない大人びた顔つきなので、尖った顔つきをされると怖い。
険のある目付きは、すぐにふいと逸らされた。
「……もう、した」
「は?」
「して、半分フラれた」
「半分? どういう意味だよ」
「お友達から始めましょう的な」
「おい、それは」
それは、女も男も禍根を残さないために使う必殺のお断り文句だ。まさか額面通り受け取ったんじゃないだろうな、と京輔は勘ぐる。
「分かってる、皆まで言うな」
掌をぐっと差し出して肩を落とす村主には、哀愁が張り付いていた。
そんな彼とあまり変わらない恋愛状況を思い出して、京輔も再びジメジメした気持ちになる。同じことを思ったのだろう村主が、ぼそりと言った。
「なあ、綾倉。男二人、こんなとこで何やってんだろうな」
「なあ」
「何だ、この傷心同盟」
「むしろ失恋同盟だろ」
京輔の一言に、村主がキッと反応した。半ばその視線は懇願だった。
「失恋はしてない! まだ挽回のチャンスはある」
「じゃあ俺だってある!」
「たった今、ものの見事にフラれてたくせに。認めろよ」
「武士の情けでさっきの台詞続き言わなかったものを。ここで言ってやろうか!」
「誰が武士だよ!」
不毛な言い争いに終止符を打ったのは、ガヤガヤと移動してきた生徒たちだった。
屋上へ続く階段の横は別棟への渡り廊下になっているから、そちらに用があるのだろう。上履きの色と学年章からして、同じ学年の生徒たちだ。中にはちらほら知っている顔もある。
「今日、何かあったっけ?」
「講堂だろ。英語担任が育児休暇とるから、代理で来る先生の紹介と、各クラスのホームルーム一緒にやるって言ってたぞ」
「あ」
「忘れてたな? ちなみに化学選択の奴はそのまま教室移動だけど、お前覚えているか」
「げっ」
京輔は周囲を見回した。時間は既にチャイムが鳴る数分前だ。皆が動き始めたのもそのせいだろう。今からでは講堂までの往復時間を考えると間に合わない。
「やべっ、村主、何か適当に言い訳頼む!」
「はー? 俺サボる気で屋上まで行こうとしてたのに」
「頼むよ、失恋同盟結んだ仲間だろ」
「それはお前が勝手に結んだんだろうが。何、腹痛とかでいいのか?」
「充分! サンキュー!」
「数学の宿題頼むぞー」
言われた時には既に踵を返している。後ろからついてきた声に、京輔は手だけをひらひら振って返事に代えた。
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