闇色遺聞

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  16  

 重力に従って、血は裕貴の唇を伝い、京輔の唇へと滴る。滑りこむように、京輔の口内へ、一滴、二滴。
 血の味が混じり合い、どちらのものとも分からないくらい混濁する。感触など分からない。ただただ血腥さとお互いの熱だけが脳を痺れさせた。
 ややあって、京輔の喉が軽く音を立てた。
 どちらからともなく顔を離し、裕貴はようやく呼吸を再開する。頬に流れる血が熱いのは、息を止めていたからだけではないだろう。
 京輔は二・三度目を瞬くと、困ったようにへらりと笑ってみせた。
「うわあー……役得」
「あんたね!」
 その言い草はないだろうと怒りかけた裕貴だが、京輔が緩んだ表情をかき消して素早くその肩を引き寄せる。
 彼は横たわった状態から体を起こすと、そのまま裕貴を抱え――跳んだ。人間離れした跳躍力で、人間ならば不可能な重みを抱えて、京輔は数メートルの高さを跳び上がる。
 驚きと抗議をあげかけた裕貴だが、少し前までいた場所が巻き起こった突風で抉れ、電灯が横倒しになるのを見て悲鳴を飲み込んだ。理不尽な暴力で完全に役目を放棄した電灯がひしゃげて、砂埃が舞い上がる。
 京輔は裕貴を抱えたまま木製アスレチックの縁に着陸した。体重を感じさせない身のこなしといい、皮膚から漂う気配といい、明らかにこれまでの京輔ではない。瞬き一つ、指先の動き一つとっても超然として浮世離れしている。
 京輔は苦笑して呟いた。
「ああ、やっぱりこの状態なら見えるね。俺をボコボコ殴ってきたの、狐の尻尾だったのか」
 恵の背後から立ち昇る霊気が、狐の尻尾の形をしていた。
 気配であって本物の狐の尻尾ではないはずだが、金色に輝く毛の一本一本まで、常人の目に見えないとは思えない程の存在感を放っている。
 しかし、彼はこれが見えなかった。見えないまま戦っていた。
 簡単に殴られた、といったが、語調のように軽いレベルの痛みではなかっただろう。
「裕貴ちゃん。あっちの狐、お願いできる? 俺、村主に用事があるからさ」
「いいけど、怪我は」
「……うう、痛い! あっ、もっかいチューしてくれたら治っ」
 即座に顎へ一発、容赦のない一撃を叩きこむ。
 京輔は頭をふらつかせ、引きつった笑いを浮かべた。
「す、すいません、調子に乗りました。――冗談はさて置き、俺は平気。血を飲むってのは儀式みたいなもんでね。今吸血鬼のスイッチ入ってるから、人間なら致命傷でも治っちゃう」
「そうみたいね、安心したわ」
 京輔の服は相変わらず真っ赤に染まっているが、傷は塞がったようだ。でなければあんな身軽な動きはできないだろう。
 安堵する裕貴に、京輔は怪訝そうな顔で未だ手に持っている桐箱を見た。
「何で持ってるの?」
「そこで鴉天狗と狐に会ったわ。敵だといけないから持ってきたの」
「鴉天狗って……景秀さん? 姉さんたち一緒に来てるのか。じゃあ後はあいつら倒すだけだな」
 こきりと首を鳴らし、京輔は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「裕貴ちゃん。怪我しないようにね」
「そっちこそ」
 京輔は裕貴の手からするりと桐箱を抜き取った。
「ありがと、これは俺が持っとく」
 言い終わるや、京輔はひらりとアスレチックの上から身を躍らせた。
 続いて裕貴も飛び降りた。手をついて衝撃を殺すくらいには高さがある。京輔のように膝を伸ばしたまま着地などとてもできない。
 そんな人間離れした存在になった京輔は、反撃開始とばかりに村主に顔を向けた。
「村主、さっきはよくも遠慮なく殴ってくれたな」
「頑丈な奴……」
「愛のパワーで蘇ったのさ!」
 村主の呆れ半分の口調に、京輔はそっくり返って言った。
 無視できない言葉に、気恥ずかしさとこんな非常時にという苛立ちをこめて、すり抜け様に背中を強く叩く。
 京輔が軽く抗議の声をあげたが、無視して裕貴は狐の前へ進み出た。
 顔は教室で見る石本恵そのまま、奇妙な薄ら笑いが張り付いている。
「似合ってないわよ、石本さん」
「うるさい」
 裕貴が声をかけた途端、乾いた笑みはぽろぽろと零れ落ちた。睨みつける視線は狐のそれに比べれば弱いが、その分感情が浮き彫りになっている。
「あなたに言われたくない。私は、あなたに負けない。陰陽師だからって、甘く見ないでよ」
「甘くなんて見てない。あなた、何で鼠の妖怪を殺したの? 今日もあんな人通りの多い所で」
 恵の表情が再び暗く時を経た淀みを漂わせる。
「奴らは、大罪を犯した。あれは小玉鼠というれっきとした妖怪だ。この国に古より伝わる化け鼠よ。にも関わらず、彼奴らは人間の家に住み着き、ただの鼠のように暮らし、あまつさえ人間の飼い猫に食われそうになると、命乞いをしたのだ。なんと情けない。あやかしの一として、生きていく価値もない」
「……そう」
 価値観というのはそれぞれだ。
 裕貴にはそれがどうしたと言いたくなることでも、この狐にとってはあやかしとしての矜持を踏みにじる一大事なのだ。
「狐の方の意見はよく分かったわ。じゃあ、石本さん。あなたは? 狐に体を貸していれば、自分が人間の中でも特別だと思っているから、こういうことにも手を染めるの?」
 図星だったのか、恵は唇を真一文字に引き結ぶ。
 背後で激しい物音がした。京輔と村主が揉み合っているのだろうか。
 振り返りそうになるのをぐっと堪える。
「小賢しい、陰陽師。まずはお前から始末してやる」
 狐の尻尾がぞわりと殺気を孕んで大きくなった。
 虎も一呑みする蛇のように、先端が鎌首をもたげる。
「逝ね」
 呪詛の響きが恵の唇から放たれると共に、尻尾が針のように鋭く尖り、裕貴を押し潰そうと頭上に広がった。
 尻尾が質量を伴い、風を切って降下してくる。
 その時既に裕貴はホルスターではなくポケットに手を入れていた。両手があけば、札も使える。
 早朝に身を清め、しかるべき方角を向いて古来よりの規律に則り、墨で記した霊符だ。
 裕貴が札を空中にかざすのと、押し潰そうと迫ってきた針のむしろが霊符に触れるのは同時だった。
 際どいタイミングに、こめかみを冷や汗が伝う。
 霊符は空中に浮き、常人には見えない狐の尾に張り付いた。
「ぐうっ、あああっ」
 呻き声を上げながら、恵が両腕でその体を抱えた。途中からそれは苦悶に変じる。
 帯電したかのように尻尾が震え、元々よくない恵の顔色がさらに白くなる。薄い目を見開いて、恵は詰問にすらならない言葉をこぼす。
「なに、何をし……っ」
 陰陽師というものが確立されて以来、千年に渡って使い続けてきた確かな退魔の札だ。
 この狐の年齢がどれ程のものかは分からないが、その呪法に抗える程の年月は重ねてこなかったと見える。
 思わず安堵の息を吐いた。
 本来陰陽師というのは、銃撃戦などよりもこちらの方が得手なのだ。もっと力があれば使い魔たちを自在に使役できるが、まだまだ一人前とはいえない裕貴にはそこまでできない。
 これが効かなかったら、狐だけを倒すことが不可能だった。
 裕貴はもう一枚、ポケットに折りたたんでいた霊符を取り出す。
 鴉天狗との戦いでもみくちゃになってしまっていないか、それだけが怖かったが、幸いにも札は無事だった。
 ひきつけでも起こしたかのように霊符の呪縛に打ち震える恵の額に、裕貴は霊符を差し出す。
 体内から悪しきものを追い出す、先程の攻撃的なものとは違うが同じく退魔の札である。
 額は第三の目、脳の霊的機関を司る。そこを封じれば狐も憑いてはいられなくなるはずだ。
 裕貴が霊符を額に触れさせる寸前、その手首を掴んだ者がある。
 石本恵だった。
「さ、させない……!」
 必死の形相で、霊符の威力に慄き力を削られながらも、深爪気味のそこを裕貴の手首に食い込ませてくる。
 皮膚に突き立てた爪が表皮を削り、裕貴は痛みに顔をしかめた。
 これは狐と恵の、どちらだろうか。
「嫌だ、嫌だあ……!」
 聞き分けのない幼児のように、額へ近づいてくる札を食い止める。恵の眦を、うっすらと涙が縁取っていた。
 予想以上に、抵抗が強い。
 拳銃で脅せば大人しくなるかもしれないが、今ホルスターに意識をやれば押さえている力が緩んでしまうだろう。
 焦る裕貴と、狐であり恵である女との攻防が完全に均衡状態に陥る。
 恵の爪が血管を傷つけ、肘へと赤い筋が流れていった。
 力を少しでも緩めた方が負けだ。
 お互い一歩も譲らない膠着状態を打開したのは、一陣の風だった。


 京輔が拳を握って跳びかかると、村主は体をのけぞらせて距離を置いた。
 間合いを一足で詰めて、勢いを乗せて前蹴り――左にかわされ、体を一回転させながらのハイキック――これも下方へしゃがんでかわされる。
 村主は格闘慣れしているのか、曲げた膝を伸ばすはずみを利用して京輔に掴みかかってくる。
 村主の手が桐箱に伸びるのを見て、京輔はあわててバックステップを踏んだ。
「油断ならねえな! そんなにこれ欲しいかよお前!」
「当たり前だろ!」
 体の部位が動く度に、二人の拳や足が相手に届こうとする度に、鋭い風切り音が周囲を叩く。
 二人とも人間の視認速度を超えて動いている。
「さっきまでただの人間だったくせに……!」
 村主が焦燥と苛立ちを吐き出しながらパンチを繰り出してくる。
「今は余裕あるからリクエストに応えてやろうか、村主」
「ざけんなっ」
 村主の攻撃がぶれ始めた。
 京輔を狙ってのキックが雲梯に当たり、轟音と共に真っ直ぐだった鉄の棒が折れ曲がる。
 京輔はひゅー、と口笛を吹いて鳥肌が立った感触を誤魔化した。さすがにまともに食らえば先ほどの二の舞だ。人間のままあれを受けてよく無事だった。
 いや、違う。先ほどはこんなに強烈ではなかった。
 続いて湧いてきた疑問を、京輔は村主の攻撃を軽快にかわしながら口にする。
「お前は俺と違ってずっと吸血鬼なんだから、あのパワー全開のまんま出せたはずだよな。何で俺には加減したわけ?」
「黙れ!」
「優しいじゃん、村主。――その優しさ、向ける方向間違えてねえか、お前っ!」
 京輔は村主の殴打をぎりぎりのところでかわすと、襟首を掴んだ。
 言い終わり様、京輔はその襟首を引き寄せ、村主の眉間めがけて頭突きを食らわせる。
 今の京輔はただの人間ではない。具体的に比較してどれほど人間と差があるかは知らないが、平衡感覚を失うくらいにはダメージを与えられるはずだ。並の人間なら比喩表現などではなく、おそらく頭が割れている。
 突いた京輔の方にもかなり衝撃がきた。脳みそがシェイクされるような感覚と、骨を伝って背骨が軋む音がする。
 された方の村主は、二・三歩後ずさると、頭を押さえて膝をついた。
「く、そ……っ! 何で、さっきまで、人間だった奴に!」
 悪態をつきながらも、村主はそれ以上立ち上がってこようとしなかった。
 立ち上がれないというのが本当のところだろうか。
 体を支えるために地面に手を置いているし、肩も不自然にふらふらしている。
 息をするのも億劫そうな村主に、京輔は静かに声をかけた。
「村主。俺、大事な人のためにそういうのやるの、別に間違ってるとは思わねーし、説教する気もねーよ。けど、目的果たしたところで石本幸せそうに笑うのかなーって思うと、別にあいつ笑わない気がするのは俺だけか?」
「……分かってるんだよ、その程度」
 村主としてはそれ以外に方法がなかったのだろう。
「ちきしょう。お前に負けるの、地味に悔しいわ」
「ま、そこは怪我させられたのとおアイコってことで」
 村主からはもう覇気を感じられない。戦おうという意思は恵の目的を達成するためで、さほど強くはなかったのだろう。だからクラスメイトの京輔に加減もしてくれた。
「何でお前、トドメささねーんだよ」
 村主がまだ焦点の定まらない目でこちらを見上げ、愚痴のように言ってくる。
 京輔は首を巡らせて、何やら言い争っているクラスメイトの女子二人組を見つめた。
「何でって、まあ――好きな女の子の前なら、いいとこ見せたいだろ」
「じゃあ、お前だけだったら殺したのかよ」
「いーや。その代わり、当面の宿題、全部代わりにやってもらったね。今は勘弁してやる」
 はっ、と笑いなのか軽蔑なのか、村主の口から息がもれる。
「馬鹿じゃねえの? 殺されかけて、何で殺さないんだよ」
「んー。何て言うか、気分? 元々俺平和な国に生まれた平和主義者だし」
 あまりといえばあまりな答えに、村主はそのたくましく整った顔貌を歪めた。
 不快そうな表情は、次の台詞にプライドを刺激されて引きつった。
「だって俺、お前より強いし。殺されかけたくらいで、別に殺すこともないだろ」
「お前、むっかつく!」
「はぁ? 先に手ェ出してきといて、逆ギレじゃねーか!」
「逆ギレも何も、お前傷心同盟結んだくせに相思相愛じゃねーか! 俺と恵を見ろ! 一方的に俺が使われてるだけだぞ!」
「そりゃお前の女見る目がないんですぅー! あと傷心じゃなくて失恋って言ったよな。俺はともかくお前完全失恋じゃねーか! つーか何でまだ石本を好きなんだよお前!」
「惚れたもんは仕方ねえだろ!」
「気持ちだけは分かるけど、村主。お前絶対結婚詐欺とか引っかかるタイプだな」
「あ? 何だったら第二ラウンドするか? 綾倉」
「望むところだ、かかってこいよ。俺今絶対お前より強いしー?」
「血が儀式だとか言ってたよなあ? てことは制限時間とかあるんじゃねえの? お前ずっと吸血鬼ってわけじゃなさそうだし?」
「ばっ……馬鹿言うなよ、そんなすぐ切れるわけねえだろ」
「その言い方だとあるんだな? 耐久戦に持ち込めば俺の勝ちじゃねえか」
「短期決戦でもう一回脳震盪起こさせてやろうか、村主ィ!」
「上等だ、やんのか綾倉!」
 もう恵も裕貴も妖怪も桐箱も関係ない、ただの口喧嘩から二回戦の火蓋が切って落とされようとする。
 その空気を止めたのは、公園に巻き起こった一陣の風だった。
 
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