闇色遺聞

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  09  

「迷うならやめることが得策であろうよ」
 深いため息をついた途端、訳知り顔の声が下から飛んできて、古びた神社の鳥居に腰掛けていた鴉天狗はふん、と鼻を鳴らした。
 山が太陽の恩恵を受ける前で、神社に参詣者はいない。
 鴉天狗と声の主以外、その場には誰の気配もなかった。彼が普段連れて歩いている人間は、今はここにはいない。
 景秀は物憂げに、声がした方向も見ずに言う。
「貴様に言われんでも分かっている」
「ならば何故そなたはそのように鬱々とした顔で我が社に居座っておる? 悩みなどないのならば目的を果たして、気ままな暮らしに戻るが良かろうよ」
 からかうような、玲瓏たる声が鴉天狗の足の下から楽しげに弾む。
 ようやくそちらを見下ろせば、紅の小袖に唐織の高級な打掛を身に纏ったソレがいた。値の張るものだというのが一目で察せられる。着ているのは妙齢の女で、白粉の一つも叩いていないくせにひどく麗しい。笑みを浮かべた表情だけで周囲は花が咲いたように彩られ、色好みならずとも我先にと彼女の寵を競い合うだろう。
 陽光のない闇の中でも、鴉天狗は女の眉までくっきりと見える。しかし、景秀はその美麗さに何の感銘も受けない口調で言い返した。
「狐如きが着飾りおって賢しらに何を言う――長船」
 長船、と呼ばれた女はにやりと笑った。貴婦人のような穏やかさから、ずる賢い悪童のような微笑に変わる。
「鴉天狗如きが一体人の世で何をしやる? 人を化かすのは狐と狸で充分よ」
 稲荷を祀った神社に住む、齢百歳を超える妖狐ならではの台詞だった。
 元々稲荷というのは狐がいる場所ではなかった。神社の守役として置かれた石の狐を稲荷神そのものと誤解した人間たちが、狐を崇めたのがものの始まりと言われている。
 しかし、彼女は神でも稲荷の使いでもない。既に信仰を失った社を見つけ、これ幸いと居着いた妖怪である。
 景秀は昔馴染みのあやかしを見下ろし、彼女の格好に眉をひそめた。
「長船、貴様その格好は?」
「おやおや。狐が人の格好をするのはそんなにおかしいのかえ、鴉天狗の山伏よ」
「違う、その晴れ着は何だ? どこぞへ嫁入りにでも行くのか?」
 亀甲模様が刺繍された唐織は、人でも上流階級の者でなければ到底手に入れることはできないはずの逸品だ。妖怪の普段着などには間違ってもできないし、しようと思う妖怪自体そういないだろう。
 どこで盗んだか、はたまた借りたのか。それは景秀の知るところではないが、さぞかし元の持ち主は困っているはずだ。
 長船はこれまた入手困難な白檀の扇子を取り出して口元にあて、公家の姫のように笑んでみせる。
「嫁入り? ふふ、そのような奇特な男がおるかよ」
「ほう、自覚はしているのか」
 長船は途端にしかめっ面をしてそっぽを向いた。
「相変わらず女心をことごとく踏みにじる男よの。まあ良いわ。これは仲間の一人が川の神に嫁ぐ故、その嫁入りの手伝いにな」
「狐か」
「ただの狐ではない、稲荷狐じゃ。神としてその辺の人間どもからも祀られている」
「狐が川に嫁ぐか。世の中何が起こるか分からんものだな」
 それでも、その二人は神同士だ。同じ立場であれば色恋沙汰にも発展するのは、神だろうが人だろうが、妖怪だろうが変わらない。
「そういう訳だ。せっかく訪ねてきてくれたのに悪いが、そなたの相手をしている暇はないわな」
「別段訪ねてきたわけではないがな。たまたま通りかかっただけだ」
「通りすがっただけとな? 何ぞ悩み事がある度にここに顔を出す癖を忘れたわけではあるまいに」
 馴染みの狐にはお見通しなのだろう、景秀は言わずもがなのことを察してくれる感謝と胸中の悩みをない交ぜにした言葉を息に乗せた。
「人は、脆いな」
 思わずこぼれた小さな言葉に、長船と名を称する狐は目を瞬かせる。
 考えるような沈黙があって、訝しんだ声が聞こえてきた。
「人間に恋でもしておるのか?」
「そんな大層なものでは断じてない。ただ、死にかけていた小さなものを拾っただけのことだ。それがいつの間にか、俺の普段になっていた」
 雀だろうか、華やかで騒がしい声が後ろを通り過ぎて行くが、景秀は振り返りもしない。
「胸を一突きされるだけで終わる。人間は、脆い」
 自分に言い聞かせるように、景秀は呟いた。
 ひとは、もろい。
「だが、それ故に人は強かろう? 我らは往々にして強いがその分弱い」
 長船は言う。
 常人が及びもつかない長命で移り変わりを眺めてきた者特有の、冷めた表情が張り付いていた。
「もう一度言おう。そなたが何に悩んでいるかなど、私には知らぬこと。だが、迷うのならば最初からやめておくことだ。そなたが迷ってした挙句成功したことなど、里を出たことくらいであろうよ」
 ばさり、と風を打つ音が長船の頭上で起こった。
 長船はそちらを見ない。
 ふわりと落ちてきたのは黒い一枚の羽根と、小さな言葉だけだった。
 ――貴様には敵わぬ。
 長船は絹でできた着物でももらったかのように微笑むと、上機嫌で踵を返した。
 さっさと支度をしなければ、神の婚儀に遅れてしまう。


 景秀は天狗の姿で羽根を広げて空を飛び、寝屋にしている野小屋へと舞い戻った。風を切って飛びながらも、ふわりと音もなく着地する。
 どこへ行っていた、と連れに怒りながら尋ねられるかと思ったが、彼女は景秀が出たときから変わらず眠りに埋没していて、しばらく起きてくる気配もない。
 その安らかな寝顔を見て、景秀は思う。
 ――ノラは美しい。
 一歩人間から隔たった者としての感想だった。懸想や贔屓の結果などではなく、ただふと思う。外見よりも何よりも、内包する活力の瑞々しさが年頃の女性をなお美しく見せていた。女になった横顔は、このまま何事もなくこの美しい人間と旅をしていていいのだろうかと鴉天狗に問いかけているようでもあった。
 美貌だけではない、ノラの才気があればどこでもうまくやっていけるだろう。折しもこの世は戦国、波に乗じれば彼女は大成する。
 それは妖怪に似つかない仏心というものだったのかもしれない。愛着の湧いたものに対して、何かしてやろうという親心めいたものだったのかもしれない。
 景秀は人間ではないから、その感情に名はつけない。
 景秀が生まれた鴉天狗の里は、山深い場所にある。山の深くといってもただの人間には辿り着けない秘境、あの世とこの世の境目、大いなる闇の中に妖怪の巣はあった。
 人が及ばない世界、この世ならざる者でありながら間違いなくこの世の一部であった場所。
 胸を一突きされたくらいでは誰も死なない、強い者たちばかりだった。
 女の鴉天狗もいれば、男の鴉天狗もいた。老いも若きも様々あって、同胞と呼べる者たちであったのだろうと思う。
 しかし、景秀はそこを出た。
 息苦しかった。何も変わらず、永遠を無為に貪るような鳥の巣は、景秀の性に合わなかった。そこには変化というものがなかった。ただ無意味に生きて、老いて、死ぬ。たまにある人間を巻き込んだ騒ぎも、景秀の楽しみなどにはならなかった。巣を支配していたのは鴉天狗ではなく、苛立ちを伴う退屈だった。
 里を出て人の世を流離い、あやかしにも人間にも色々関わった。長船も、ノラもその内の一人だ。しかし、両者には決定的な違いがある。
 長船はあやかしで、ノラは人間だ。
 無論いつかは長船も、景秀も死ぬ。それはノラより先かもしれない。それでも、妖怪であることからしても、景秀たちが死ぬのは随分後回しになるような気がした。
 予感は間違っていないだろうと思う。
 景秀はもう一度、横たわる旅の連れを見た。
 死にかけていた骨と皮ばかりの童は、美しい女になってしまった。
 いつまでも子供でいて自分に縋って欲しかったわけではない。今ですら我儘にはいつも振り回されっぱなしだ。
 景秀を苦しめているのは、ノラの変化だった。
 里を出たのは漠然と流れる永遠に嫌気がさしたからで、刺激が欲しかったからだ。有体に言えば景秀は若かった。若さの角が取れるまで、人の世に出て色々な刺激を受けたはずだった。それにすらもう慣れてきたと思っていた。
 だが、苦しい。置いて行かれるような気がした。
 かつては、里の外の世界に。今は、ノラに。
 美しいと言える今はいい。だが、花は咲けば必ず散る。遠くない内に、この成長は老いに変わるはずだった。
 鴉天狗のようにゆるゆると何百年もかけたものではなく、たかだか数十年の間の急激な老い。
 老いて醜くなるノラが嫌なのではない。老いが変えるのは景秀ではなく、ノラの心情だ。
 景秀は目が霞み足の萎えたノラを床に伏せ、看取るのだろうか。その時に耳元で、「何故人の世に返してくれなかった」と言われるのだろうか。それが何よりも景秀の胸を突いた。
 何故人はたった五十年と少しが精々なのだろう。
 弱い。ひどく脆い。
 その体の弱さが、老いれば変わってしまう心が、景秀には、怖い。
 ――迷うのならば初めからやめておくことよな。そなたが迷ってした挙句成功したことなど、里を出たことくらいであろうよ。
 長船の言葉が、頭の中で反響する。
 その通りだと景秀は自嘲気味に笑う。いつも迷ってうまくいかない。後悔先に立たずとは良く言ったものだ。
 低い自嘲の笑声が聞こえたか、はたまた気配を察したのか。ノラがもそりと頭をもたげる。半開きの寝ぼけ眼に思わず苦笑がもれた。
 どれほどじっと考えこんでいたのやら、もうすぐ日が昇る時刻になっていた。
「起きたか」
「……朝か?」
「もうそろそろだろう」
「ん、そうか。それではもう少し眠ろう」
 何がそれではなのか、と再び微苦笑が浮かぶ。
 目を閉じたノラを起こそうと口を開きかけた景秀は、おもむろに表情を消した。
 ノラも今しがた閉じたばかりの目をぱちりと開ける。
 物音を立てないようにそろりと身を起こし、景秀に目配せした。
 頷き、錫杖を握る。
 ぞっとする程の静寂が数瞬過ぎ、不意に緊迫した空気が弾けた。
 先に動いたのは景秀だった。人間の目に追えぬ速さでノラの腰を引き寄せ、一足で土間へ降りると木戸を足蹴にする。外へ倒れた戸の下で、山伏の風体をした男がもがいていた。
 彼が手にしていた槍には構わず屋根へ跳び上がる。
「屋根へ上がったぞっ」
 かけ声と共に矢をつがえる音がして、景秀はノラから手を離し、錫杖を一閃した。真一文字に横へ振り抜き、空気を裂く。
 鳴環が涼やかな音を立てるのと、大地が鳴動するのは同時だった。
 地面がぐにゃぐにゃと曲がったような感覚に襲われた襲撃者たちは、とても立つことを許されず地面に這いつくばる。
 彼らが驚愕するよりも早く、鴉天狗はさらに容赦ない一撃を加えた。
 空から突如として鋭い石の礫があられのように降り注ぐ。
 何人いたのか、悲鳴を上げて逃げ惑う者たちの多くは山伏の風体をしていた。恐らくこれがこの間関所で聞いた間諜共だろう。
 人違いというか、妖怪違いもいいところだ。大方他の武将の密命を受けて探っている者と思って商売敵を消しに来たのだろうが、突き止めるだけ損だ。
「おい、もういいだろう」
 ノラの諫言が耳に届き、景秀は揺り動かしていた錫杖をぴたりと止めた。
 暗闇だろうと、景秀にはその表情が見える。ノラの顔は餓鬼大将のやんちゃに呆れる村娘のようだった。
 恐れが微塵もないのが、逆に景秀を逆撫でした。
 これだから、いけない。この娘は結局のところ自分があるいは景秀の気まぐれで簡単に弑されるような存在だと理解できていないのだ。この力は決して自分に向かないと思っている。
 そう考えると腹が立った。鴉天狗とはどういう存在か、小手先の術など使って慣れ合いの旅など続けているから忘れてしまったのだ。
 ならば思い出させなければいけない。人と妖怪が、どれほど隔たった存在か。
 突き放されるのが怖いから自分から離れるのだとは気づいていた。それでも、血が昇った景秀の頭は体にそうしろと命ずる。
 す、と景秀は錫杖を捧げ持ち、屋根に石突を突き立てた。
 一際大きく鋭い礫が、逃散しようとしていた山伏たちに突き刺さり、貫いた。声もなく絶命した者もいれば、急所を外れて痛みに喚く者もいた。一瞬でそこは人にとっての地獄に変貌した。
 立ち込める血臭に、やってしまったと景秀は唇を噛み締める。
 もう後戻りはできない。
 覚悟を決めて振り向くと、ノラはぽかんと口を開けていた。この十年見たことがない、彼女の呆けた顔だった。
 次いで見る見る内に顔を真っ赤にして怒気を目に燃やすと、景秀の背中を思い切り掌で叩いた。加減などない、正真正銘の平手打ちだった。
 大きく息を吸い込み、何を言われるかと身構えた景秀は、やはりノラに意表を突かれた。
「この馬鹿っ! ――始末が面倒だろう!」
 おい、泣くな。
 ノラは怒っているのに思わずそんな言葉が出てきそうな程、彼女の手が震えていた。卒塔婆に蹲っていたあの時でも見せたことのない、置いて行かれる童のような顔だった。
 くるりと景秀に背を向けて、ノラは屋根を身軽に飛び降りた。護身用にと景秀が持たせている小刀を懐から取り出し、死に損ねた山伏たちに次々ととどめを刺していく。
 全員が息絶えたのを確認すると、下草で血を拭って鞘に収める。
 その様子を屋根からぼんやりと見ていた景秀に、ノラは下から文句を言った。
「手伝ってくれ、景秀。このままだと血の臭いを嗅ぎつけて獣が出るぞ」
 たった今の激情が嘘のような、我儘で機転のきく少女の声音。
 自分は果たして妖怪として受け入れられたのだろうかと感じながら、景秀は屋根を飛び降りた。
 妖怪と人間の垣根を壊してしまった以上、もう長くはいられない。あと幾日共にいられるだろうと、鴉天狗は胸裡の内で暦を読んだ。
 
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