闇色遺聞

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  14  

「それはあの狐からもらったものだろう」
 村主が合流して以来一度も口を開かなかった恵が、喋った。
 音が彼女の喉から出る度に、暗く重いものが辺りを押し包んでいく。
 京輔は桐箱を包んでいる鞄ごと体に引き寄せた。預かったものだ。渡すわけにはいかない。
「長船は、私たちを裏切った。だから許さない」
「長船の姉さんが? どういうことだ」
 京輔は眉をひそめた。裏切りという単語は、京輔の知っている長船に似合わない。
「あいつは狐だ。それなのに、人間に肩入れする」
 恵に代わって、村主が発言した。
 京輔の表情が何とも言えず苦いものに染められ、裕貴が呆れたような息を吐く。
「それって逆恨みと言わないかしら?」
「黙れ、人間。私たちから棲家を奪い、力を奪い、心まで奪う。そんな種族を許しておけると思うのか」
 恵の声が、場を圧倒する。声を荒げることもなく、直接触れられてもいないのに、心臓が早鐘のように打ち、冷や汗の量が増す。
 裕貴も恐怖を感じているのかは分からないが、鋭く揺るがない瞳のまま、こちらを見てきた。
 私の敵になるかどうかと、目が詰問している。
 京輔は苦笑して立ち上がった。そんなもの、考えるまでもない。
「今時古いなぁ、石本。お前何歳だよ?」
「綾倉くん、あれ本人じゃないわよ」
「え? どういうこと?」
 合点がいかず首を傾げる京輔に、裕貴は銃口を向けて油断ない目付きのまま続ける。
「本人なら、人間が重きを置く『勉強』なんかやると思う?」
「ああ……なるほど」
「あと、あの気配はどう見ても人間じゃない。あそこまで濃い気配があったら、さすがに私も気づいてるわよ。あれは、狐憑きだわ。多分学校では石本さんから離れてるんでしょうね。私が気づくから」
「狐憑き!」
 話にはよく聞くが、初めて目にする。雰囲気が別人だと感じたのも石本ではなく狐だからと考えれば納得がいった。化け鼠殺しの現場に狐の臭いが残っていたというのも辻褄が合う。
「ん? 待て待て。だったら村主、お前は何でそっちサイドなんだよ」
 人間を憎む狐に恵が憑かれたとしたら、村主は何故狐から恵を引き離そうとしないのだろう。この様子なら恵が恵ではないと知っていそうなものだが。
 京輔の疑問は、本人が事もなげに答えたおかげで氷解した。
「ああ、俺吸血鬼だから」
「な……! ってことは、鼠の血ぃ吸ってた犯人はお前か――っ!」
 京輔は指を突きつけて叫ぶ。
 それならば色々と納得がいく。
 桐箱はやはり落とした時に見られていて、元々探していた恵こと狐に情報がいったのだろうし、ついさっき商店街で声をかけてきたのも京輔の油断を誘うためだったのだろう。吸血鬼の血を引くものは高確率で美麗な者が多い――という条件にも当てはまる。村主の場合、美麗というよりは精悍といった方がいいかもしれないが。
 指先は今まで騙されていた怒りと、気づかなかった自分への不甲斐なさと、同族であったことの衝撃に細かく震えていた。
「ふざけんな! お前のせいで俺は裕貴ちゃんからあらぬ誤解を受けたんだぞ! 鼠なんか食ってもうまくねえだろ!」
「そりゃまずいけどよ。しょうがねーじゃん。惚れた女の子が殺してほしいっていうんだから」
 さらっと放たれた言葉の毒気に、京輔は勢いよく付き出したくちばしを引っ込めた。
 むすっとした表情で、納得がいかない質問をする。
「お前が鼠を殺した理由、そんなもんかよ?」
「お前だって似たようなもんだろが。好きな子に協力して欲しいって言われて、自分がやれる範囲のことをやっただけだ」
「好きなら何で助けてやんねーんだよ。石本は狐に憑かれてんだぞ」
「彼女本人が望んでるからよ」
 裕貴が代わりにきっぱりと答える。
「さっき言ってたでしょう。『私はこんなこともできる』と。本人の意思があって狐を呼び寄せたのは確かだと思うわよ」
 下らない、とでも言うように裕貴が鼻を鳴らす。
「別にあなたが勉学にコンプレックスがあろうが、オカルトに手を染めようが構わないけどね。素人が迂闊に深淵に手を伸ばすのはオススメしないわ。こういうことになるから」
「いつも、それね。ガリ勉って皆にからかわれてまで、遊ぶ時間も寝る時間も削って、必死で、必死で、追いつこうとしてるのに。誰かが絶対邪魔するの。一番になれない。だから私だけでいられる場所が欲しかっただけよ」
 急に恵の声から圧力の波動が消え失せた。
 代わりに、薄暗い呪詛の呟きが、不健康そうなその唇から滴り落ちる。
「それなのに、あなたは、頑張っても私の上にいる。勉強でも、こっちでも。――ずるいわ」
 厚い眼鏡の奥、じっとりと見上げてくる様は、駄々っ子が地団駄を踏むようにも、泣くことでしか表現できない赤ん坊が泣けないことを恨むようにも見えた。
「説得の甲斐なし、ね」
 ふぅ、と疲れたように肩を落とし、眼光を鋭くする裕貴。
 村主はそんなクラスメイトを見て笑みをこぼした。
「相良ってさ、銃なんかで吸血鬼殺せると思ってるんだ?」
 裕貴を見つめる村主の眼差しに、余裕を感じ取った京輔の首筋がひりつく。
 まずい。
 あの形容しがたい黒い気配が、恵に再び凝固しつつある。陰陽師と分かった上で出てくるくらいだ、村主も対策は講じているだろうし、恵に憑いている狐の力は未知数。まともにやり合うのは分が悪い。
「綾倉くん。あなた、どっちにつくの?」
 裕貴が開戦の合図代わりにそう尋ねる。
 京輔はふっ、と短く息を吐き、自分に気合いを入れた。
 返答など、考えるまでもない。
「おい、お前ら。そんなに欲しけりゃ、これはくれてやるよ」
 ショルダーバッグのジッパーを少し開いて、中に入った四角い箱を取り出す。
「受け取れっ!」
 吠えて、できる限り上へ、力の限り遠くへ、投げる。ウィンドミルの要領で、大きく腕を回し、天高く。
 一瞬、全員の目が宙へ放られた木箱に集中した。
(今!)
 足の痛みが脳天に突き抜けるのを感じ、顔が歪んだ。踵を返しながら無言で裕貴の左腕を掴み、引っ張る。
「な」
 目を見開き、勢いにつられて転げるようについてくる裕貴。
 動きに気づいた村主と恵が行動を起こそうとした時には、公園を覆う木々の中に二人の姿は紛れ込んでいた。
 すぐに追ってくるだろう彼らから逃れる術は一つだ。
 京輔は電灯がなく暗い木影に滑りこむと、ショルダーバッグのジッパーを全開にして、中から直方体の古い木箱を取り出した。
「どういうことなの、逃げ……」
 問い詰めてこようとする裕貴の文句を、桐箱を押し付けることでシャットダウンする。
 今裕貴がどういう顔をしているか、見えないのが残念だ。
「こっちが本物。知り合いの狐から預かった。どうやら連中これが狙いらしい。裕貴ちゃん、俺のこと調べたってことは家を知ってるよな?」
「何を」
「公園抜け出して安全な所に隠して。頼む。長船の姉さんは、俺の知り合いの狐は、俺が知ってる限り悪い奴じゃない」
「何をする気なの」
「俺が引きつける。裕貴ちゃんは、これを隠して、俺の家に伝えて。あの箱は自分が持ってるって。家の電話、繋がらなかったら親父の携帯電話に転送されるようになってるから」
「縁起でもない。私、あなたにまだ返事もしてないでしょう」
 暗がりから出ようとした京輔の服の裾を掴み、彼女は押し殺しながらも怒った声を出す。
 付き合えない、が返事ではなかったのか。あれは正式な返事ではなかったと受け取ってもいいのだろうか。
 死亡フラグっていうんだよなこういうの。
 俺が死んだら裕貴ちゃん悲しんでくれるかな。
 色々頭を掠める思いがあったが、最終的にそれらは一つの結論に辿り着く。
「あー、俺、やっぱ君のこと好きだわ」
 訪れたのは、刹那の間。
 僅かでも空隙があった分、吐き出された思いも大きかった。
「こんな時にふざけたことを!」
「真面目なんだけどな、ひでえなぁ」
 客観的に見れば苦境だが、京輔は欠片も動揺していなかった。
 守りたいものがあれば、守る者はいくらでも強くなれる。妖怪も、人も、種族も、きっと些末な壁だ。
 だからこそ、京輔は裕貴の為に体を張り、村主は恵の為に鼠を殺し、裕貴は無力な人の為に銃を向ける。それぞれに譲れない想いがあるように、あの狐にも何かがあるのだろう。
「大丈夫だよ、俺は五年前からのキャリアがあるから。三年前からの裕貴ちゃんに比べて少しは有利だ。それに、妖怪同士だから大事にはならない。いい? まずは、隠して、俺の家に連絡だからな」
 引き止めるように力を増した裕貴の手を振りほどき、京輔は木立の外へ躍り出た。
「はいはいはーい、真打登場です! 皆さん注目!」
 葉っぱと土にまみれた体で登場した京輔に、村主と恵が目を向けてくる。明らかに苛立ちと軽蔑を含んだ視線だった。
 恵が、真ん中が陥没した木箱を足元に投げて寄越す。こんなこともあろうかと忍ばせておいた代理の木箱は、粉砕されて無残な姿を横たえていた。
「よくもたばかってくれた」
 乾いた口調と千年の闇を背負ったような重さの口調から、これは狐の方だろう。
 ついでのように、京輔の格好を一瞥した村主が苦言を呈してくる。
「一応吸血鬼なら、弁えろよ、綾倉。それなりの格好ってもんがあるだろ」
「最初に失恋同盟破った奴に、らしくしろだの何だの言われたくないねえ。つーか石本、いい子だからその狐さんから離れなさい」
「私とこの娘は互恵関係にある。この娘はただの人間から脱却したい。私は人に復讐したい。何故、離れる必要がある? それはお前の都合だろう?」
 京輔は軽く舌打ちした。恵も狐も、都合のいい時しか互いに表に出ようとしないらしい。
 淀んだ微笑には、他者の理屈を捩じ伏せる頑迷さがあった。具体的に何があったかは知らないが、さぞ人を恨むようなことがあったのだろう。
 今復讐と口にしたことから考えて、手ひどい裏切りにでもあったか。
「ごもっともだけど、俺としちゃあ気になるんだよ。長船の姉さんには俺も世話になってるし、石本は同中だし。それと、村主。お前、石本にこんなことさせて満足かよ? 一番取れなくても、ちゃんと頑張ってるのお前知ってるだろ。こんなことやめさせてやれよ。石本の体使ってこいつがやってんのは、人であれ妖怪であれ、殺しだぞ」
 今は狐の意識が支配する恵の体を顎でしゃくり、京輔はこれで解決の糸口が掴めれば――少なくとも彼らの動揺を誘えれば、と思った。
 くっ、と村主が喉奥で笑声を立て、その楽しそうな音に目論見が外れたことを知る。
「綾倉。お前、相良に銃持たせて満足かよ? 陰陽師だか何だか知らねえが、今の世にそぐわないのはよく分かってるだろ。あんなことやめさせてやれよ。あいつのビジネスなんか知らねえが、人であれ、妖怪であれ、殺しも内容に入ってるんだろう?」
 村主は一見お人好しそうな顔貌で、柔らかく滑らかな語調で攻めてくる。
「それがいいのは、相良がお前にとって正義のヒロインだからか? 悪いモンを殺すのは正義だからか? 本当にあいつがやってることって誰から見ても正しいって言えるのかよ?」
 京輔は頭を掻き、正直に言うしかないかと肩をすくめ、ポケットの中に右手を突っ込む。
「いやあ……正直」
「正直?」
「好きだから、あんまその辺気にならねえや」
 返答に、村主は愉快そうに目を細めた。
「俺も、右に同じィー」
 じりじりと、物理的にではなく距離を詰められている。攻撃の予兆がじわじわと京輔に忍び寄ってくる。
 説得が不可能なのはよく分かっていた。ただ、少しでも時間が欲しかった。
 指先が、ポケットの中に入ったライターを掴む。百円の安物ではない、父親から無断で借用したジッポーだ。
 左手はショルダーバッグにもぐらせ、筒状のものを探り当てる。
「引き離しておいて何だけどさ、二人とも、いや、そこの狐を入れたら三人か。よく俺の相手してくれる気になったな?」
「放っておいても、あの娘はこちらへ戻ってくる。それより先に、お前を始末した方がよさそうだ。何やら玩具を持ってきたようだしな。遊んでくれるのだろう?」
 恵の目が、ショルダーバッグを射抜く。
 バレたという思考が脳から届くよりも早く、京輔は左手で掴んだものを外に引き出し、ライターで火をつけていた。
「玩具じゃなくて、パーティのお菓子だぜ――っと!」
 軽口を叩きながら、それを地面に転がす。
 通常より短く作った導火線が燃え、白い煙が消えると同時、内部から火花が飛び散り、オレンジが筒の内部から四散した。
 爆発音と甘い匂い、煙が一瞬で全員の視界を塞ぐ。
「綾倉、てめえ、卑怯者!」
 村主が激しい煙に咳き込みながら文句を言っていた。
 学校で匂いに気づいていたくせにそれはお門違いだぞ、と京輔は心の中だけで反論した。
 恵の仮面を被った狐が顔をしかめる姿も、すぐに濃い橙色の煙に飲み込まれる。
 砂糖を煮詰めてカラメルにしてさらに色々と加えるという、まるで菓子のような工程を経てこの手製発煙筒はできあがった。村主に甘ったるい匂いを指摘された時は内心どきりとしたが、発煙筒の作成法が菓子作りと似ていることを知らなかったのが幸いだ。
 煙が風にあおられて目を刺激してくる中で、京輔はショルダーバッグの中から次の手を取り出した。
 通販で買った護身用器具――特殊警棒を手早く太ももにつけたホルスターに収納し、スタンガンを尻ポケットに突っ込み、スリングショットと催涙スプレーを手に提げる。合計一万円近くの出費だが、その程度で済んで安いと思うべきだろうか。
 オレンジ色の濃霧が晴れた時には、彼らは自分を探すだろう。その前に、どちらか一人でも仕留める必要があった。
 再び木立の中に埋没した京輔は、木々の間から幹に遮られない射線を探す。
 スリングショットを構え、パチンコ玉をセットする。本格的なものではなく、片手で紐を引ける簡単な仕組みのものだ。
 本来は人体に向けて撃ってはいけないが、吸血鬼相手に手加減をすればこちらが死ぬ。
 京輔はY字型に作られたスリングショットのグリップを握りしめ、村主の胴を狙う。どこか狭い一点へ確実に当てられる程、京輔の射撃技術は高くない。ならば必ず足止めできそうな、面積の広い部分を狙うに限る。
 ゴムをぎりぎりまで引き絞り、力が最大になった瞬間、放つ。
 風を切る音がして、真っ直ぐ銀色の玉がクラスメイト目がけて飛んでいく。
「ぐッ!?」
 村主が腹を押さえて、前屈の姿勢になった。見事、腹部に命中したらしい。
 くの字になった村主の体と苦悶の声で成果を確認し、京輔は木立から飛び出した。スリングショットは遠距離用で、ゴムを引く時間は近距離戦にはない。その場に約三千五百円を投げ捨てる。
 催涙スプレーの噴射口を向こうに回し左手に、スタンガンを尻ポケットから引き抜き右手に、両手に構えて地面を蹴る。
 腹を押さえている村主の脇を駆け抜け、恵の顔面に催涙スプレーを吹きつける。
 まともに目にかかれば数十分は身動きができない激痛を引き起こすが、恵に憑いた狐は鼻で笑っただけだった。
 飛沫が発射される刹那、どこからか飛来した一陣の風が京輔の手の甲を叩いて催涙スプレーを落とさせる。
 触れてもいないのに、どうやったのかスプレーの真ん中がひしゃげて地面に叩きつけられる。
「まだ!」
 右手がだめなら左手だ。
 耳に痛い電気音が鳴るスタンガンを突き出す。
「ほんに可愛い子供の遊び」
 色のない声音で呟かれたと共に、見えない力が京輔の腹を貫いた。
 腹を下部から巨大なハンマーで殴りつけられたかのように、決して軽くはない男子高校生の体が浮き上がる。
 力が京輔に触れた瞬間、生臭い獣の臭いが鼻を突いた。同時に、固く妙な温もりとざらつきがシャツ越しに違和感を訴える。
 それも一瞬のこと、そのまま勢い良く空中へ吹っ飛び、体は放物線を描いて植え込みに落下した。折れた枝が抗議の代わりに、京輔の皮膚へ数えきれない擦過傷を刻んだ。
「――ッてぇ……!」
 全身の骨が軋み、筋肉が打撲に喘いでいる。腹に伝った振動は脳へ伝い、呂律も回らない程京輔の頭をかき乱した。
 小さいとはいえ、植物の上に落下したのが不幸中の幸いだろう。
 傷に響かないよう浅く呼吸を繰り返す中で、ようやくスタンガンが右手から離れたことに気がついた。今の衝撃で落としてしまったらしい。
 呻きながら立ち上がろうとした京輔の腹に、瞬間移動をして真上に現れた村主が足を振り下ろす。人間の身体能力を遥かに超えた吸血鬼だからこその速度と力だった。
 へその上を踏みつけられ、胃と肝臓が、回復しきらない間に再来した攻撃を受けて悲鳴をあげた。それは現実の京輔の声となり、喉から迸る。
「は、お前も吸血鬼っていうから期待してたのに、なんてことねえな。身体能力も普通の人間並み、力も人間並み、おまけに使う武器は自分の体じゃなくて人間みたいな道具ときたよ」
 失望した、とでも言いたげな村主に、京輔は痛撃の余韻を噛み締めながら頬を引きつらせて笑ってみせる。
「悪い、が……リクエストに応える程、今、俺には、余裕がねえんだよ」
「吸血鬼のくせに、情けねえ。そんなだから、陰陽師の女なんかにいいように弄ばれるんだよ」
「その台詞、そっくり、お前に返すぜ。狐にいいように、化かされてるんじゃ、ねえの?」
 不快に思ったのだろう村主が、靴底で腹を抉るように円を描く。
 突き抜けた苦痛に、蛙が潰れたような声が出た。
 腔内にたまった唾を吐き出し、京輔は虚勢を張ってみせた。
「図星っ……かよ? にしても、お前、俺が吸血鬼ってどこで、知った? 一応、隠してたはずなんだ、がな」
「お前らが屋上で相談してる時に聞いたんだよ。吸血鬼の耳は特別製だ、知ってるだろ?」
「盗み聞きとは、悪趣味、だな」
「吸血鬼に聞こえるような所で話してるお前らが悪い」
「お前が、吸血鬼だなんて、誰が思うよ。普通に光浴びて、普通に授業一緒に受けて、普通に失恋してるお前が、さ」
 京輔は咳き込みながら、途切れ途切れに言葉を発した。
「……そうだな。俺は、昔にいたような純粋な吸血鬼じゃない。それほどの力を持つ吸血鬼はもう少なくなった。お前もそうだろ、綾倉。普通に人間に混じって生活して、人間に恋してる」
 そこで、ふと村主は足の力を弱めて京輔の腹を開放した。
 急に元の位置に戻ってきた胃が反動を訴えるが、京輔はなんとか嘔吐感を堪えて体を起こす。
 行動の自由があってもさして脅威とは思わないとばかりに、村主は興味を持った顔つきで尋ねてくる。
「お前、あの陰陽師のどこが良かったわけ?」
「お前と、理由は一緒かもな。お前、石本の一生懸命なとこ、好きなんだろ? 俺も、裕貴ちゃんの、そういうとこだよ」
 時間稼ぎにもならないが、京輔は村主に正直な想いを答えていた。答えなければ、こうやって裕貴を逃している自分を構成するものが、嘘になってしまう気がした。
 裕貴を一個人として意識したのは、バスケットボールを課題とした体育の授業だった。
 男女が混じって行われるこの授業で、普段何事も卒なくこなす優等生がミスをしたのが恋の始まり。
 ボールの操作は苦手なのだろうか、裕貴は何度もリングに引っかけ、バックボードに当てていた。シュート練習待ちの列と列がすれ違った時に悔しそうにしていた彼女の姿が今も目に焼き付いている。
 体育をさほど重要視している学校ではないので、教師は点を辛くしない。真面目に参加しているのが伝わればいいのは、優等生の裕貴にはよく分かっていたはずだ。
 それでも彼女は努力を続けた。
 一番になろうとかそういう気概ではなく、ただ単に、できないことが悔しそうに。
 昼休みに友人たちとふざけてバレーボールをしに体育館に入ると、一人黙々とシュート練習をしている裕貴をよく見かけた。
 恐らくはそれからだ。彼女がどんな人間か知りたくて、ただのクラスメイトとして接するだけではなく、一人の女性として接したくなったのは。
 改めてその想いに浸った京輔は、間近に立つ村主ではなく、もう一人の同級生に話しかける。
「石本。お前、努力してるって言ったよな。そうだよ。お前は努力してる。たまたま、じゃねえか。たまたま、お前の努力が他の、裕貴ちゃんとか、成績上位者に競り負けただけじゃねえか。自分を信じろよ。そういうお前を好きな奴が、お前の目の前にいるだろうが。ちゃんとお前のこと見てくれてるだろうが!」
 呼吸する度に舌の付け根から鉄さびの味がして、針で刺されるように気管が痛んだ。
 気力で無視を決め込み、京輔は離れた所にぽつんと立っている恵を見遣る。
「石本! 狐に手ぇ貸して、それでお前、幸せかよ! ただの人間程、幸せなもんはねえんだぞ!」
 恵を説得できれば、村主は恐らく手を出してこない。恵が狐の言いなりになっているのは、勉強のコンプレックスを誤魔化すためだ。ジレンマをなくすことができれば、馬鹿なこともやめてくれる。
 自分の身を守るためもあるが、中学から同じ学び舎に通っていた少女を救いたいという気持ちもあった。
 偽らざる本心と、自分の経験が言わせたその台詞を、石本恵はどう受け取ったのだろう。
 一瞬、水面に石を投げ込んだかのように動揺が見えたが、すぐさま波紋は消え去る。
 表面に出てきたのは、狐の方だった。
「うるさい小僧だ。あの娘が帰ってくるまでに、肉塊に変えておいてやろうか」
「おい、そんなことをしたら後始末が大変だぞ」
 村主が気色ばむ。
 さすがにクラスメイトがただの肉の塊になるのは見たくないのか、本気で死体の始末を考えているのか、他人の心を読むことはできないので分からない。
 京輔は時間を稼げるのはここまでか、と唇を噛み締める。
 ――打てる手は全部打った、後は逃げるしかない。
 右足に取り付けたホルスターに手を伸ばし、特殊警棒を握りこむ。
 軽く一振りすると、折りたたまれていた部分が伸びて長さが二倍になった。人間相手なら使える武器だが、吸血鬼と狐相手に一体どれ程持つものか。
「まだ闘志を失わないか」
 呆れたような吐息の直後、風の音が聞こえる。狐の視線が、こちらを向いている。
 何か巨大なものが向かってくる死の音が耳朶を打つ。
 京輔は横に跳び、転がる。受身をとった足がかかった負荷に耐え切れず、がくりと膝が落ちた。
 しまった、と体勢が崩れた京輔は後ろを振り向く。
「悪いな、綾倉」
 咄嗟に構えた特殊警棒をいとも簡単にへし折り、村主の強烈な蹴りが京輔の脇腹を抉った。
 肋骨が折れる嫌な音が体の内部から響き、破片が内臓に突き刺さる。せり上げた血液が喉を塞ぎ、容量に堪えきれなくなった口が開く。ごぽっ、と水音混じりの咳をして、おびただしい赤が京輔の服を、袖を、手を、地面を濡らす。
 凄まじい痛みに、京輔の思考は一瞬にして白くなった。  
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